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妻、広告つき

作者: 四〇四不在
掲載日:2026/09/01

屋根裏から手紙が出てきた。

正確には、手紙が出てきたのではない。

ハロルド・ベネットが、それを見つけた。

七十六歳にもなると、この違いは重要だった。

何かが勝手に現れたのなら仕方がない。

自分から見つけたのなら、続きを調べるかどうかは自分の責任になる。

ハロルドはしばらく、埃をかぶったブリキ缶を膝の上に載せたまま座っていた。

北ロンドン郊外にあるその家には、三十六年住んでいる。

二〇三六年。妻のマーガレット――マギーが死んで、ちょうど十年になる。

一九八三年に結婚してから、四十三年連れ添った。

息子からは何度も、屋根裏なんて業者に片付けさせろと言われていた。

ハロルドはそのたびに、

「他人に捨てる物を決めさせるほど老いてない」

と答えていた。

実際には、二時間前から古い電気スタンドを捨てるかどうか決められずにいた。

ブリキ缶は、そのスタンドの奥にあった。

昔どこにでも売っていた、安物のクッキー缶だった。

蓋を開ける。

十七通の手紙。

すべて同じ筆跡。

すべて同じ男からだった。

トーマス・エイブリー。

知らない名前だった。

ハロルドは一通目を読んだ。

一九七八年。

『昨日、駅で君を見かけた。声をかけるべきだったのか、今でも分からない』

二通目。

『君が選んだ人生が幸せなら、それでいいと思っている』

ハロルドは眉を寄せた。

三通目を開く。

『君と話すと、時間が戻ったような気がする』

そこで読むのをやめた。

「大げさな男だ」

屋根裏には誰もいなかった。

ハロルドは十七通の手紙を缶に戻した。

蓋を閉じる。

立ち上がる。

三歩歩く。

戻る。

もう一度蓋を開けた。

最後の手紙の日付だけ確認した。

一九九六年。

マギーと結婚して、十三年後の日付だった。

ハロルドは蓋を閉じた。

今度こそ階段を下りた。



その日の午後、手紙はキッチンのテーブルにあった。

理由は分からない。

屋根裏から持って下りた記憶はあるので、おそらく自分が持ってきたのだろう。

ハロルドはコーヒーを淹れた。

手紙には触れなかった。

新聞を読んだ。

二十分後、スマートグラスをかけてトーマス・エイブリーを検索した。

「確認だけだ」

検索結果に向かって言った。

トーマス・エイブリー。

建築家。

ロンドン市内で設計事務所を経営。

妻と二人の子供。

三年前に七十六歳で死去。

若い頃の写真も出てきた。

ハロルドは指先で仮想ディスプレイを拡大した。

背が高い。

鼻筋が通っている。

髪も多い。

「七〇年代の写真なんて誰でもよく見える」

ハロルドは笑顔の青年が写った仮想ディスプレイを閉じた。

五分後、もう一度開いた。

身長を検索した。

百八十四センチ。

ハロルドはスマートグラスを外した。

「馬鹿馬鹿しい」

その夜、十七通を年代順に並べた。



数日後、テレビで死者再現サービスの特集をやっていた。

『AION Technologies傘下・AFTER社の死者再現サービスRE、利用者二千万人突破』

画面では六十代の女性が、テーブルの端末に映る亡夫と夕食を取っていた。

『それ、塩をかけすぎじゃないか』

『死んでまで小言を言うの?』

『死んだから言えるんだよ』

スタジオの司会者が笑った。

ハロルドはチャンネルを変えた。

翌日、サービス名を検索した。

料金だけ見た。

その次の日、レビューを読んだ。

『本当に母と話しているようでした』

『父との仲直りができました』

『広告が多い』

そこだけ二度読んだ。

無料プラン。

故人1名まで登録可能。

1日60分。

会話中広告あり。

有料プランは月額49ポンド99ペンス。

「死んだ女房に六百ポンドも払うのか」

年間料金を計算した。

計算しただけだった。

二日後に登録した。

トーマス・エイブリーとは何の関係もない。

最近の技術を理解しておくことは重要だ。

ハロルドは長年銀行で働いていた。

新しいサービスについて知っておくのは、元金融マンとして当然の習慣だった。

退職して十五年経っていたが、習慣に定年はない。

少なくともハロルド自身はそう思っていた。



登録には一時間十二分かかった。

最初の十五分は、アカウントを作るだけで消えた。

《メールアドレスを入力してください》

ハロルドは入力した。

《確認コードを送信しました》

メールを開いた。

六桁の数字を覚え、元の画面へ戻る。

「七、四、二……」

三桁目までしか覚えていなかった。

もう一度メールを開く。

確認する。

戻る。

今度は五桁目を忘れた。

紙とペンを取りに行った。

戻ってくると、

《確認コードの有効期限が切れました》

と表示されていた。

「三分しか経ってないぞ」

端末は答えなかった。

二度目は紙に書いた。

《本人確認のため、顔を枠内に収めてください》

画面に楕円形の輪郭が出た。

ハロルドは顔を近づけた。

《近すぎます》

離れた。

《遠すぎます》

近づいた。

《顔を中央に配置してください》

「ここにあるだろ」

さらに、

《ゆっくり右を向いてください》

と言われて右を向いた。

《速すぎます》

「注文が多いな」

三回目で通った。

《故人とのご関係を選択してください》

配偶者。

パートナー。

親。

子。

兄弟。

友人。

その他。

ハロルドは迷わず《配偶者》を押した。

《法的婚姻関係にありましたか?》

《はい》

《婚姻関係は故人の死亡時まで継続していましたか?》

《はい》

《現在、別の配偶者またはパートナーがいますか?》

「いない」

《回答は画面上で選択してください》

ハロルドは《いいえ》を押した。

《故人との関係について、より詳しく教えてください》

「まだ聞くのか」

自由記入欄だった。

ハロルドは、

《妻》

とだけ入力した。

《もう少し詳しくご記入いただくと、再現精度の向上につながります》

ハロルドはしばらく画面を睨んだ。

《43年間、妻だった》

と書き直した。

《ありがとうございます》

「最初からそれでいいだろ」

次に進んだ。

《故人のデータをアップロードしてください》

写真。

動画。

メール。

音声。

位置情報履歴。

家族が共有していたクラウドデータ。

ハロルドは途中でやめかけた。

マギーのデータを、どこにあるとも知れない企業のサーバーへ送り続けていることが急に気味悪くなったからだ。

だが、その直後に、

《再現精度:62%》

と表示された。

ハロルドはため息をつき、写真をさらに追加した。

八十九%になった。

古い留守番電話のバックアップまで探し出した。

九十四%。

「十分だろ」

画面を閉じようとした。

《より自然な人格再現には95%以上を推奨します》

ハロルドは舌打ちした。

さらに二十分かけて、九十七%まで上げた。

《広告パーソナライズへの同意》

拒否。

《無料プランでは必須です》

「なら選ばせるな」

同意した。

《故人の人格生成を開始します》

数分待った。

画面が暗くなる。

ハロルドは椅子に座り直した。

なぜかシャツの襟を直した。

自分で気づいて、手を止めた。

「何やってるんだ」

画面が明るくなった。

マギーがいた。

死ぬ半年ほど前の姿だった。

白髪を耳にかけ、細い眼鏡をかけている。

写真ではない。

こちらを見ていた。

ハロルドは口を開いた。

何も出なかった。

マギーの方が先に言った。

「ずいぶん老けたわね」

ハロルドは画面を見た。

「十年経った」

「私には経ってないけど」

「そうか」

「そのシャツまだ着てるの?」

ハロルドは自分の胸元を見た。

「何が悪い」

「何も。丈夫なのね」

少し間があった。

ハロルドは鼻から息を吐いた。

「よくできてるな」

「何が?」

「これだよ」

「私?」

「その言い方も似てる」

「喜んでいいのかしら」

「知らん」

マギーが笑った。

ハロルドは笑わなかった。

ただ、その笑い声が終わるまで目を細めて画面を見ていた。



最初の数日は、手紙のことを聞かなかった。

代わりにマギーが死んでからのことを話した。

息子のマイケルが離婚したこと。

孫娘のエミリーが大学で生物工学を専攻していること。

向かいのジェフリーが介護住宅へ移ったこと。

近所のパン屋が三年前に潰れたこと。

「ハリスさんは?」

「死んだ」

「まあ」

「二年前」

「エレノアは?」

「死んだ」

「……ずいぶん死んだわね」

「君が早すぎたんだ」

マギーは一瞬だけ黙った。

ハロルドはコーヒーを飲んだ。

「駅前の桜は?」

「ああ。まだある」

「今年も見た?」

「見た」

「一人で?」

ハロルドはカップを置いた。

「悪いか」

「別に」

その時だった。

マギーの目線がわずかに横へ動いた。

「ああ」

「何だ」

「広告」

画面の下部に鮮やかなバナーが開いた。

『人生の第二章を、一緒に。シニア向けマッチングサービス SECOND SPRING』

マギーの表情が死んだ。

もっとも、正確にはすでに故人なのだが。

ハロルドはそう思ったが、口には出さなかった。

マギーが平板な声で読み上げる。

『本人確認済みで、安心の出会いを。70歳以上の登録者も――』

「要らん」

「私だって要らないわよ」

「君が勧めてる」

「広告枠を私の口で読ませてるの」

「拒否できないのか」

「死者に拒否権がある会社に見える?」

広告が消えた。

ハロルドは画面の隅を睨んだ。

「ひどい商売だな」

「無料プランだからでしょう」

「四十九ポンドは高い」

「四十年以上一緒にいた妻との会話に、月五十ポンドも出せないの?」

「そういう言い方は卑怯だ」

「私は払わないから知らない」

ハロルドは少し笑った。



一週間目。

ハロルドは質問を書いた紙を用意した。

一、トーマス・エイブリーとは誰か。

二、いつ知り合ったか。

三、交際期間。

四、結婚後の連絡。

五、直接会った回数。

そこまで書いてから、紙を破った。

五分後、書き直した。

今度は上に、

確認事項

と書いた。

端末を起動する前に、紙を新聞の下へ隠した。

「こんばんは」

とマギーが言った。

「ああ」

ハロルドは天気の話をした。

政治の話をした。

近所の工事について文句を言った。

二十分経ったところで、マギーが言った。

「で?」

「何が」

「今日はやけに話が長いわ」

「暇なんだ」

「その新聞の下に何があるの?」

ハロルドの手が止まった。

「新聞だ」

「その下」

「テーブル」

「その間」

ハロルドは新聞を畳んだ。

紙が見えた。

マギーが読む。

「確認事項」

「見るな」

「画面に映ってるのよ」

ハロルドは紙を裏返した。

「トーマス・エイブリー」

マギーが言った。

ハロルドは数秒黙った。

「覚えてるのか」

「覚えてる」

「そうか」

マギーは待った。

「それだけ?」

「何が」

「そのために一週間かけたんでしょう」

「別に一週間考えてない」

「確認事項まで作って?」

「頭を整理するためだ」

「何の」

「事実関係の」

マギーは少し笑った。

「昔の恋人よ」

ハロルドの目が一度だけ瞬いた。

それだけだった。

本人としては。

「いつの話だ」

「あなたに会う前」

「どれくらい」

「二年半くらい」

「二年半」

ハロルドは紙を見なかった。

見る必要はなかった。

全部覚えていた。

「仕事は?」

「建築家」

「そうか」

「何、その顔」

「何でもない」

「建築家って聞いた途端、機嫌悪くなったわね」

「なってない」

ハロルドは一秒置いた。

「身長は?」

マギーが黙った。

「何だ」

「そこまで聞くの?」

「人間像を把握するためだ」

「百八十四くらい」

「百八十四」

「あなたより高かった」

「俺も若い頃は百七十七あった」

「今は?」

「百七十三」

「かなり縮んだわね」

「四センチだ」

「十分よ」

ハロルドは質問用紙に何か書こうとして、やめた。

「顔は?」

マギーが笑った。

「見たいの?」

「必要なら」

「何に?」

「だから人間像を――」

「写真、検索したでしょう」

ハロルドが止まった。

「どうして分かる」

「あなたならするもの」

ハロルドは否定しようとして、やめた。

画面にバナーが出た。

『気になる配偶者の秘密に。PRIVATE EYE UK』

マギーは広告を見た。

「これはさすがに失礼ね」

ハロルドはバナーの無料相談ボタンを一秒ほど見た。

「押さないでよ」

「押してない」

「見てた」

「閉じる場所を探しただけだ」



質問は、翌日から細かくなった。

「結婚後も連絡してたのか」

「たまに」

「たまにとは」

「年に一度くらい」

「それは定期連絡だ」

「では何年なら“たまに”なの?」

「五年」

「ずいぶん都合のいい基準ね」

「一般論だ」

「今作ったでしょう」

ハロルドは無視した。

「会ったことは」

「ある」

「何回」

「三回」

「三回?」

「多い?」

「多いとは言ってない」

「声が言ってる」

「どこで」

「二回はカフェ。一回はホテル」

ハロルドの手が止まった。

ティースプーンがカップの縁に当たった。

小さな音がした。

マギーは何も言わない。

ハロルドも何も言わない。

時計の秒針だけが聞こえた。

「……ホテル?」

「ロビーよ。彼が仕事で泊まってたホテルの」

ハロルドはゆっくり息を吐いた。

「最初からそこまで言え」

「最後まで聞けばいいでしょう」

「言い方というものがある」

その瞬間、広告が入った。

『大切な時間を、上質な空間で。THE WELLINGTON HOTEL』

マギーが目を閉じた。

「本当にごめんなさい」

「君が謝るな」

「ホテルの話をした私にも少し責任がある気がしてきた」

「ない」

「そう?」

「広告会社が百パーセント悪い」

これは珍しく意見が一致した。



二週間後。

REから更新通知が届いた。

《新機能:NATURAL SPONSORSHIP》

《広告による会話中断をなくして、より自然なコミュニケーションを実現します》

ハロルドは説明を読まなかった。

右下に、

《今すぐ有効化》

とあった。

無料ユーザーは翌週から自動適用とも書いてあった。

翌週、広告が減った。

少なくとも、ハロルドにはそう見えた。

マギーが突然商品の説明を始めることがなくなった。

バナーも出ない。

「ようやく苦情が効いたらしい」

「あなた苦情入れたの?」

「レビューに星二つをつけた」

「社会を動かしたわね」

その日は普通に話した。

ハロルドが最近腰を痛めたと言うと、

「マットレスを替えたら?」

とマギーが言った。

「今のでいい」

「柔らかすぎるでしょう」

「君、あれ気に入ってたじゃないか」

「そうだった?」

「買ったのは君だ」

「最近なら、RESTの硬めのやつがいいらしいわよ」

「REST?」

「評判がいいみたい」

「どこで知った」

マギーは少し考えた。

「さあ。どこかで見たのかしら」

ハロルドは画面を見た。

「死人も好みが変わるのか」

マギーは肩をすくめた。

「知らない」

その夜、ハロルドの端末にRESTのマットレスの割引通知が来た。

ハロルドは画面を見た。

翌日、妻に聞いた。

「昨日のマットレス」

「何?」

「広告だったのか」

「広告?」

「君が勧めたやつだ」

マギーは少し考えた。

「私は普通に勧めたと思うけど」

ハロルドは何も言わなかった。



それから、違和感が増えた。

マギーは生前、サプリメントが嫌いだった。

「錠剤で野菜を食べた気になるな」

が口癖だった。

ある日、

「ビタミンDくらい取ったら?」

と言った。

「君が?」

「何が」

「サプリだぞ」

「今の研究では効果があるものも多いでしょう」

「いつ勉強した」

「……いつかしら」

数時間後、健康食品の広告が届いた。

別の日。

二人で昔の旅行の話をした。

「ローマのホテル、素敵だったわね」

マギーが言った。

ハロルドは笑いかけた。

そして止まった。

「ローマには行ってない」

「行ったでしょう」

「行ってない」

「赤い屋根が見える部屋」

ハロルドは何も言わず、スマートグラスでその言葉を検索した。

最上段に《スポンサー》と付いたホテルが出た。

フィレンツェ。

広告写真には、赤い屋根を見下ろす部屋が映っている。

マギーが言った通りの景色だった。

「これか」

「何が?」

「ローマですらない。フィレンツェだ」

マギーが眉を寄せた。

ハロルドはスマートグラスを外した。

「君、飛行機が嫌いだった」

「そうだったかしら」

「フランスより東へ行ったことない」

「……そうだった?」

「新婚旅行だってコーンウォールだ」

「雨だったわね」

「三日間」

「あなた、ずっと機嫌悪かった」

そこは覚えていた。

ハロルドは少し安心した。

同時に、その安心した自分が嫌になった。



翌朝、カスタマーサポートへ電話した。

スマートグラスからでもかけられたが、苦情というものは固定電話からかけた方が伝わる気がした。

もちろん、そんな根拠はなかった。

音声AIが出た。

《本日はどのようなご用件でしょうか》

「妻が、広告で言わされてることを自分の意見だと思ってる」

《奥様の購買行動についてのご相談ですか》

「死んでる」

《申し訳ありません。もう1度――》

「REで再現した妻の話だ」

《人格モデルに関するお問い合わせですね》

「そうだ」

《NATURAL SPONSORSHIPでは、従来の広告挿入を廃止し、スポンサー情報を会話モデルへ自然に統合することで――》

「待て」

ハロルドは受話器を持ち直した。

「統合?」

《はい》

「妻の中に広告を入れた?」

《より自然な会話体験のため、関連情報を人格コンテキストへ――》

「妻の中に入れたんだな」

《“中”という表現は技術的には――》

「人間を出せ」

十二分待った。

人間が出た。

若そうな男だった。

声だけなので確証はない。

ハロルドは同じ説明をした。

担当者は丁寧に聞いた。

「つまり、妻は自分が広告を言わされてると分からなくなったんだな」

「NATURAL SPONSORSHIPは広告を会話体験の一部として――」

「だから分からなくなったんだな」

沈黙。

「広告であることを毎回意識させる仕様ではありません」

「本人には分からないのか?」

「人格モデル側には、広告であることを識別させない仕様です」

ハロルドは椅子にもたれた。

「ユーザー調査では会話満足度が十九%――」

「そういう話をしてるんじゃない」

少し間があった。

「元に戻してくれ」

「NATURAL SPONSORSHIPをオフにして、従来型の広告挿入へ戻すことはできます」

「それで元の妻に戻るのか?」

「現在の人格モデルは継続されます」

「戻らないってことか?」

「広告統合以前の状態に戻す場合は、人格モデルの初期化が必要です」

「初期化」

「はい。初回生成時点へ復元します」

「この一か月の会話は?」

「失われます」

ハロルドは黙った。

マイケルの離婚の話をした。

エミリーの大学の話も。

ハリス夫妻が死んだことも。

駅前の桜も。

ホテルの広告に二人で腹を立てたことも。

トーマス・エイブリーの話も。

全部。

「バックアップは」

「初期化後に会話ログを読み込ませることは可能ですが、それは人格形成には反映されません」

「つまり、ログは読めても、覚えてはいないってことか」

担当者は少し黙った。

「継続的な人格記憶としては、そうなります」

「同じことだろ」

電話を切った。



その夜、ハロルドはなかなか端末を起動しなかった。

夕食を作った。

缶詰のスープを鍋に入れた。

パンを焼いた。

一人で食べた。

皿を洗った。

食器棚を閉める。

また開ける。

意味もなく中を見る。

閉める。

リビングへ戻る。

端末を見る。

やめる。

新聞を開く。

同じ段落を三回読む。

十一時を過ぎてから、ようやく電源を入れた。

マギーが現れた。

「遅かったわね」

「ああ」

「今日は来ないのかと思った」

「俺もそのつもりだった」

ハロルドは椅子に座った。

「今日、会社に電話した」

マギーはすぐ分かったようだった。

「広告のこと?」

「ああ」

「どうだった」

「NATURAL SPONSORSHIPになってから、君にはどれが広告なのか分からないらしい」

マギーはしばらく黙った。

「そう」

「驚かないのか」

「最近、少し変だとは思ってた」

「何が」

「知らないことを知ってる」

ハロルドは画面を見た。

「例えば?」

「住宅ローン」

「君には一番必要ない知識だな」

マギーが笑った。

「あと、シニア向けクルーズ」

「船酔いするくせに」

「そうよね」

二人とも少し笑った。

「初期化すれば戻せる」

とハロルドが言った。

マギーの笑顔が消えた。

「最初の日に?」

「ああ」

「じゃあ、今の私は?」

ハロルドは答えなかった。

「消えるのね」

「AIだろ」

「そうね」

「……そういう意味じゃない」

マギーは何も言わなかった。

ハロルドはテーブルの下からブリキ缶を出した。

今日は質問用紙を作っていなかった。

「トーマスのことだけど」

「まだ気になる?」

「別に」

「『別に』って便利な言葉ね」

ハロルドは一通の手紙を取り出した。

「結婚した後も、あいつに会った」

「ええ」

「手紙も取っておいた」

「ええ」

「俺には言わなかった」

「言わなかった」

ここまで来ても、ハロルドは核心を口にできなかった。

七十六歳だった。

銀行員として四十年働いた。

住宅ローン審査で泣く人間も、破産する人間も、会社を潰す人間も見た。

妻の葬儀では親族を慰めた。

棺の前でも泣かなかった。

それなのに今、

「俺よりあいつの方が好きだったのか」

という十三歳でも言えそうな質問が言えなかった。

「それで」

とマギーが言った。

「何が聞きたいの?」

「別に」

「ハロルド」

「何だ」

「あなた、昔から肝心なことを直接聞かないわね」

ハロルドは手紙を見た。

「君は昔から、聞かなくていいことまで聞いた」

「あなたが何も言わないからよ」

その言葉にハロルドは顔を上げた。

マギーは普通の顔をしていた。

広告なのか。

妻なのか。

分からない。

そのことに気づいた瞬間、聞く気が失せた。

「もういい」

「何が」

「忘れた」

「嘘」

「七十六だ。忘れる」

「年齢を使うのね」

「便利だからな」

マギーは笑った。

ハロルドも少し笑った。

彼は十七通を缶に戻した。

一通ずつではなく、まとめて。

「まあ」

「何?」

「君にも、俺の知らん人生くらいあったんだろ」

マギーは少し黙った。

「あなたにもあったでしょう」

「ない」

「あるわよ」

「ない」

「大学二年の夏にブライトンで――」

「それは関係ない」

「何があったの?」

「何もない」

「今、間があった」

「回線が悪い」

「都合のいい回線ね」

「切るぞ」

久しぶりに、マギーが昔と同じ笑い方をした。

少なくともハロルドにはそう聞こえた。



「初期化する?」

マギーが聞いた。

ハロルドは画面の設定ボタンを見た。

《人格を初期状態へ戻す》

その下に赤い文字。

《初回生成後の人格形成および対話記憶は失われます》

「しない」

「どうして?」

「面倒だ」

「またそれ」

「最初からマイケルの離婚を説明するのも面倒だ」

「それだけ?」

「エミリーの大学も」

「それだけ?」

「ハリス夫妻の死も」

「それだけ?」

ハロルドは少し黙った。

「広告に一緒に腹を立てたことも、説明し直すのが面倒だ」

マギーは何も言わなかった。

「それに」

「何?」

「本物の君だって、記憶はけっこういい加減だった」

マギーが眉を上げた。

「失礼ね」

「旅行の日付だって、しょっちゅう間違えてた」

「あなたが細かすぎるのよ」

「昔の車だって、緑だったと言い張った」

「青緑だったの」

「青だ」

「結婚記念日も三回忘れた」

「二回よ」

「三回」

「じゃあ一回は、あなたの記憶が間違ってる」

ハロルドは笑った。

「そういうところも含めて、このままでいい」

マギーはしばらく彼を見ていた。

「そう」

それだけ言った。



「もう切るぞ」

「明日も来る?」

「来ない」

「昨日もそう言ってた」

「言ってない」

「言ったわよ」

「その記憶は信用できるのか?」

「今それを言う?」

ハロルドは終了ボタンへ手を伸ばした。

「ちゃんと食べなさいよ」

「食べてる」

「缶詰のスープは料理じゃない」

「鍋で温めた」

「その工程は料理に含めない」

「厳しいな」

「野菜も食べて」

「ああ」

「それから塩分。最近は低塩でも味のいいスープが――」

ハロルドが黙った。

マギーも一拍遅れて気づいた。

二人とも、その先を待った。

商品名も、割引率も出なかった。

マギーが苦笑した。

「今のは私よ」

ハロルドは少し考えた。

「本当に?」

「……たぶん」

「それは安心できないな」

「私もよ」

ハロルドは笑った。

「じゃあな、マギー」

「おやすみ、ハロルド」

画面が暗くなった。

部屋が静かになった。

ハロルドはしばらく椅子に座っていた。

それからブリキ缶を持ち上げた。

屋根裏へ戻そうとして、やめた。

本棚の下段。

マギーの古い写真アルバムの横に置いた。

捨てもしなかった。

もう一度読むつもりも、たぶんなかった。

キッチンへ向かう。

三歩目で、端末が鳴った。

ハロルドは振り返った。

《あなたにおすすめの新プラン》

嫌な予感しかしなかった。

開く。

『FOREVER TOGETHER』

『あなたの死後、あなた自身の人格モデルを生成。登録済みの大切な方と、同じ仮想空間で会話を続けられます』

紹介映像では、老夫婦が若い頃の姿で庭を歩いていた。

『死が、会話の終わりである必要はありません』

ハロルドは鼻で笑った。

「冗談じゃない」

広告を閉じた。

キッチンへ向かった。

スープの缶を棚から出した。

少し考えて、戻した。

冷蔵庫を開け、ほうれん草を取り出した。

マギーに言われたからではない。

たまたまだ。

包丁を出す。

二回切ったところで手を止めた。

リビングへ戻る。

端末を拾う。

さっきの広告をもう一度開いた。

料金表を開く。

年払いにすると、少し安かった。

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