第2話 私は欠けているから―
―1―
午前中の授業を、僕は普通に受けた。
この学校は授業中席についていれば校則通りなので大丈夫、という暗黙のルールがある。
故に、例え大声で叫んでも、ゲームをしていても、先生は叱らない。
僕も授業中は眠ることが多く、今日もそうしようとしたが、目が冴えてしまい、起きていた。
ホームルームで突然転校生の美少女に告白されたのだ、無理もない話である。
僕は、隣にいる彼女――狗川黒を横目でチラチラと見たのだが、普通に勉強をしており、別段変わったことなどなかった。
彼女も、授業を普通に受けていた。
いや、違う。
彼女は普段通りにしてるだけなのだろうが、しかし、それは僕とクラス全体を驚嘆させた。
そして、彼女について知ったことが多々あった。
まず彼女は、サウスポーである。
しかし、左手が疲れたら右手を使うらしく、両手共に使えていた。
尚且つ、頭が相当よいらしく、英語の授業ではスラスラと英文を読み、日本語の部分すら英語にして読んでしまい、先生が慌てて制止したくらいだ。
二限目の数学も、三限目の古文も、興味本意で次々と指命・質問されたが、即、返答し、先生達を絶句させた。
驚いたのは四限目の体育の授業だ。
今日は男女に分かれての野球の授業だったのだが、何と彼女はホームランを二回も打っていた。
それだけではない、更に驚いたのは、その二階回のホームランにクラス全員がざわめき、野球部の準レギュラーの男子が彼女に直接対決を申し出たのだ。
準レギュラーの男子のポジションはピッチャーであったが、彼が三回投球し、狗川がヒットを打てれば、彼女の勝ち、という勝負。
結果は、一本目からホームランで、終わり。
彼女の凄さに、皆は驚嘆していた。
準レギュラー君は、泣いていた。
因みにホームルーム中の「あなたの彼女です」発言を冗談だと皆は受け止めていたため、僕はそのホームラン後も普通に授業を受けることが出来た。
が、しかし、何度か、彼女についてクラスメイトに本当に付き合っているのかを訊かれたが、僕はとりあえず違う、と答えておいた。
だって、知らないもん彼女のこと。
午前中に分かったのは、彼女は僕が思っている以上に完璧ということだ。
因みに、ここでいう彼女とは、付き合っている恋人の彼女という意味ではない、念のため。
そして午前中の授業が終わり、本来なら、友達のいない僕には窮屈なはずの昼休みがやってきた――
―2―
僕達は、図書室にいた。
この高校はクラスの教室がある第一校舎と、第二校舎に別れており、第二校舎の一階にあるこの図書室は本の墓場
ブックガッソー
と呼ばれている。
利用者が、殆どいないのだ。
本の墓場をどう読んだらブックガッソーになるのか全く分からないが、新品の本が殆ど読まれる事なく死蔵されていく様は確かに墓場と呼ぶのにふさわしい、のかもしれない。
だから、この墓場と呼ばれた場所は、僕にとっては学校の中の唯一の聖地だった。
一人で、いられるから。
今日はいつもいるハズの司書さんも見えていなかった。
一人だけ、僕より背の小さい眼鏡の男子が本を読んでいたが、とりあえずスルー。
「ここなら、落ち着いて話せそうですね」
僕は、入り口から一番遠く、前後に本棚があり一番人目につかないテーブルに座った。
因みに、僕達というのは、僕と謎の転校生、狗川さんである。
「確かに、いい場所ね」
僕が彼女に声をかけ、ここまで連れてきた。
狗川黒。
転校生、しかも美少女。
腰まで届くほどに長い黒髪。
挑発的な視線を送る、切れ長の瞳。
シャープな顎のラインと、ぷりっとした唇。
少し背が高いスタイル抜群のボディラインと、それを包む紺色のセーラー服。
転校前の制服なのだろう、僕達の高校の制服は白いセーラー服だ。
かなりのサイズがある、放漫な胸。
そんな狗川を、四限目の移動授業の混乱に乗じて、連れ出したのだ。
「ふふっ、いくら私が皆に注目されまくりの転校生だからって、人目を避けて…‥肉食なのね、肉食なのねぇ」
なぜ二度繰り返すの?!
そして彼女は、およよ、と嘘泣きを始めた。
紺色のブレザーの裾で、彼女は出てもいない涙を拭う。
「私、食べられちゃうのねメェ~」
そして彼女は小悪魔的な笑みを浮かべつつ羊のように鳴き、セーラー服の胸の赤いリボンに手をかけた。
いくらドン臭い僕にも、次の行動は予想出来た。
脱ぐ気だ。
「違いますから!」
とっさに、彼女の手を握り、制止する。
彼女はえーっ、と残念そうに小さく呟き、椅子に座った。
何なんだ、本当にこのヒト。
規格外過ぎる。
「あっ…‥」
手を握っていた事実に気づき、僕は少し胸が熱くなるのを感じた。
初めてだった、女の子の手を握るのは。
「ふふっ、握られちゃった♪」
柔らかかった。
傷一つない、まるで柔らかな宝石のような、手であった。
人間の手って、やわらかいんだ…‥
あ、いやいや、そんなことで感動している場合じゃない。
今、問題なのは、まず彼女が何者なのか、である。
「あの…‥僕、あなたと会ったことありましたっけ?」
「それは秘密ね」
即答だった。
驚くほどに早い回答で、僕は言及できなかった。
彼女はふふっ、と笑い、口をしっかりと閉じてしまった。
どうやら、よほど秘密にしておきたいらしい。
「秘密なんだ…‥」
僕も、そこまで秘密にされて、それを知ろうとするほど、野暮ではなかった。
彼女と会ったことがあるのかわからないが、彼女は僕を知っている。
それだけ分かれば、まあ、この際いい、そう思った。
彼女が僕のことを好きというのは、何かの間違いなのだから。
だから、詳しいことは知らなくていい。
「というか、あなた、誰なんです?」
でも、僕は訊いていた。
彼女の大体のことを知って、そして誤解を解こう。
こちらも彼女のことを少しは知らないと、否定しづらい。
僕は君を知らないし、君とは釣り合わないし、多分、何かの人違いであることを、伝えよう、そう僕は思っていた。
「そうね、自己紹介がまだだったわね。私は狗川黒、家庭の事情で隣町から引っ越してきた転校生よ。」
長い黒髪を手でなびかせ、彼女は言う。
雑然としていた。
さっくりとしていた。
というか、それぐらいホームルームの段階でご存知であった。
「あの…‥詳しくお願い出来ますか」
だから、僕がこう質問することも、当然の反応であろう。
「詳しく?そうね…‥」
彼女は自分の胸に手をあてて、頬を桜色に染めて僕を真っ直ぐに見つめる。
「Cカップよ」
一瞬、僕はその谷間を凝視してしまうが、その後すぐ目を逸らした――
「僕、今何も聞かなかったんで!!」
彼女は冗談よ、といって小さく笑った。
僕は、からかわれているのか?!
「でも、逸珂クン。私のこと、もう大体は知ってるじゃない」
規格外な彼女に、予想外の質問をされ、僕は少し驚いた。
「えっ?」
大体知ってるって、知らないですけど。
今日会ったばかりだし。
「例えば左利きだとか、運動神経抜群だとか、携帯はAUで、ストラップはドコモダケだとか、バイリンガル過ぎて教科書の日本語部分すら英語で喋っちゃうとか、野球部の全力投球を打ち返しちゃうとか」
僕は言葉が出なかった。
四限までの授業で彼女を見つめていたことを、彼女は完全に見抜いていた。
それを分かっていてなお、彼女は普通に、授業を受けていたのだ。
「今日のパンツは白のレースだとか」
彼女は視線を自分の足元に移す。
「ぶっ!?」
僕は、テーブルに頭を打ち付け、オーバーリアクション気味に驚いた。
「やだ、赤くなってる、かわいいっ」
彼女は本当に楽しそうに笑った。
多分、今日一番の笑顔であろう。
「からかわないでくださいよっ!」
僕は恥ずかしくなり、図書室内だというのに、叫んでいた。
今日は人がほぼいないからいいが、いつもならば怒られているだろう。
「ふふっ、喜んでるくせにぃ」
お見通しだった。
僕は彼女にからかわれて、困りながらも、多分、今、かなりにやけている。
結構、いや、かなり楽しい。
でも、それじゃいけない。
「うっ…‥いいですね完璧だと…‥僕とは大違いだ」
僕は、自嘲的な笑みをして見せた。
そう、彼女は完璧だから。
だから、僕とはあまりにつりあわない。
彼女の話を聞いて、僕はそれを痛いほど感じていた。
「ん?」
彼女は僕の様子の変化に、少し表情を曇らせる。
「僕はどうしょうもない低スペック人間だから」
僕は頬杖をしながら、俯く。
そうだ、僕はただただ、ルールに縛られているだけの存在。
他人に迷惑をかけていなければ、いつかは報われると思っている、人間。
「きっと、彼女とか好きとか、君の勘違いだよ」
僕は机に突っ伏した。
そう、多分、人違いだ。
君みたいな娘が、僕を好きなわけがない。
「そんなことないわ」
冷静だった彼女の語気が強くなる、椅子から立ち上がったようであった。
「私は全然、不完全な人間よ。欠けているの、三日月にように」
突っ伏した僕の背後から、彼女の声が聞こえる。
三日月って、かなり欠けてるじゃないか。
というか、欠けている部分が殆どじゃないか。
そんなことはない。
君は完璧だ。
四限までの授業中の君を見た僕には、分かる。
勉強も、運動も出来る。
僕以外の男と付き合ったほうがいい、もっと釣り合う奴と。
そう、君に似合った完璧な男子とばら色の高校生生活をエンジョイするべきなんだ。
授業中にメモ帳の切れ端を投げ合って、休み時間には常にイチャイチャし、登下校の際には手を繋いだりなんかしちゃったり、休日にはデートしたり、その後は家に泊まったり、まったり泊めたり、エトセトラ、エトセトラ‥
君は、そうあるべきなん――
「あなたがいて初めて、私は満ちるのよ」
机に突っ伏した僕の背中に、彼女が覆いかぶさる。
そして、驚くほどに柔らかい彼女の両方手の指先が、僕の両手を上から包む。
まるで指先から全身に暖かい光が走り、彼女に包まれているような感覚であった。
「えっ?!」
彼女の言う満たされている、とは、こういう感覚なのだろうか。
彼女も今、多分、満たされているのだろうか。
「ねえ…‥私、迷惑かしら?」
呼吸を感じる、彼女の、リラックスしきった息づかいを。
「べ、別にそんなんじゃ…‥」
背中に押し付けられた、放漫な胸から、心臓の鼓動を感じる。
彼女は全身から力が抜いたようで、心地よい重みを背中に感じた。
「じゃあ、私が迫ってあげる…‥ルール通りに生きて、息苦しくなってる逸珂クンを、私が境界線上の連れてってあげる」
彼女は、強く、僕の手を握った。
僕は、確かに、今までの自分が、ルール通りに生きることが息苦しかった。
でも、彼女は、その外側の世界へ、導いてくれる、というのだ。
いや、外と今の間、ルールを外れないギリギリのラインの上、境界線上の世界。
そして、僕も多分、同じように――
「って、もう時間なの?」
彼女が素っ頓狂な声をあげる。
予鈴が鳴っていた、授業開始5分前のものであった。
彼女は名残惜しそうに、僕の体から離れ、背後の本棚にもたれ掛かる。
僕は椅子から立ち上がり、そんな彼女と向き合った。
「でも分かったから、狗川さん。君が僕のこと好きだって、分かったから」
そう、彼女は、勘違いではなく、僕を好きなのだろう。
理由は相変わらず分からなかったが、それでも、それだけは、理解できた。
だから、今はそれだけでいい。
これから、彼女のことを知っていけばいい、境界線上の世界で――
「ありがとう、今日ほど生きててよかったと思った日はないわ」
オーバーだあな、と言おうとしたが、やめておいた。
きっと彼女は、大袈裟に言ったわけではない。
理由は全く分からないが、彼女は僕が好きなのだ。
だから、僕は、彼女と仲良くしていこうと思う。
「こちらこそ、よろしくね、狗川さ…‥はむっ?!」
僕の口は、彼女の手で塞がれた。
彼女はニコリ、と微笑んだ。
「く・ろ」
口の動きを強調し、彼女は自分の名前を言う。
下の名前で呼べ、ということだろう。
何となく、彼女の言いたいことが分かった。
「く…‥クロっ、行こ?」
初めて、僕は女の子を下の名前で呼んだ。
ちょっと気恥ずかしく、俯いてしまったが、彼女はそんな僕の手を、優しく握り締める。
「そうね、逸珂クン」
狗川黒は、僕の横に立ち、満面の笑みを見せた。
春の暖かい風が、開けっ放しだった図書室の窓から吹き、彼女の長い髪と、スカートを揺らす。
彼女は笑顔のまま、髪を手で押さえつつ、初めの一歩を踏み出す。
そして、僕達は走り出した――
つづく