第16話 だから先輩は我慢しなくて、いいんですよ?
―1―
僕を取り巻く状況は、最悪であった。
僕の彼女で転校先で優等生で能力者で美少女、狗川黒は生徒会と全面戦争をしていたのだ。
しかも、僕に何も言わないで。
生徒会長の話を全て鵜呑みにするほど馬鹿ではないが、計音と戦った次の日から彼女が僕を避けていた理由も、彼の言っていることで説明がつく。
彼女は最初から、僕の『デストラグル能力』が目当てで、最終目的は生徒会室(という名の天空の城)の『セントモノリス』の力。
信じたくないのに、黒は今日も僕の傍らにいてくれなかったから、信じそうになってしまっている弱い自分がいた。
そんなはずはない。
そんなことのために、僕に近づくわけがない。
大体、僕がまだ、あの力を使えるとは限らない。
使えないかもしれない。
というか、万全に使えて、更に強力な力なら、この状況に陥った僕は生徒会と表立って敵対している。
だから、違う。
彼女は僕の力が目的ではない。
そう、信じたかった――
「先輩、大丈夫だったっスか?!」
ドアを開けて薄暗い廊下に戻ると、向かい側の窓際に猿白砂麦が立っていた。
ずっと待っててくれたのだろうか、ハンカチをくしゃくしゃに握りしめて表情を曇らせていた彼女は、僕が無事であることを確認し、少し安心したようであった。
「さ、猿白か…‥」
はあぁ、とため息をつき、僕はとっさに彼女と目を逸らす。
今の僕にとって、彼女はまぶしすぎた。
いや、元々、僕には不釣り合いなんだが。
「本当によかったっス…‥逸珂先輩、私を置いていっちゃうんスもん!しかもこのドア全然開かないし!」
べしべし、と重力すら無視出来る筋力を誇る腕で、涙目の猿白は生徒会室の扉をぶん殴る。
しかし、この校舎の真上にある天空の庭に繋がる生徒会室の赤い扉は、傷一つついていないようであった。
頑丈すぎるだろう。
「先輩が、無事で…‥」
猿白は口をへの字にして言葉を呑む。
そして、赤くなった右手をさすりながら体を震わせ、潤んだ瞳で僕の顔を見つめた―
「でも、猿白…‥僕は…‥っ!?」
僕はまた、彼女に抱きしめられていた。
柔らかい胸に包まれ、前かがみに立ったままの状態の僕は視界を塞がれた。
「よかったっス…‥本当に…‥」
猿白は、ぐぎゅうう、と音が出るくらいに、僕を強く抱きしめる。
しかし、その柔らかさで、不思議と痛いという感覚はなく、ただひたすらに気持ちが良かった。
「先輩…‥大丈夫だから、もう怖くないから…‥」
彼女がまた、らしくない口調で、僕に語りかける。
まるで、無償の愛で包み込むような、優しい声。
温かく、まふわふわとした感触に、やはり僕は窒息しそうになる。
セーラー服と、汗と、フレグランスの香りがした。
この前は、この抱擁でかなり癒されたものだ。
しかし、今は―
「僕は…‥」
しかし、今は前回と状況が違う。
以前のようにはならない。
僕はもう、選択肢すらない深い絶望の中にいるのだ。
そう、僕は涙など流さない―
「な…‥なんでだよ――」
そう、思っていたのに、僕は彼女の胸の中で、涙を堪えていた。
また、この胸で泣くわけにはいかない。
今の僕は最低すぎるから、そんなことはしてはいけない。
でも反則じゃねえか、こんなの。
癒されるに決まっているだろ。
気持ちいいに決まっているだろ。
泣きたくなるに決まっているだろ。
僕に足りない欠けた心を、彼女が埋めていくような感覚に、僕は包まれていた。
「僕は…‥なんでこんなに…‥無力なんだよ…‥」
自分の意思を通すことも出来ず、彼女を助けることも出来ず、右往左往するだけの存在。
そんな僕が、こんなことをしていていいんだろうか。
こんなに、気持ちよくなっていいんだろうか。
「なんで…‥猿白は…‥僕のことを」
そうだ。
君は、なんでこんな僕を好きなんだろう。
僕は、ルールに縛られた根暗、容姿は中の下か、下の上。
君たちに会うまでは、なにもなかった男だ。
黒や猿白に会って、初めて、幸せを感じることが出来たのに。
「昔…‥交通事故を起こしそうになった時、あなたに助けられたから――」
彼女の言葉に、幼少の頃の記憶がフラッシュバックする。
僕と仲のよかった少女に起こった、あの事故。
僕が、デストラグル能力を発動させた唯一の出来事。
僕は少女の名前も忘れ、事件自体の記憶も欠如していたのに、彼女は覚えていたのだ。
その頃の面影ももうないだろうに、彼女は、分かっていたのだ――
「そうか…‥猿白、君が――」
僕は、胸から脱出し、抱きしめられたまま、猿白の顔を見つめる。
彼女は、瞳を潤ませて泣きそうであったが、必死に笑顔を作っていた。
泣きそうな僕の前で、精一杯強がって、彼女は笑っていた。
僕を包み込むために。
僕を、不安にさせないために。
彼女は、泣きそうな顔で、笑っていた。
「君が、僕が助けた女の子――」
君、だったのか。
幼稚園児だった僕が助けた少女は。
それが、君が僕を好きな理由。
それなら、全て説明はつく。
僕はこの学校で、君に出会ったのではなく、再会を果たしたのか。
なら―
なら僕は、君の胸で今、泣いてもいいよね。
僕は、もう限界だから。
色々なことが起き過ぎて、でも、選択肢はなくて、自分が無力で最低過ぎるから。
だから、もう、いいんだよね。
僕は、また、泣いていいんだよね。
なあ、猿白――
「だから先輩は我慢しなくて、いいんですよ?」
人けのない放課後の廊下に、茜色の夕焼けが包み込む。
そんな世界の片隅で、ちっぽけな僕は、一人の少女の胸に、自らの顔を埋
うず
めた。
そして僕は、声をあげて泣いた――
つづく