耳取り芳一
陰音と陽音。
俺はそう呼んでいる。
俺には、物心ついた時から不思議な力が備わっていた。気が付いたのは結構早い。幼稚園の時だ。悪口が聞こえたんだ――。
「ヨシくんは気持ち悪い」「来たら逃げよう」
そんな内容だったと思う。幼い俺を怖がらせたのは、その友達が目の前どころか遠く離れた場所にいたことだった。
あの日、俺は高熱で幼稚園を休んでいた。なのに、まるで耳元でささやかれているように、その会話がはっきりと聞こえてきた。
驚いて子ども部屋を見渡した。枕元には母さんにねだって買ってもらったマレーグマの縫いぐるみがいるだけだった。大袈裟に長い舌を出した表情がひょうきんで気に入っていたのに、急に俺を嘲笑っているかのように見えた。
気のせいだ――。熱にうなされて嫌な夢を見ただけだ。そう思って身体を横にしかけた、その瞬間だった。
『死んじゃえばいいのに――』
そう聞こえた。間違えなく、そう聞こえた。あれはタカシくんの声だった。
『きゃははははははは!!!』
あの声はリサちゃんだ。やめて、やめて、やめて、やめて――。耳を塞いで布団にくるまった。
翌日、嘘のように熱が下がって登園すると、ほどなく園長先生が言った。
「タカシくんとリサちゃんはしばらくお休みします」
保護者に残るよう小声で伝えているのがわかった。幼いなりに――いや、言葉の意味が理解できないほど、その空気には敏感になる。これはただ事ではない――そう直感した。
昨日はあんなに元気に自分の悪口を言っていたのに、何があったんだ。いや、あれは夢か――。そんなことを考えながら、ぼんやり中庭の滑り台を眺めていた。
何日後か、正確には覚えていない。タカシくんが久しぶりに園に戻ってきた。しんっとなったことだけは良く覚えている。誰も彼に話しかけようとはしない。いや、みんな恐怖と、話しかけて良いものか? そんな問いを小さな脳が処理し切れず、茫然としていた。
――タカシくんには耳がなかった。
あの場の誰より戦慄していたのは俺だ。自分のせいだ、そう思った。それはぼんやりした子どもの想像ではなく、事実だとわかっていた。
あの日、自分の悪口を聞いたあの日、俺は布団で妙な体験をしていた。きつく目を閉じた時、暗がりの中に『耳』を見たんだ。耳だけがぼーっとそこにあった。
無意識に手を伸ばした。自分に向けられる悪意を聞きたくないという思いが、目の前の耳を塞ぎたいという衝動に直結した。生ぬるい耳に触れた。その瞬間、それは腐ったようにどろりと溶けて、その場からなくなってしまった――。
何度か続けざまに現れる耳に触れているうちに、周囲は真っ暗になった。夢だと思っていた。
タカシくんが耳介を失った原因を聞いた時は、良く理解できなかった。俺が幼かったせいだけではない。
凍傷――。
『トウショウって何?』
恐る恐る聞いた俺に、母は答えた。
「体の一部が冷たくなり過ぎて、血が通わなくなって、その部分が死んじゃうことよ。タカシくんはかわいそうだったわね……」
その顔も明らかに動揺していた。
その月は八月だった。しかもタカシくんは園の砂場で、一瞬にして『耳だけ』凍傷になり病院に運ばれたという。到着した時には壊死が進んでおり、手の施しようがなかったそうだ。
その後リサちゃんに会うことはなかった。引っ越したのだろうか?
リサちゃんは――どうなったんだ?




