獣の顔
あっけなかった。
熊は背中を見せて林の奥へと逃げて行った。
その背中を見て、本当に熊だったのだと改めて認識した。自分の何倍にも思えるその巨体に、全身の力が抜けた。ひどい汗をかいていた。
完全にその姿が見えなくなって、やっと生きた心地がした。
「やっ……くん……」
気がかりなのは彼だ。
ゆっくりと振り返ったその顔は――熊だった。
*
「社長の異能――」
普通の人間なら、見間違いだろうと笑い出すところだ。
わたしは深く頷いた。
「君の考えている通りだ」
「社長はのっぺら顔だったんですね――」
そう、やっくんの異能は『のっぺら顔』。
一度でも会ったことのある人の顔ならすべて、完璧にコピーできる。人……? いや、人に限らないことは熊の一件で明らかになった。あの時やっくんは獣の顔で熊を威嚇した。
「君、やっくんの本当の顔を見るかい?」
「俺の知ってるのは、本来の社長ではない、ということですか」
耳取り芳一の彼が、やっくんの異能を見抜けなかった理由がそれだ。やっくんは声すら元の持ち主から奪うことができる。
彼の返事を待たずに、わたしはスマホをいじって、やっくんを撮った写真を表示させた。
「これは……」
予想していたことだろうに、ヨシカズくんは絶句した。
「社長と全然違う……」
「そうだろ? でも、これが本当のやっくんだ」
わたしの方こそ、最初にやっくんの姿をネットニュースで見かけた時は驚いた。わたしのよく知っている、もうこの世にはいない人間の顔をしていたからだ。
「俺の知ってる社長は――もっと不健康そうな……というか、学者風の顔をしてた。でもこの人は凄く――」
「健康的だろ? そして、強そうだ。彼はわたしのヒーローだから」
画面越しのやっくんは二年前の姿とはいえ、今とは別人なことがはっきりとわかる。ブロンズのように優雅に輝く肌に、白い歯を見せて微笑んでいる。
子どもの頃から、まるで太陽に愛されているみたいな人だった。
「きれいな――人だな……」
ポツリと青年が言った。
「だろ? この姿を封印して、敢えてあの病的な男の顔をかぶっているのは、そうせざるを得ないからだ」
「……まだ、わからないんです。社長の本心が――」
それが、やっくんを最強たらしめている理由だ。同時に、地球上でもっとも孤独な理由。
彼は本当は存在していない――。




