雷が鳴る前に
青年がなかなか車を降りようとしないのは、大粒の雨のせいではない。
「ここ……以外ないんですか? 俺はもっとこう、ビジネスホテルみたいなところでいい――のですが」
「嫌ですか」
思わず詰問口調になってしまった。
「いえ、そういうわけじゃ……。でも、ここ、『蔵』というより『倉庫』みたいじゃないですか」
確かに――。これは横浜にある赤レンガ倉庫の一棟のような構えだ。違いは、こちらは明らかに和風の蔵であること。
全体が白い壁塗りに、黒い切妻屋根。しかも今は、それが濡れた巨鳥の翼のように、重たい威圧感を放っている。
確かに、見ず知らずの街で、初対面の男にこんな場所に泊まれと連れて来られたら、警戒するのも無理はない。
今まで控えていた舌を解放した。一言だけでいい。
「ここは、わたしの実家なんです」
また沈黙――。この車の中だけ、外と違う世界にあるように、時間が滞った。
「……そういうことにしておきましょう」
青年が言って、助手席のドアを開いた。
濡れながら駐車場に降り立つ。その黒のシャツ姿を見ながら、震える手を抑えきれなかった。
こいつ――やっぱりだ。いや、そうでなければおかしいんだ。
雨の音が自分の心臓に直接響いているような気がする。動悸? いや、同期しているのか? あの日のフラッシュバックだ。お願いだ――雷よ、鳴らないでくれ――。
「どうしました? 大丈夫ですか?」
青年が振り返った。立場が逆転している。駄目だ――。雷が鳴る前に『蔵』に入らなければ。
「いえ、大丈夫です。この年で雷が怖いんですよ。ほら、何だか今にも鳴りそうでしょう? お恥ずかしい」
早口に言い訳を唱えながら、車から出る。
さっきまでは、完全に自分の方が優位だと信じていた。
「あの――島のことですか?」
車のロックをかけるのと同時に、青年の口から出た言葉に、今度こそ背筋が凍りついた。
思わず、雨の伝う唇を舐めた。
「中で話しましょう」
薄暗いロビーに入った。
外の天気など、この蔵の中では関係ない。雨の音さえも遮断された。安心感とともに、青年への恐怖も薄まっていく。
「どうです? なかなか雰囲気のある宿でしょう?」
自分の声が広いロビーで何倍にも大きく聞こえる。よかった、わたしはもう大丈夫だ。
「先にあなたの部屋の鍵をもらってきます。わたしの名前で取っていますから。あなたの名前をどう書くか聞きそびれてしまったもので。ちょっと、そっちのソファで待っていてもらえますか」
オレンジ色のランプのような照明しかない薄暗いロビー。重厚なソファと背の低いテーブルが数組置かれている。
青年は特に不信がることもなく、その一つに向かって行く。
真っ黒な石でできた床の上を滑るように――。
駄目だ。また主導権を奪われそうだ。ここはわたしのホーム。しっかりしなくては。
だが――わたしたち異能に、果たして居場所なんて関係するのか?




