蔵ホテル
わたしの名前を意味深にゆっくり発音したのが気になった。
一体どこまで知っているんだ――。助手席に座り、雨が降り始めた町をじっと見ている青年に、たまらず声をかけた。
「わたしのことは何と聞いています? ほら、急な話だったから、わたしもやっくん――社長と短い会話をしただけなもので」
これは本当のことだった。金曜日の午後、急に職場の電話が鳴った。
電話に出たバイトの若い子が、「ミナトさんに用事があるって……トモバイオサイエンスの社長って名乗ってますが、悪戯じゃないですよね?」と戸惑い顔でわたしを呼んだ。
急成長を遂げたこと、社長の人好きする容姿、話題性のある製品の数々――今や知らない者はいない。こんな片田舎の観光課の職員を名指しで呼び出す理由なんて、思いつかないだろう。
やっくん、こっちに仕事か? それとも旅行? それなら手配してくれる秘書や部下がいるはずだ。
しかし、わたしには思い当たるふしがあった。燃える島の記憶が鮮やかに蘇る。
あのことに関係しているのは間違いない。
「……もしもし」
周囲に緊張を悟られないよう、手短に要件だけの会話を済ませた。
「トモバイオサイエンスの社長とお知り合いなんですか?」
今度はベテランの女性職員が、目を輝かせて聞いてきた。
ああ、この人が知らないのも無理はないか。あの火事こそ大きな話題になったが、火事を起こした当人の名前が出ることはなかった。そもそも、あれは――。
「ああ、まあ、古い友人でね。彼のよくしている社員がこっちに来るから、面倒を見てやってくれと頼まれた」
「すごい……」
有名人と知り合いというだけで、そんなにすごいのか。
「すごくはないよ。ただ、そういうわけで、わたしは今週末ちょっと抜けてしまうかもしれない。迷惑をかけて申し訳ないが、よろしく頼むよ」
観光課は、むしろ週末や連休のほうが多忙だ。
観光客の増加とともに、新たに観光館が完成しつつある。昔は杓子定規に土日祝休みを貫いていたそうだが、少なくともわたしが入職してからは、ずっとこの体制だ。
「間もなく観光館の館長になる人が、ずいぶん腰が低いですね」
彼女はそう言って笑った。
「社長はあなたのことを、もう少しで観光館の館長になる人だ――と」
「え?」
考えていたことをそのまま声に出されて、思わず身体がびくりとした。
「危ない!」
青年が、出会ってから初めて大きな声を出した。
目の前の車道に、海鳥がすっと立っていた。誤って轢き殺してしまうところだった。
なんだって、こんな雨の降り出した道路にポツンと鳥が――。
また寒気がした。こいつ、もしかして? いや、そんなはずは――。
「すみません、雨で道が滑ってしまって……。大丈夫でしたか? 大事なお客さんに怪我をさせては大変だ。鳥も無事でよかった」
「はあ……」
気まずい沈黙に、車内が支配される。ワイパーのキュッという音が、苦しそうに響いた。
「ああ、あそこに見えているのが『蔵』です」
耐えられず、話題を変えた。
「蔵……?」
青年が戸惑いながら、雨で歪む外の景色に目を凝らしている。無理もないか。
「ええ、あれが、今夜あなたが泊まるホテルです」




