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愛のために

 愛のために引き受けた。こんなことを言ったら気持ち悪いのは百も承知だ。だが、真実だった。それ以上の理由は一切ない。


 俺は社長を愛している。恋愛感情や尊敬や友情や、そんな既に名前のついている感情ではない。

 強いて、本当に強いていうのなら、拠り所を見つけて、それに縋りつく感情に少しだけ近い。


 ずっと、ずっと、怖かった。


 自分のことが怖かった。自分からは逃げられない。大嫌いなのに、追い払えない。ずっと、ずっと、ぴったりと俺に張り付いて、どこにも行ってくれない。


 社長は俺から俺を解放してくれた。


 俺の力は、彼の前では無になる。


 俺にとっての消力器――サイキックを消す、サイ・イレイザーだ。


 あの不思議な会食の夜、本当に久しぶりにぐっすりと眠れた。


 そしてさっき、俺はあの島を管轄する北の街に降り立った。


 小さな空港だ。飛行機に乗ったのも久しぶりだった。飛行機は見上げるものになってから、いったい何年だろう?


 外に一歩出て、さっきまでいた空を見上げる。思った以上に曇が多い。


 どこまでも際限なく広がる空に、雲たちはゆっくりと形を変えて広がっている。それは人の顔にも獣の姿にも、鳥の翼にも見えた。


 白いと思っていた場所が次の瞬間、ほとんど黒の雲に姿を変えたり、俺の暗い心を映してからかっているようだ。


 晴れた空はしっかり固定されているように感じるのに、どうして機嫌の悪い空は今にも襲ってきそうな凶暴さで見下してくるんだ。


 空から逃げるように、タクシー乗り場にいた先頭の車に飛び乗った。


「市役所まで」


 手短に伝えた俺の顔を見て、気の良さそうな初老の運転手が、わざわざ振り返った。


「お客さん、大丈夫かい? 顔色が――すごく悪いよ」


 田舎の人特有の、親戚の叔父さんのような距離感だが、嫌な気持ちはしなかった。


「大丈夫です。気圧に敏感な体質なもので」


「ああ、今にも降りだしそうだものね。じゃあ、三十分くらいだけど、具合が悪くなったら遠慮しないで言ってね」


 そう言って、静かに広い舗装道路を滑りだした。


「お盆明けだから、空いていて良かったね」


 運転手は俺の様子をミラー越しにちらちら伺いながら、独り言のようにゆっくり話す。


 やがて海岸沿いの道路に出た。


「少し、窓を開けようか?」


 俺の返事を待たずに、窓が数センチだけ開いた。


 都会でこの天気なら、湿度で重たくなった不快な空気が入り込んでくるだけだ。しかし、ここでは――。


 気持ちが良い。少しだけ、ほんの少しだけ塩の香りのする空気が、嗅ぐスポーツ飲料のように、乾燥した心に染みた。


 生き返るようだ――。懐かしささえ感じる。


「お客さんはこの町の人?」


 顔色を取り戻した俺に、運転手が人懐こく聞いてきた。


「いいえ、初めて訪れました」


「へー。身軽だからさ、観光客には見えなかった。それに、真っ先に市役所に向かうなんてさ……。まあ、わたしが口を出すことではないよね……」


 あっさり自己解決してくれた運転手に好感を抱き、つい聞かれてもいないことを口走ってしまった。


「実は、知り合いの紹介で、偽ミリオンバンブー島へ行くんです」


 陽気だった運転手の顔色が変わった。

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