密会の温もり
社長の提案で、場所を移動することにした。俺には全く縁のない、半地下の洒落たイタリアンレストランに向かう。
会社から徒歩五分ほどの距離に、こんな場所があったんだ……。とはいえ、俺はどこの会社に勤めても、アパートと駅と会社の最短距離にしか興味がないから、不思議じゃない。
会社を出た時には雨はすっかり止んでいた。
黒々と湿った道路が、かろうじてさっきの雷鳴が夢ではなかったと伝えてくれていた。「時間外まで引き留めてしまったことと、まだ本題を話せていないから」――オフィスを出る前に聞いた社長の言葉に、胸騒ぎを覚える。
外の湿度と同じ、振り払っても纏わりついてくる、執念を感じた。
「会社の人間もあまり知らない店なんだよ」
社長がそう言って、手を掛けたドアは分厚い木製で、中の様子が全くわからない。料金表もなかったし、さぞ豪勢な場所なんだろうな――と入店して意外な驚きがあった。
なんと、和服姿の落ち着いた女性が出迎えてくれたのだ。
「イタリアンじゃなかったんですか?」
「ああ、ここは和室で、イタリアンが食べられるんだ。洒落てるだろ?」
「お待ちしておりました、どうぞ」と微笑む女性の後に続いた。全て個室のようだった。女性の口ぶりでは予約をしていたのか? 薄暗い木の廊下を進む。土足で大丈夫ですかと尋ねたくなるほど、それ自体が淡い光を発しているような床だ。いや、そもそもこれは本当に床か? 足音が吸い込まれているように聞こえない。俺の――忌まわしい俺の耳には届かない音を出しているのか?
「どうかしたいか?」
我に返ると、社長と品の良い和服女性が揃って一つの障子の前に立ち止まり、俺を見ていた。
「いえ……何でもありません。こういう場所に慣れてなくて」
「お暑いようなら、少し温度を下げますよ」
間近で着物の女性に話しかけられた。俺と同年代に見える。なんだか妙な色気のある人だ。
透けるような白い肌で、アイシーな香水が控えめに香った。
艶のあるおかっぱ――ボブヘアというのか? が似合っている。
「いえ……丁度良いです。ありがとうございます」
そう言って、先に上質な革靴を脱いで、座敷に上がった社長の後に続いた。
「……」
これも、思っていたのと全然違う――。
イタリアンを食べに来たら、和服の女性に和室に通された、というだけで十分に不思議な感覚だったが、ここは――。
「もっと、料亭みたいな感じだと思ってたかい?」
畳に腰を下ろしながら、社長が苦笑いで言った。
「はい――ここはなんというか……懐かしい感じです」
個室の中は、敢えてそういうインテリアなのだろう、古い箪笥やら、大きな切り株をそのまま磨いたようなテーブルやらが、おばあちゃんの家のような安心感でそこに居た。置かれているんじゃない。そこに居る。確かにそう感じた。
「わたしの実家に似ていてね。とっくに壊されてしまったが……。ここは、とても落ち着くんだ」
ゆっくりと腰を降ろした俺に、社長が言った。尻を置いたえんじ色の座布団まで、ひんやりとした中に温もりがある。
「では……白ワインをお持ちしますので、ごゆっくり」
和服の女性が雪が晴れるようにすっと障子の向こうに消えた。
暑苦しい真夏の夜の始まりに、冬の香を残して。
その時、彼女の横顔を見た。
僅かにのぞいた耳のあるべき場所に、それは無かった――。




