第1話 「世界は合理的に始まる」
この物語は、異世界転生という形を取っていますが、
爽快な成り上がりや英雄譚を描くものではありません。
理不尽な死の先で、主人公が得たのは希望ではなく、
「世界を理解してしまう視点」でした。
なぜ彼は選ばれたのか。
なぜ救わないのか。
その答えは、最初から提示されることはありません。
ただ静かに、世界が観測されていきます。
死は、驚くほどあっさりしていた。
雨は降っていなかった。路面は乾いていて、視界も悪くない。信号は青。横断歩道は白。速度制限は守られていた。
それでも、交差点の角から飛び出した自転車と、こちらに気づくのが一瞬遅れた車と、俺の足の運びの癖と、ほんの数センチのズレが重なって——結果だけが発生した。
胸の奥に、鈍い衝撃。息が抜ける。膝が折れる。手がアスファルトに触れた瞬間、妙に冷たいと感じた。
周囲の声が遠い。救急車の音が、遠くから近づくのが分かる。誰かが「大丈夫ですか」と叫ぶ。
大丈夫なわけがない。けれど、俺は口の中で、そんな当たり前の否定すらしなかった。
――これが「不運」だとしたら、世界は非合理的だ。
でも、違う。
事故は、起こるべくして起きる。
確率の束が、たまたま俺の上で収束しただけだ。
昔からそうだった。
上手くいくことも、上手くいかないことも、誰かに殴られる理由も、笑われるきっかけも。全部、因果の列として並べれば説明がつく。
だから俺は、期待しない。希望もしない。
「良い未来」なんて言葉は、統計に存在しない。
視界の端が白く滲む。脳が酸欠を認め始める。
痛みが、ようやく遅れて主張してくる。けれど、それすらも——遅延だ。神経伝達に必要な時間があるだけ。
俺は、自分が死ぬ瞬間にも、世界を観察していた。
そうして、最後に思ったのは、感傷ではなかった。
――完璧に生きる必要なんてない。
――完璧であることは、目立つ。
――目立つと、壊される。
目の前が暗くなる。音が消える。
終わりは、想像していたより静かで、穏やかだった。
そして——
次の瞬間、俺は泣いていた。
喉が裂けるような声が、勝手に外へ溢れる。肺が勝手に空気を吸って、吐いて、また吸う。
四肢は小さく、重力の感覚が違う。視界はぼやけ、色が濃すぎる。鼻腔に、甘い匂いが刺さった。薬草のような、乳のような、木の香りのような——知らない世界の匂い。
天井がある。木の梁。布の天蓋。揺れる灯り。
誰かが俺を抱き上げている。大きな手。粗い皮膚。指の節が硬い。
「泣き声が大きいな」
低い男の声。どこか冷めていて、しかし慣れている響き。
「あなたの子よ」
別の声。女性。けれど、温度が薄い。口調は柔らかいのに、心が乗っていない。
俺は泣き続けながら、状況を整理していた。
視界がまだ定まらない。言語が聞き取れる。理解できる。
おかしい。俺は外国語が得意だったわけでもない。
——翻訳されている?
その仮説が浮かんだ瞬間、頭の中で、何かが“揃った”。
言葉。音。呼吸。手の温度。灯りの揺れ。
それらが、ひとつの情報として整列する感覚。
まるで、バラバラの部品が、正しい棚に収まっていくみたいに。
ここはどこだ。俺は何だ。
答えが、今は出ない。でも——“あり得る候補”が、勝手に並び始める。
夢。臨死体験。脳の誤作動。
転生。異世界。宗教的幻覚。
シミュレーション。誰かの実験。
その中で、もっとも無駄が少ない結論は——
(死んだ。……そして、ここにいる)
男が俺を抱えたまま、窓の外へ目を向ける。
窓の向こうには、石造りの屋敷の中庭。灰色の空。煙突。
遠くに、尖った塔。城壁。旗。
中世。ヨーロッパ。あるいは、それに似た文明。
「……ヴァルツ家の跡取りとして、恥のないように育てろ」
男が、誰かに命じるように言った。俺にではない。屋敷の誰かに。
その口調だけで、序列が分かる。
ヴァルツ。
その響きが、胸に沈む。
俺は、知らないはずの名前を、知らないはずなのに“理解”した。
(貴族の家だ。軍事国家の匂いがする)
匂い、というより、体系。
言葉の端々、屋敷の造り、着ている服の質。
そして何より——この場に漂う冷たい合理。
「泣き止ませなさい」
女が言った。たぶん母親だ。
泣き止ませるための言葉ではない。ただ、命令。
俺の涙は、少しずつ止まっていく。
泣く理由がない。生存のために泣いただけだ。
泣き止んだ俺を見て、男は短く鼻を鳴らした。
「……理解が早いな」
理解が早い。
その評価の仕方が、嫌だった。
俺は知らず、心の奥で“線”を引く。
(完璧に見せるな)
俺は赤ん坊のまま、視線だけで周囲を測った。
室内の配置。出入口の位置。使用人の人数。武装の有無。
そして、ここから先に起こり得る“流れ”。
——跡取りとして育つ。
——教育される。
——いずれ軍へ。
——戦争はある。
——この家は、戦争を当然としている。
頭の中で、未来の枝が、薄い光の糸みたいに広がる。
どれもまだ、輪郭がぼやけている。
けれど確かに、そこにある。
その瞬間、誰かが俺の耳元で囁いた。
――見えているのね。
声は、男でも女でもなかった。
年齢も、距離も、温度もない。
なのに、はっきりと“そこ”にある声。
俺は泣かなかった。驚きもしなかった。
ただ、その声を、情報として受け取る。
(……誰だ)
――まだ名乗らないわ。あなたが自分で気づくまで。
名乗らない。
答えを与えない。
それは、優しさではない。教育でもない。
ただの——観測。
俺は、赤ん坊の手を握りしめた。
小さな指が、布を掴む。弱い力。
それでも、意思はそこにある。
(見えているなら、選べるはずだ)
(選べるなら、壊されない道もあるはずだ)
でも同時に、理解してしまう。
(全てを知ることは、救いじゃない)
屋敷の灯りが揺れた。
外で風が鳴る。遠くで鐘が鳴った気がした。
男が俺を抱えたまま、扉へ向かう。
使用人たちが頭を下げる。
女は窓際に立ったまま、こちらを見ない。
俺は、天井の梁を見つめた。
この世界の最初の景色を、脳に焼き付ける。
いつか、ここが“戻れない場所”になると分かっているからだ。
――レオンハルト。
どこかで、誰かが俺の名前を呼んだ。
父の声か、母の声か、あるいは——あの声か。
俺は答えない。赤ん坊だから答えられない。
けれど心の中で、ひとつだけ決めた。
完璧にはならない。
目立たない。
勝ちすぎない。
……そして、もし世界が俺を壊しに来るなら。
その時は、逆に壊す。
赤ん坊の瞳に、灯りが映る。
まだ誰も知らない。
この静かな部屋から、世界が終わることを。
第1話を読んでいただき、ありがとうございます。
ここではあえて、能力の説明も目的も明確にはしていません。
主人公が「何者になるか」よりも、
「何者でいられなくなるか」を描くことを優先しました。
ささやかな違和感や言葉の選び方は、
後の物語で必ず別の意味を持ち始めます。
次話から、彼が生きる“環境”が少しずつ輪郭を持っていきます。
第2話「ヴァルツ家の子供」へ続く。




