22.夏季休暇
キスして逃げたことについて、直護くんに「好きにやってくれていいが、俺に捕まったら最後だと思えよ。俺も好きにするからな」と真顔で忠告されたものの、無理やり襲われるようなことは一度もなく。代わりに直護くんからキスしてくれることも一度もないけれども。
時々わたしからキスして、逃げて——というより、直護くんがわたしを捕まえないように我慢して逃がしてくれて。そんなことを繰り返し、わたしたちの日常は夏休みへと突入した。
とはいえ、中学生のころまでと同じように、三日で宿題を終わらせてあとは好きなことだけして楽しむぞー、とはいかない。
「うあああぁ……やってもやっても減ってる気がしないぃ……」
朝9時前。わたしはリビングのテーブルに突っ伏す。
高校生って、課題が多い。これが花絆学園だからなのかどうかは知らないが、とにかく多すぎる。
授業の復習プリントだけじゃなく、分厚い大学入試問題集、果ては文学作品や生物、地学に関するレポート提出もある。
レポートなんて、書いたことないんだけど。それぞれのテーマは自由で、書きやすいものを選択していいって言われても、なにが書きやすいかすらわかんないんだけど。
鞄を持った直護くんが、通りすがりにわたしの頭を撫でた。
「帰ってきたら教えてやるよ。昼ごはんは冷蔵庫な。俺がいないところで、寮のメシや人からもらったもん食うんじゃねーぞ」
「心配性め……。いってらっしゃーい」
「いってきます」
直護くんは、これから大学部の講義だ。
大学の夏休みは長いって聞いたことある気がしたけど、7月も8月も平日は休みなく授業してるってなに? そして、大学部の講義と高等部の課題をちゃんと両立できてるってなに?
つくづくガーデナーとのスペックの差を思い知らされる。……いや、ガーデナーじゃない夕暮くんとかも、どっちもこなしてるって話だけど。
「ぬううううぅ……」
一応ペンは握るけれど、わからない問題集と対面することほど面倒なことはない。
数学と英語がとくに鬼門だ。ひとりで解けるところは粗方やってしまったし……これは直護くんが帰ってくるまで待って、教えてもらいながらやった方が効率的に思える。
となると、直護くんの帰宅——夕方までどうしようか。課題リストを眺めながら、ぼんやり考える。
レポート……これも鬼門である。書き方というかテンプレというか、そういうのを直護くんに聞かないと進めようがない。
けれど。
「文学作品……」
なんの本を題材にするか、まだ全然決めていない。
そもそも文学作品と呼べるような本を、ほとんど読んだことがない。最初から最後までちゃんと読んだのは、せいぜい読書感想文を書くときに選んだ小説くらいだろうか。
どういった本がレポートに適しているのか——なんとなくのイメージだが、国語の教科書に載っていたものは該当するような気がする。たとえば、太宰治とか宮沢賢治とか芥川龍之介とか。
そういった有名どころの小説ならすでに概要を知っている。たしか短い話もあったような気がするし、短くても教科書に掲載されているものなら、先生もレポートの題材として文句は言わないだろう。
直護くんから書き方を教えてもらう前に、一、二冊、目を通しておいてもいいかもしれない。
「——よしっ。図書室だ!」
わたしは気分転換も兼ねて、高等部校舎へ向かうことにした。
◇
入学してから図書室を訪れたのは、学校案内を受けたときの一回だけ。今日で二回目だ。
吹き抜け二階建ての図書室には、夏休みにもかかわらず制服を着た生徒が多く見受けられる。ブルームとガーデナーを除けば、超超超難関試験を突破して入学した勉強家ばかりの学校だ。大学部の講義を受けていない人も、休み返上で自習しているのだろう。
わたしのクラスはガーデナーとブルームが集められており、そうでない人は八人しか在籍していない。そのせいか普段はあまり意識しないのだが、この図書室内の空気がどことなくピリピリしているように感じる。まるで高校入試数週間前、受験シーズン最後の追い込み中を思い出す雰囲気だ。
——なんか、あんまり気分転換で来る場所じゃなかったかも……。
少し場違い感を覚えつつ、わたしは目当ての本を探す。
しかしいつの間にか、わたしの手は料理本を開いていた。
『シンプルだけど奥深いオムレツのコツ』『揚げ物を恐れるな! 失敗知らずのからあげレシピ』——立ったまま次々にページを捲ってしまう。
薬物混入事件以来、寮の調理場には部外者——寮生であれブルームであれ、調理師やメイド以外、原則立ち入り禁止となった。ゴールデンウィークのときのように、ハウスメイドさんから料理を教わるというのが難しくなってしまったのである。
もちろん、いまの自室はキッチン付きのため部屋に呼べば教われないこともないのだが……人を招き入れるとなれば、直護くんに報告は必須だろう。
それは、ちょっと、あれだ。絶対に知られたくないというほどじゃないんだけど、できれば直護くんが知らないところで腕をあげて、すごい! いつの間に! 全然気づかなかった! すごい! って言ってもらいたい願望が、ね? まあ、ほんのちょっぴりあったりなかったりみたいな。
幸い、夏休みの直護くんは昼間、部屋にいないことの方が多い。となれば、本やネットを見ながらひとりで練習するのが最適解だろう。できあがった料理は、直護くんにバレる前に、クラスメイトやメイドさんたちにおすそ分けしまくればいい。ゴールデンウィークのときも自分で食べきれない分はそうしていたから、まあ問題ないだろう。
とりあえず、卵焼きとオムレツをおいしく、見た目もきれいに作れるようになりたい。それと、お菓子作りにも挑戦してみたい。
そうして目につく本を片っ端から手に取り、借りるものを厳選し、料理本三冊を腕に抱えたころには、一時間は経過していただろうか。さすがに時間をかけすぎた。
さて、目当てのものは単行本と文庫本、どちらの棚に並んでいるのか——踵を返し、ひとつ、ふたつ、みっつ、と足早に本棚を通りすぎていると。
「きゃっ」
「わっ、ごめんなさ————あれっ?」
ちょうど棚の陰から出てきた人とぶつかりそうになり、慌てて謝罪したのだが——その先にいたのが。
「チッ、こんなところで……」
「祢宜田さん……」
キャンプ以来、教室では目を逸らされ続けていたし、もちろん話せていない。話しかけにいこうとすると教室を出て行ってしまうくらい、彼女には避けられ続けていた。
そしていまも、久しぶりの舌打ちを聞かせてくれたと思った瞬間に歩き出そうとしていたので、思わずわたしは祢宜田さんの腕を掴んでしまった。
即座に睨みが飛んでくるが、わたしは構わず話しかける。
「えと……ね、祢宜田さんは自習? わたし、本を借りに来て」
目を逸らされた。
「ほら、レポートあるでしょ、夏休みの課題。もう終わった? わたしまだ全然で、それ関係の本探してるんだけど」
強い力で腕を振り払われそうになる。
「太宰治とかそういう感じの、どこにあるかわかる? えーと、あの、タイトルはちょっとど忘れしたんだけど、ほら教科書にも載ってるやつ…………ねえお願いまって、無視はよくないと思う……!」
わたしを引きずってでも立ち去ってやると言わんばかりに抵抗を続ける祢宜田さんに、声が大きくならないよう気をつけつつ必死に追いすがる。
「睨んでいいし、舌打ちしていいから、無視はダメ……! わたし泣くよ……!?」
「ああもう、しつっこい……! ————えっ」
振り返った祢宜田さんが、ぎょっと目を見開く。
わたしが本当に涙ぐんでいるからだ。
「ちょ、なんでこれくらいで……! こ、是橋くんは……!? こんなとこ見られたら、わたし……」
「な、直護くんはいないよ、大学だから……」
「はあぁ……よかった————じゃなくってね……!」
わたしのセーラー服の襟を祢宜田さんが掴んだ。
「本当に空気読めないわけ……!? あんなことがあったのに普通に話しかけてきて、いったいどういう神経してんの……! デリカシーないにもほどがあるでしょ……!」
「デ、デリカシーの話を祢宜田さんがするの……? 他人の気持ちに配慮できる人って、ムカつく相手にでも舌打ちしたり睨んだりしないと思う……」
「な、ぁ……!?」
「あ、いや、もちろんわたしにはしてくれていいんだけどね。というかわたしは、ふとした拍子に祢宜田さんが睨んでくれて、だれにも悟られないように胸をドキドキさせる、あのころの関係に戻りたくて……」
「気持ち悪いッ……!!」
襟から手が離される。よろめくように一歩下がった祢宜田さんは、完全にドン引いていた。
うう……! どう言えば、この仲良くなりたいって気持ちが伝わるのか……! こうなったら、多少のズルさは承知のうえで、名前を使わせてもらうしかない……!
「直護くんとの仲直り、協力するよ……!」
ぴた、と祢宜田さんの動きが止まった。信じられないものを見るような目つきのまま固まっている。
「いまのままじゃ、わたしももやもやするもん。わたしと仲良くしてるとこ見せたら、直護くんも祢宜田さんのこと、嫌いじゃなくなるかもでしょ? そっちの方が、祢宜田さんもよくない?」
「…………嫌いとまでは言われてない」
「あ、そうだっけ……?」
「それに、なに、どういうつもり? 是橋くんがわたしのこと好きになってもいいんだ? すごい余裕だね」
「違うよ……!? 祢宜田さんにわたしを好きになってもらいたいんであって、直護くんが祢宜田さんのこと好きになっていいとまでは言ってない! 夕暮くんレベルまでならいいけど……それ以上は譲らないから!」
「……委員長? 時雨くんの方じゃなくて?」
「たぶん直護くん、時雨くんより夕暮くんの方が好きだよ。夕暮くんが単独行動タイプだから、よく一緒にいるのは時雨くんになっちゃうだけで」
「…………ふうん。自分の方が是橋くんのことよく知ってますよってアピール?」
「だから違うよぉ……!」
「離して。逃げないから」
祢宜田さんが、わたしに掴まれている腕を指さす。
少なくとも五秒は悩んだ。けれど恐る恐る彼女から手を離すと、祢宜田さんは宣言通り逃げずに留まってくれた。
わたしとは目を合わせないまま、祢宜田さんが口を開く。
「わたし、あなたのこと嫌い」
「知ってるよ」
「……でも、是橋くんに嫌われたくない」
「うん」
「だから…………」
祢宜田さんの顔が、ものすごく歪められる。そして、すう、はあ、と深呼吸を挟んでから、言葉が続けられた。
「気が滅入るし、ほんっとうに嫌だけど………あなたの口車に乗ってあげる」
「やったっ!!」
わたしは思わず、大きな声を出してしまった。慌てて口を塞ぐが、だれかが注意しにくる様子はない。
ほっと息をつき、それでも声のボリュームは下げてから、祢宜田さんに尋ねる。
「じゃあじゃあ、冬優ちゃんって呼んでいい? 実乃って呼んでいいから」
祢宜田さん——冬優ちゃんが頷く。
「今度から見かけたら、積極的に話しかけにいくね」
少し間が空いて、冬優ちゃんが頷く。
「そしたら舌打ちして、わたしのこと睨んでね!」
「本当になんでこんな人がいいの、是橋くん……!」
冬優ちゃんは頷いてくれなかった。




