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ナナシと呼ばれた魔法使いが、神に拾われ魔王と恐れられるまで  作者: こいち


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第74話 少女は、思い出の輪郭をなぞれない

ベガとギルドの交渉は、結局のところ「延期」という形で幕を引いた。

だがそれは、歩み寄りでも猶予でもない。

選択肢は、最初から二つしかなかった。

文句の言えない証拠を揃えるか。

さもなければ、任務を放棄するか。

放棄を選んだ場合、これまでギルドがベガに都合をつけてきた金額のすべてを、返却しなければならない。


――それは、選択肢と呼ぶにはあまりに一方的だった。


つまり最初から、ベガに拒否権はない。


「とんだ詐欺話だよ」


吐き捨てるように言って、ベガは深く息をついた。

怒りというより、疲労に近い。

隣を歩く少女は、いつもより静かだった。

相槌もなく、視線も合わない。

まるで、同じ道を歩いていながら、少しだけ別の場所にいるようだった。


「こういう時は、飲むに限るね」


答えを待つこともなく、ベガは歩調を変える。

行き先は、考えるまでもなく決まっていた。

そのとき、少女の身体がほんのわずかに震えたことに、

彼は気づかなかった。


***


酒場。

下品な笑い声が渦を巻き、酒と煙草の匂いが、空気に粘つく。

男たちの膝には女が座り、夜の熱は、まだ勢いを失っていない。

音楽は旋律を忘れ、ただの騒音として空間を満たしていた。

叫ぶように交わされる言葉のほとんどは、意味を持たない。


「ナナシ!!」


「ナナシちゃん!!」


その名を呼ばれた瞬間、少女の胸の奥が、きゅっと縮こまった。


「なん、で……」


カペラとアルデバのことだけで、思考は限界だった。

それなのに、ここで――リブとデネラ。

今、いちばん会いたくなかった二人。


「ようやく会えた! 大丈夫だった?」


勢いよく抱きついてくるデネラ。

豊満で柔らかな体温が、少女には過剰だった。

拒むほど強くもなく、受け入れるには重すぎる。

逃げ場のない、毒のようなぬくもり。


「知り合いかい?」


「……し、らない……」


胸に顔を埋められたまま、か細く抗議する。


「誰だよ、お前」


「オレはレディの……なんなんだろうね?」


無垢なリブの瞳には、大人の男の含みなど映らない。

少女は、それを説明する気もなかった。

語らない。

問われても答えず、自分からも語らない。

放っておけば沈黙し、空気を読むこともしない。

たとえ全員の視線が集まっても、少女の意識はどこか遠く、

この騒音の外側に置き去りにされていた。


「とりあえず、席について話さへんか?」


ヴルが、三人用だった席に机と椅子を足す。

その動作は自然だったが、少女の肩に触れた手は、わずかに馴れ馴れしい。


「そうだね」


ベガはその手を払いのけ、短く睨む。

一秒にも満たない視線の交錯。

火花は散らない。ただ、温度が下がる。

少女は、どちらにも無関心だった。


「えっとー。まずは自己紹介させてね」


見かねたデネラが、出会いの経緯を話し始める。

北の街・アルヴェン。

ほんの少し、一緒に冒険したこと。


「ね、ナナシちゃん」


ウィンクを向けられても、少女は視線を逸らす。


「いけずぅ……」


「なるほど……嘘ではなさそうだね」


ベガの前に発泡酒が置かれる。

一口含み、彼もまた自分のことを話し始めた。


「俺はベガ。この西の街・ノクスウェルでレディに手取り足取り魔法を教えていて――」


余計な言葉を挟みかけた、その瞬間。

少女の無言の蹴りが、彼の足に入る。


「なるほど。あと、この人はヴルさんでー」


リブは一瞬だけ言葉を切り、何も言わずに話を戻した。


「……あと二人。カペラとアルデバってのがいるんだけどさ」


その名前を聞いた瞬間だった。

少女の瞳が、はっきりと揺れた。

勢いよく立ち上がり、椅子が後ろに倒れる。


「おぉ?! どうした?」


「あ……」


視線が一斉に集まる。

少女は浅く呼吸をしてから、小さくつぶやいた。


「……と、いれ」


「あっち…だよ?」


デネラが指さす先へ、

少女は風船のように、現実味のない足取りで向かっていった。

覇気のない表情。

地面に触れているのかも怪しい歩き方。


「なんだよ、あいつ……」


リブは、その背中から目を離せなかった。

説明できない違和感だけが、胸の奥に沈殿していく。



***



トイレで少し呼吸を落ち着かせてから外へ出ると、

通路の先に、見覚えのある顔が立っていた。

通路は狭く、逃げ場はない。


「………なに…?」


「おもんないなぁ……わいと、ナナシちゃんの仲やないの」


ヴルは片足を壁につけ、通路を塞ぐ。

軽い動作なのに、その存在だけで空気が詰まった。


「意味が分からない。なんのこと?」


「ベガとイイコトしたら、わいのことは用無しかいな」


その言葉と同時に、手首を掴まれる。

背中が壁に押しつけられ、石の冷たさが背骨に伝わる。


「離して」


短い拒絶。

その瞬間、壁の内側からヘドロが滲み、マンドラゴラが姿を現す。

大きく開いた花弁の奥で、鋭い歯が光る。

屈強で、決して千切れない蔦が伸び、ヴルを引き剥がした。


「おー、だいぶでっかなったなぁ。前はこーんなにちっこかったやん」


身振り手振りで示されても、少女の心は反応しない。

いや――反応できなかった。

そこに、記憶の接点が存在しない。


「何言ってるの?マンドラゴラは最初からこれだよ……?」


少女はつぼみに触れる。

指先に伝わるのは、いつもと同じ感触。


「は?一緒に東に行って、死にそうになってたそいつを治したやん。『あらゆる植物の命を吹き返す大樹』……星樹って呼んでたか?」


「は?東にはわたし一人で行った」


「はぁ?」


言葉だけがぶつかり、噛み合わない。

だが、少女の表情に嘘はなかった。

そもそも――嘘をつくという行為が、少女にはできない。


「なんや……カミサマになんかされとんのか?」


『カミサマ』

耳を疑う言葉に、少女は一歩、後ずさる。


「なんで、あんたが……神様を知ってるの?」


「なんでって……自分から話したやないか」


「し、知らない」


声が揺れる。

視線が泳ぎ、瞳が細かく震え始める。


「何言うてんねん。そうや。ほら……右の腰に……ほくろ、あるよな?」


距離が詰められる。

細い腰に指がなぞられ、へその少し下を、軽く叩かれる。


「………っ………」


否定できない。

目の前の男が語ることは、事実なのだと、身体だけが理解してしまう。

それでも――記憶は、ない。

交わったことも、この男の顔も。


「し……しら、ない………」


その瞬間、脳裏に淡い像がよぎる。

ヴルの優しい声。

荒い息遣い。

首筋に残る、じゃれるような噛み跡。


「なに……これ………」


足元が揺らぐ。

吐き気にも似た違和感。

自分が、自分でなくなる感覚。


「お、おい!」


声が遠い。


「きもち…わる…」


ここは暗闇。

深く、深く――

なにも見えない、底のない沼。

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