第60話 少女は、逃げ場を失った
「なんとでも…」
そう答えても、男の表情は動かなかった。
下ろされたままの杖が、彼の警戒心を解くことはない。
少女の中に生じたわずかな敵意――それが伝わったのかもしれない。
面倒な相手に見つかった。
そう思った瞬間、後悔はもう遅れていた。
「こんな荒野で人を見つけられて、安心した?」
「安心?……あんたの態度のどこを見て、どいしてそんな言葉が出てくるの?」
「そうか。そうか。……安心しないか。いやあ。オレはね、魔法使いを見ると……そう…血が騒ぐんだ」
「は?」
「おや、知らないかい?なら教えておこう。オレは――“冒険者ハンター”だ」
「ネーミング、ダサすぎ」
軽口のように返しながら、少女は内心で息を詰めていた。
この男は、強い。
そう確信できるほどに、彼は揺るがなかった。
沈黙の底で、ぬかるんだ地面が水を含み、ぐちゃりと鈍い音を立てる。
―――…
「冒険者ハンターに会ったら、背中を見せてもいいから逃げろ」
「とにかく逃げろ。それしか助かる道はない」
「だから西じゃ仕事しねぇんだよな、なあ商人」
「せ、せやな……」
その後、カペラとアルデバは逃げ出そうとした商人の肩を掴んだ。
逃がすつもりなど、初めからない。
人に迷惑をかけたのなら、それ相応の落とし前が要る。
「最近のわい……ほんま、ついてへんわ……」
「なんか言ったか?」
「何も言ってへんよー。気にせんといてぇな」
商人ヴルは、金の匂いを追って東西南北を渡り歩く男だ。
二頭立ての馬車で荷を運び、今回は事情あって南へ来ていた――それはまた別の話。
「商人。冒険者ハンターのこと、何か知ってんだろ」
「情報は有料やで」
「殴られたいって意味か?」
「い、いや……知ってることなら何でも……」
少女の存在で霞んでいたが、カペラとアルデバは本質的には悪だ。
恐喝も暴力も、格下にはためらわない。
「荒くれ者が集まるのが西や。あんたらも、昔はおらんかったんかいな?」
「悪の中で悪さする趣味はねぇんだよ。平和ボケした南や北を叩く方が楽しいんだ」
「……すごく、よろしいと思いますぅ……」
「話を戻せ」
「せ、せやな……冒険者ハンターはな、荒くれ者の中の頂点や。冒険者を見つけたら、状況に関係なしに襲う。魔物と戦ってても、や。数日戻らんかったら、もう終わりや。荒野の真ん中で干からびとる言う話や」
「見た目は?」
「噂だけや。誰も生きて帰らん。屈強な男、華奢な女、魔法使い……話はバラバラや」
もし少女が、その存在に見つかってしまったのなら。
命は、ほとんど尽きている。
強大な魔物に守られていたとしても――勝てるのか。
「……まずいな」
カペラは舌打ちをした。
―――…
ぬかるんだ地面が、足を取る。
自分で呼び込んだ状況とはいえ、最悪だった。
「マンドラゴラ……!」
少女はヘドロの中から魔物を呼び出す。
「へえ。魔物を使役するのか。魔法使いだと思ってたが……テイマーか。面白い」
男の目が、鋭く光った。
興味が、露骨に浮かんでいる。
「わ、わたしを……守って」
恐怖に背を押され、蔦が周囲を囲う。
視界を閉ざせば、あの男を見ずに済む。
「隠れれば逃げ切れると思っているのかい?ずいぶん楽観的だ」
「あ」
次の瞬間、マンドラゴラの悲鳴が上がった。
火花が散り、蔦が燃え上がる。
火を操る魔法使い。
分が悪すぎた。
「残念だったね、レディ」
炎の中を、男は平然と歩いてくる。
熱さなど、感じていないようだった。
「近寄るな……」
「攻撃されたから返しただけだよ。威嚇する姿は……可愛いね。子猫ちゃん」
魔王、ナナシ、今度は猫。
名前は変われど、扱いは変わらない。
「さて…レディはどれほど強いのかな?」
「え?」
次の瞬間、視界が反転した。
地面に顔を押し付けられ、理解する。
回ったのは世界ではない。
自分自身だった。
「なるほど…魔物はそこそこ強い。でもレディ本人は……期待外れだ」
「あんた……なんなの……」
「言っただろ。冒険者ハンターだ」
「わたしは冒険者じゃない……」
男は首元を探し、やがて手を止める。
「は?嘘だろ?…タグがない」
少女は、何者でもなかった。
ただの少女。
「あちゃー……紛らわしいな」
「分かったなら……どいて……」
「それはだめだ」
拘束が、強まる。
「だって、オレの顔を見ちゃったでしょ?生きて帰れると思った?」
「はあ?」
逃げ場は、もうなかった。




