第57話: 少女は、雨音の向こう側で
「うざ!!雨、うっざ!」
「間に合わんかったわー。さっむ」
急いで戻ったはずだった。
けれど、ほんのわずかな判断の遅れが、そのまま濡れる結果になる。
準備を怠った自分たちが悪い——そう思おうとしても、雨は情け容赦なく、カペラたちの体温を奪っていった。
しとしと、という予兆はすぐに姿を変え、ざあざあと音を立てて降り注ぐ。
空の不穏さには気づいていた。
それでも、ここまで本気で降るとは、誰が思っただろう。
「わー、ちょっと待て。今、タオル持ってく……うわっ!!」
体を震わせる寸前だったポルックスが、遠慮なく全身を揺らす。
水滴が弾け、冷たい感触が一斉に降りかかった。
「ちべてー……」
結局、タオルは自分用になる。
抗議の声を上げても、ポルックスはぶるる、と鼻を鳴らすだけで、悪びれる様子はない。
「ポルックスー。頼むぜ。もう少し我慢してくれやー」
「ったく、悲惨な目にあったぜ」
「さっさと風呂入るべ。冬の雨はしんどすぎるわ」
「真面目に、それな」
馬の体をひと通り拭き終えたあと、今度は自分たちの番だった。
カペラとアルデバは、下宿先の共同シャワーへと駆け込む。
簡素な浴場。
着替えを外に置き、必要最低限を隠すだけの仕切り。
それでも、あるだけでありがたい。
——そのとき。
「……ん? なんか聞こえねえか?」
シャワーの水音に紛れて、外から何かが混じる。
言葉にならない、ざらついた気配。
「は?」
アルデバが蛇口を締めた。
水音が止んだ瞬間、空気が張りつめる。
「……ー……!!」
確かに、何かがある。
ちょうど洗い終えたところだったカペラも、シャワーを止めた。
「なんて言ってる?」
「はっきりは聞こえねえ。でも……良くない。急ぐぞ」
振り返れば、アルデバはすでに身支度を終えていた。
その動きに焦りがにじんでいる。
待て、と思いながら、カペラも慌てて服を身につける。
「ま、まさか……いや……でも、ケイドは今日も元気にうちら口説いてたじゃねーか。動く気配なんて——」
「知ってたとしたら?」
「……うちらを、見てたってのか?」
アルデバは息を整えながら言う。
「高ランク冒険者を集めてただけはある。人脈の中に、特殊な魔術を使えるやつがいても不思議じゃねえ。魔力を感知されずに、行動を追う術……な」
「じゃあ、ずっと監視されてた?」
「泳がされてた可能性が高い。口説いてたのも、様子見だったのかもな」
言葉が重く沈む。
「馬を買ったって情報が漏れて……決行は今日しかねえ、ってか?」
アルデバは答えず、出立を促す。
「急げ。蛇使いに知らせねぇと。あいつ、見境なく倒すぞ」
頭の中で、嫌な想像が組み上がっていく。
ケイドはきっと、こう動いた。
——森の魔王が逃げる。倒すなら今。
そう吹き込み、ギルドの監査員を動かした。
否定はされたはずだ。
少女は冒険者として登録され、実績もある。
本来なら、慎重になる案件だ。
けれど、熱意という名の強引さは、人を動かす。
可能性があるなら——と、調査の名目が与えられる。
それが、今日。
「行くぞ、ポルックス!急で悪いけど、早速頼む!!」
荷台は捨て、二人は馬に跨る。
雲は低く、風は冷たい。
嫌な予感だけが、背中を押していた。
………
三十。
いや、五十か。
少女は、雨の向こうに揺れる影を数えた。
「……烏合の衆」
雨音は感覚を狂わせる。
マンドラゴラが知らせてくれなければ、隠れる時間すらなかっただろう。
「愚かだね」
民衆は、いつもそうだ。
大きな嘘に、何度も、何度も騙される。
恐怖を煽られ、理性を手放し、力のある声に従う。
守りたいのは、日常と安寧。
そのためなら、何を壊してもいいと思ってしまう。
面倒事を嫌う少女は、マンドラゴラの蔦の中で、息を潜めた。
「いたか?!」
「いません!!」
「探せ! まだ近くにいるはずだ!!」
誰にも教えていないはずの住処。
それが、乱暴に踏み荒らされていく音がする。
丹念に整えた寝床が、ばきり、と折れる。
「……うざ」
このまま、朝までやり過ごせばいい。
マンドラゴラは気配を隠す術を知っている。
並の魔術師では、見つけられない。
少女は小さく体を抱え、ただ待つことを選んだ。
——だが。
「てめーら!! 人の狩場を漁ってんじゃねーよ!!」
聞き覚えのある声。
荒く、真っ直ぐで、遠慮がない。
カペラとアルデバ。
初めて会ったときも、彼女たちはこうだった。
吠え、踏み込み、考える前に動く。
……ああ。
ここで出てきたら、だめなのに。
どうなるか、分かるでしょう。
「…………今は、邪魔だよ」
少女は、彼女たちと同じように、小さく舌打ちをした。




