第49話: 少女は、空を渡る影の季節を知っている
平和だった。
ようやく、息を整えられるほどの平和が訪れていた。
澄み切った空気。
張りつめることのない青。
雲間から、やわらかく差し込む陽光。
リブは、何も起こらない一日というものを、久しぶりに実感していた。
隣で、デネラが大きく伸びをしながら口を開く。
「なんか、知らないうちに鎮静化されたね。例のマンドラゴラ。森が燃え尽きたあたりから、急に静かになった気がする」
彼女は気楽そうに言うが、森の消火は決して簡単な仕事ではなかった。
水魔法使いたちが動員され、冒険者も総出で駆り出された。
リブたちも例外ではなく、木屑の回収や後処理に追われた。
報酬は、期待できるものではなかった。
ほとんど、善意に近い労働だった。
「原因もわかんねぇしな。迷惑極まりねーよ。どうせ暴れるなら、最後まで勝手にやってくれりゃよかったのに」
「それが魔物の存在意義、ってやつでしょ」
「人間もな」
「……言い返せないや」
森は、地図から消えた。
炎の勢いがあまりに強く、消火は間に合わなかったのだ。
焼け野原。
もう二度と、森に戻ることはないだろう。
逃げ遅れた魔物は焼かれ、
生き延びたものは、隣町や遠くの山へと散っていった。
ここでの依頼は、もう望めない。
それはつまり、リブたちの収入が減るということだった。
「……これから、どうやって生きるかな」
「って悩んでるあんたに朗報」
「言っとくけど、農家は継がねーからな」
「わかってるって。あたしが言ってるのはね、そろそろ“あの季節”が来るって話」
その言葉に、リブの思考が弾けた。
「……ワイバーン!」
「そう。北帰行の時期。今回の騒動が、その前に片付いてよかったよね」
「ほんとだな」
ワイバーン。
鋭い嘴を持ち、ドラゴンの亜種に分類される魔物。
厚い鱗、赤い翼。
空から炎を降らす存在。
冬が近づくと、彼らは群れを成して空を渡る。
北で繁殖するためだ。
そして――
彼らがわざわざ人の街を通過する理由は、単純だった。
家畜。
果実。
そして、人。
豊富な糧を求め、彼らは降りてくる。
だからこの季節、街は総出でワイバーンを迎え撃つ。
「ワイバーン狩りなんて慣れたもんでしょ。降りてきたところを狙って、首落とすだけ。数だけ報酬。楽だし、割がいい」
「肉も鶏みたいでうまいしな」
「また食べ物の話!」
この時期ばかりは、冒険者嫌いのデネラの親でさえ、「さっさと行ってこい」と背中を押す。
一方、リブの父・ユウゴは、家に籠ってやり過ごしたいタイプだった。
「親なら普通じゃない? あたしの家が異常なんだって」
「収入第一だろ?」
「えぇ……」
当てもなく歩く二人の視界に、ギルドから出てくる少女の姿が映った。
「あ、ナナシ……ちゃん!久しぶりだね!」
デネラが声をかけると、少女は嫌な顔ひとつ見せなかった。
「どうしたの?」
「依頼が……なかったから、帰ろうと思って」
「今はないよ。ワイバーンの件、知ってる?」
その瞬間、リブは反射的に物陰へ身を隠した。
盗み聞きするつもりはなくとも、姿を見せる勇気が出なかった。
「……知らなかった…ちょっと遠くに行ってたから」
「そうなんだ?どこ行ってたの?」
「東…」
「へー!楽しそうだね。あ、でね、今の時期は…」
説明を終えると、少女は小さく、何度かうなずく。
「今の時期は、武器と防具の新調がおすすめだよ」
「必要ないよ」
「見てみて!あたしはヴルさんのところで新しくしたよ!」
剣を示すデネラの声は、明るい。
「少し出費は痛いけど、ワイバーン狩れば元取れるし」
「……ふぅん」
「魔法使いなら声かけられると思うよ」
「……魔法は使えないけど……わかった」
その素直さに、リブは胸の奥がざわついた。
少女は別の路地へと、静かに消えていった。
「……ずいぶん素直だな」
姿が見えなくなってから、リブは顔を出す。
「なんで隠れるの?」
「俺がいたら、喧嘩になるだろ」
「それじゃ、いつまで経っても心は開かないよ」
「どうやって開いたんだよ」
「話しただけ」
あまりに当然のように言う。
デネラのそれは、才能に近い。
「それができりゃ苦労しねぇ」
「一石二鳥にはならないよ。あたしが魔法使いになれないみたいに」
「落ちてりゃいいのにな」
「言えてる」
笑えない冗談を交わしながら、二人はギルドへ向かった。
「すいませーん、ちょっと聞きたいんですけど…」
掲示板は、静まり返っていた。
つい先日までの喧騒が、嘘のようだ。
「余ってる回復薬とかありますか?今度のワイバーンの時に、使いたいんですけど」
回復薬の相談をすると、ギルド嬢は思いがけず、あっさり頷いた。
「治癒魔力のこめられた魔石が届いています」
「……え?」
「銅貨十枚で」
「安すぎないか!?」
「鑑定済みです。それに…リブさんの家庭のご事情は理解しておりますので…特別価格でご提供です」
そう言って、彼女はリブに耳打ちする。
銅貨十枚を支払い、緑色の魔石を受け取りながら、リブは問いかけた。
「これ、誰が……」
「以前、一緒に組んでいましたよね。その方です」
「……ナナシが?」
最近の彼女は、討伐よりも収集を選んでいるという。
理由は、語られなかった。
リブも、踏み込まなかった。
ただ、胸の奥に、
名づけられない違和感だけが残った。




