第47話: 少女は、夜の熱を現実として受け取った
いつの間にか、あたりはすっかり暗くなっていた。
窓の外から聞こえる喧噪が、夜が深まっていることを静かに知らせている。
どうやら、眠っていたらしい。
シーツの上で重ね合わされていた、骨ばった大きな手。
さっきまで少女を縛るように絡めていたその手は、
今はまるで別のもののように、静かに、やさしく包み込んでいた。
「っ……」
かすかな息を漏らし、少女は目を開く。
すぐそばから、規則正しい寝息が聞こえてくる。
目の前の男は、まだ眠りの中にいるようだった。
薄い瞼は動かず、夢の向こうに身を委ねている。
少女は、鉛のように重い身体を、ずるりとわずかに動かす。
そのわずかな動きに反応したのか、
「んー……」
低い声が喉の奥で鳴った。
吊り上がった細い瞳が、ゆっくりと開いていく。
「おはようさん」
無造作で、どこか気の抜けた声。
それに対し、少女は短く答える。
「……もう、夜だよ」
ヴルは一瞬だけ天井を見上げ、それから大きく息を吐いた。
「……腹減ったな。なんか食いに行くで」
そう言って身体を起こし、床に散らばった衣類を拾い上げていく。
何事もなかったかのような所作だった。
少女もまた、いつまでも無防備なままでいるわけにはいかず、
視線を落としながら、点をたどるように服を身につける。
乱れた髪を手櫛でまとめ、一つに結んだ。
「明日には帰るで。最後の夜やからな。後腐れないよう、楽しも」
「……もう、飽きてるよ」
「冷たいこと言わんといて」
軽口のようでいて、どこか探るような声。
少女はそれ以上、言葉を返さなかった。
夜市には、これまでにも何度か足を運んでいた。
レイナンでできることは限られている。
食べて、眠って、それだけだ。
酒が進む商人の街。
少しだけ肌寒い夜気に、白い息がふわりと溶けた。
「ん」
差し出されたのは、ほかほかの肉まんだった。
白く膨らんだ皮の中には、ひき肉や椎茸、たけのこが詰まっている。
この街で育まれてきた、素朴な食べ物。
布越しに伝わる熱が、掌に残る。
一口かじると、口の中が火傷しそうになるほど熱かった。
――生きている。
その熱が、そう告げている気がした。
「……この世界に来てから、ずっと夢の中にいるみたいだった」
喧噪に紛れるように、少女はぽつりと呟く。
「でも、少しだけ……現実なんだって、分かった」
誰に向けた言葉でもない。
答えを求めていたわけでもない。
それでも、ヴルの大きな手のひらが、ふいに少女の頭に置かれた。
整えたばかりの髪が、遠慮なく乱される。
「やめて」
払いのけようとした、その手首を越えて、
手のひらが少女の顔を覆い隠す。
視界が塞がれ、音が遠のく。
「わいは、ここにおるで」
そのとき、彼はどんな顔をしていたのだろう。
確かめることはできなかった。
少女は、その答えのない問いを、そっと意識の奥に追いやった。
***
翌朝――
朝日が昇りきる前、荷馬車は静かに動き出した。
少女は、すっかり元気を取り戻したマンドラゴラを、両手で大切そうに抱えている。
葉をゆらゆらと揺らしながら、「ぷ、ぷ、ぷ」と小さな鼻歌を奏でていた。
「なあ、その子。どないするん?」
かっぽ、かっぽ、と馬の蹄の音に混じって、ヴルの声が届く。
ずっと連れていくわけにはいかないだろう、という含みがあった。
「……元の場所に、返すよ」
「ぷ!?」
聞いたことのない声を上げて、マンドラゴラは葉を大きく揺らした。
「蛇の魔物みたいに、テイムすることもできるやろ?」
「……あれは、テイムじゃない。わたしの守護者。それに、この子は……一度、消えた命。本当なら、生きてちゃいけない」
「それも、カミサマの力ってやつか?」
「……そう、かも」
仕組みは分からない。
壊れたなら、また作り直せばいい――そう言っていた彼の声が、記憶に残っている。
再び会えた喜びと同時に、無理やりこの世界に留めてしまったという背徳感が、胸の奥に沈んでいた。
だからこそ、できることは尽くしたかった。
「この子のために……やっぱり、会わないと……だめなのかも」
ヴルは答えなかった。
少女は小さな鉢植えを、ぎゅっと抱きしめる。
その瞬間、とろん、と甘い香りが、少女の周囲に静かに広がった。




