第46話: 少女は、帰る場所の名をまだ知らない
かれこれ、三日が経った。
帰りたいような、
帰りたくないような。
そもそも――帰る、とは何だろう。
どこへ、なのだろう。
少女はそんなことを考えながら、ダイニングテーブルに置かれた椅子に腰掛けていた。
向かいには、妙な訛りで流暢に商売をする男――ヴル。
コーヒーをすすり、朝刊に目を落としている。
「……」
目の前にいるのに、
“あの日”から、目が合わない。
東の森で、『あらゆる植物の命を吹き返す大樹』に会った日からだ。
言葉も減り、視線も交わらず、触れられることもなくなった。
誰からの干渉も拒む少女にとって、それは決して悪い状況ではない。
だが――ギルドもなく、仕事もなく、役割もない。
レイナンに留まる時間が、少しずつ息苦しくなっていた。
帰りたい。
本心が、胸の奥で疼く。
「ぷ?」
窓際で日向ぼっこをしていたマンドラゴラが、少女の気配に反応する。
少女は声に出さず、「大丈夫だよ」と口だけを動かし、微笑んだ。
「……なんや。魔物には、そんな顔できるんやな」
ふいに、数日ぶりに聞くヴルの声。
彼は朝刊をばさりと広げ、わざと顔を隠す。
「……あの……」
少女は、静かに息を吐いた。
「いつ……帰るの?」
「帰りたいんか?帰る場所もないんに」
「……ない、けど……」
「ここが気に食わんのやったら、自分の足で帰ればえぇやろ。 一週間も寝ずに歩けば、見知った景色に出くわすで」
「……道が、分からない」
「地図があるやろ。地図が」
久々に発せられた言葉は、ひどく冷たかった。
少女は黙り込む。
するとヴルは、わざとらしく大きな溜息をついた。
「重たいんや、あんた」
「……?」
堰を切ったように、言葉が落ちる。
「パンドラの箱すぎるやろ」
「……なんのこと?」
「あの森でのこと。あんた自身や。調べても調べても、底がない」
少女は答えられない。
「わいの主義やないねん。人をあらゆる方向から調べ尽くすのが、わいの流儀や。けど、あんたの場合……聞かなあかんやろ」
「……『なんでもする』って、言った」
森に行く前。
離してくれないヴルに投げた言葉。
――お願い。離して。 離してくれたら……なんでもする
その言葉に、彼は応じた。
「……その言葉、甘えてもえぇんかな」
自分に言い聞かせるように、ヴルは呟く。
「ナナシちゃんのこと、聞いてもえぇ?」
「答えられることなら……いいよ」
「そこは全部やろ!」
ヴルは立ち上がり、朝刊を床に落とす。
ようやく、視線が重なった。
そこにあったのは、ふっと力を抜いた笑み。
「誰にだって、言いたくない秘密の一つや二つある。あんたの秘密は、道行く人に聞けば山ほど出てくる。けど……あんたは、わたしにそれを知られたい?」
「……」
言葉を失ったヴルを見て、少女は少しだけ口角を上げる。
「……そういうこと」
その表情は、わずかに意地悪だった。
「分かった」
ヴルは椅子に座り直す。
「これは三日三晩考えた、わいの考えや。ありえへんくらい、ありえん話や。せやから、違ったら否定せぇ。ええな」
腕を組み、少し偉そうに。
「ナナシちゃん。あんた……別の世界の人やろ?」
非現実的な答え。
それが、ヴルのたどり着いた“箱の中身”。
少女は一瞬だけ視線を逸らし、再び前を向く。
ゆっくりと呼吸をして――
「……そうだよ」
それだけを告げた。
無表情のまま、前を見つめる。
少女自身も、ようやく辿り着いた答えだった。
誰も自分を知らず、地名だけが似て非なる形で点在する世界。
散りばめられた星々のように。
この世界は――
少女の知る世界ではない。
レインはいない。
いるのは、居場所を与えた存在――
アストレイルと名乗る、神だけ。
「……やっぱりな」
ヴルは、納得したように何度も頷いた。
「ほな、ついでに教えてや。どうやって、ここに来たんや?」
「…それを知ってたら…… わたしは、ここにはいない」
「あの大樹は、あんたのこと知っとるようやったけど?」
「前に……一度だけ、会ったことがある」
「この街で?」
「違う。別の街」
「ほーん……パラレルワールド、みないなもんかか」
点と点を繋ぐように、問いが続く。
「あんたの言う“カミサマ”って……どんなやつや?」
「……言えない。言ったら、きっと……」
視線を落とす。
考えるだけで、恐ろしい答えに行き着きそうで、身体が震えた。
「好きなんか?そいつのこと」
「……怖い」
あの時。
考えるよりも先に、身体が逃げていた。
少女は走った。――逃げる、という衝動だけを残して。
背後から、視線が突き刺さる。
振り返らなくても分かる。
そこにあるのは、追う意思ではない。
捕まえたと信じ切っている眼だった。
執着。
束縛。
固執。
所有。
名前を与えた瞬間、それらは一斉に蠢き出す。
絡みつく腕はないのに、呼吸は奪われ、足は縫い止められる。
逃げているはずなのに、すでに――逃げ場はなかった。
思い出すだけで、背骨の奥が冷え、胸の内側が、音もなく縮こまる。
あれは恐怖だった。
触れられていないのに、奪われると知ってしまった、あの感覚。
「ほな……わいのとこに、逃げるつもりはないか?」
椅子が、がたんと鳴る。
少女の顎が、指先一つで静かに持ち上げられた。
逃げ場を失った視線が、否応なく絡め取られる。
その瞬間、朝日が窓を越えて流れ込み、二人の影を白く裂いた。
夜の余韻も、迷いも、言い訳も――
すべてを暴くような、容赦のない光だった。
「……選択肢の一つ、ではある」
「そこは素直に“はい”でえぇやろ」
窓から射す朝日に照らされ、二つの影は、静かに重なり合っていた。




