第44話: 少女は、夜に灯る街へ足を踏み入れた
馬が、ゆるやかに歩を緩めた。
それが合図だった。
どうやら――東に着いたらしい。
空はすでに色を失いはじめている。
出発したのは日が傾ききる前だったから、深夜というほどではない。
けれど、昼とも夜ともつかない、境目の時間だった。
「ほら、着いたで」
荷台のカバーが外され、少女はようやく外の光を目にする。
「あ?連れてきてもろたっちゅーのに、お礼の言葉もなしか?」
「……お礼の言葉」
「ちゃうわ。『ありがとうございます、ヴル様』、やろが」
「ありがとうございます、ヴル様。……これで満足?」
「……なんや、ごっつ負けた気ぃするわ〜」
軽口の裏に、探るような視線。
ヴルのような相手には、真正面から感情をぶつけるだけ無駄だと、少女はもう理解していた。
感情を削ぎ落とし、言われるままに応じる。
人形のように振る舞えば、彼は興味を失う。
案の定、ヴルはそれ以上絡むこともなく、肩をすくめた。
「レイナンへ、ようこそ」
そこは大通りの一角。
赤と黄色を基調にした、熱を帯びた街だった。
鼻を刺す、薬草と煎じ薬の匂い。
人の足音は絶えず、夜だというのに街は明るい。
――ここが、レイナン。
「ここが、わいの東での住み家や」
指を鳴らす音と同時に、赤い提灯が灯る。
しばらく留守にしていたのだろう。
閉ざされていた木の扉が横に開き、その奥からガラス戸が覗いた。
手前には、空になった木箱が積まれている。
商いが盛んだった名残だ。
「……物置みたい」
「ひどい言い草やな」
少女は腕の中で眠るマンドラゴラを抱き直し、荷台から降りる。
慣れない姿勢だったせいで、足元がわずかに揺れた。
「おっと」
鉢植えごと、ヴルが抱きとめる。
――その瞬間。
「おう、ヴルのあんちゃん。帰ってたんか?」
似た訛りの声がかかる。
少女は反射的に身を引こうとした。
だが、ヴルの腕は緩まない。
むしろ、逃がさぬように囲い込まれる。
「なんや。女連れか。モテる男はちゃうなー」
「しばらくこっちにおるさかい。困ったことあったら、声かけてや」
のらりと話を流しながら、知り合いが去るまで、ヴルは少女を離さなかった。
「……やめてよ。こういうの」
「心配すること、なんもあらへんよ」
低く、言い聞かせるような声。
「レイナンで、君のこと知っとるやつはおらん。ここでは姿を隠す必要もないし、無駄に悪態つく必要もあらへん」
「………」
胸の奥で、ほんのわずかに緊張がほどける。
「せやから、ちょいと街を歩かへん?どうせ夜やし、大樹に行くのは朝になってからでも遅うないやろ」
「……行く。急いでるから」
囲われていた腕の力が、わずかに強まる。
「朝にならんと、危ないで」
「魔物は、わたしの敵じゃない。それに――夜じゃないと、だめなの」
「……は?」
「お願い。離して。 離してくれたら……なんでもする」
「『なんでも』?」
その言葉に、ヴルの喉が小さく鳴った。
腕の力が緩んだ、その隙に、少女はするりと抜け出す。
「……なら、わいも行くで」
「いいよ。ついてこれるなら」
東の、さらに東。
静かな森がある。
夜に入ってはならない、と言われる場所。
来る者を惑わせ、帰る意志を鈍らせる。
なにもないようで、なにかがある――
そんな森。
少女は、ためらいもなく。
静かに、一歩だけ、踏み込んだ。




