第43話: 少女は、星の消えない朝に立っていた
朝だというのに、その空間から星は消えなかった。
夜と朝の境が曖昧なまま、暗がりは少女の足元だけを淡く照らしている。
「……急いで。東に行くよ」
まだ眠りの底にいるマンドラゴラをそっと起こし、小さな鉢植えへと移し替える。
柔らかな土に触れたその身体が、わずかに震えた。
「ぷ……?」
状況が飲み込めないまま、きょろきょろと視線を彷徨わせる。
だが、少女の腕に包まれると、マンドラゴラは静かに目を閉じた。
限界が近い。
それは、抱きしめる腕越しにも伝わってきた。
「大丈夫……すぐ、よくなるから」
自分に言い聞かせるように囁き、浅い呼吸を繰り返す小さな命を胸に抱く。
そして少女は、覚悟を決めたように立ち上がった。
――そのとき。
「どこへ行くんだい?」
背後から、アストレイルの声が落ちてくる。
静かな声。
けれど、確かに怒りを孕んでいた。
「いつもと違う香りがするね。……どこに行っていたのかな」
近づいてくる気配に、少女の足は無意識に後退する。
答えられないまま、言葉は喉に絡まった。
アストレイルは歩みを止めず、少女の髪をひと房すくい取る。
鼻先に寄せ、その香りを確かめるように深く息を吸った。
昨晩の傷跡が浮かぶ首筋を人差し指でゆっくりとなぞる。
「この痕は、誰のもの?」
視線が、離れない。
「……東に、行くから」
震えを抑えた声で、少女は告げた。
返事はない。
ただ、見つめられている――それだけで、空気が重くなる。
耐えきれなくなり、少女は踵を返した。
逃げるように、小走りでその場を離れる。
それでも、背中に刺さる視線は、最後まで消えなかった。
***
ヴルの商店へ戻ると、すでに移動の準備を整えた男の姿があった。
馬は手入れを終え、静かに地を踏みしめている。
「……東に、連れてって」
「おいで」
短い返事とともに、手を引かれる。
少女はそのまま荷台へと導かれた。
「大事なもんは、それでえぇんか?」
ヴルの視線が、少女の腕に抱かれたマンドラゴラに向く。
「……うん」
商人でありながら、そこに価値を見出す様子はない。
荷台にカバーがかけられ、外の光が遮断される。
「まあ、これで……あんさんも、それの匂いも、目立たんやろ。ついでに、飯も買いに行くで」
「なんで、ここまで良くしてくれるのか、分からない。…わたしと一緒にいたら……お店、困るでしょ」
「『魔王様』やもんな。こんな可愛い魔王様がおるんやったら、大歓迎やけどな」
冗談か、本気か。
その境目は、いつも曖昧だ。
「それに…気にせんで。わいは」
背中越しの声は、不思議と軽かった。
やがて馬が低く鳴き、歩き出す。
「ここな。おすすめやねん」
しばらくして、馬が止まる。
荷台の隙間から外を覗くと、まだ街の中だった。
ふわりと漂う、香ばしいパンの匂い。
「よっと」
荷台がわずかに傾く。
「おばちゃーん。街を離れるから、いつもの多めにな。あと、これと……これや」
「はいはい。分かったよ。ちょっと待ってな」
元気な声と、紙袋の擦れる音。
行きつけであることは、疑いようがなかった。
再び荷台が揺れる。
「預かっとって」
隙間から差し出されたのは、大きな紙袋。
中には、いくつもの種類のパンが詰まっている。
「暇があったら、できるだけ空にしといてくれると助かるわ」
「……お金は?」
「今日の朝の分で、おつり出たやろ」
少女は思い出す。
だが、何も言わなかった。
その沈黙に満足したのか、ヴルは馬に合図を送る。
再び、車輪が軋み、荷台が揺れた。
街の喧騒は、次第に遠ざかる。
がたん、がたんと揺れる荷の音に紛れながら、
少女は確かに、街を離れていくのを感じていた。




