第40話: 少女は、東という名の輪郭に手を伸ばす
前の話が短すぎたので、もう一話投稿します
東へ行くと、決めた。
けれど――足がない。
少女は膝の上に広げた地図を見つめ、喉の奥で低く唸った。
この距離。
目で追うだけでも分かる。歩けば、早くて一週間。
時間がない。
この遅さは、致命的だった。
馬車を捕まえるのは、ほとんど不可能だろう。
『魔王』と呼ばれる少女に、進んで手を貸す者など、いるはずがない。
そんなときだった。
ふいに、頭上に影が落ちる。
「地図ばかり見て、どうした?」
声に、身体が強張る。
見知った声。
見知った顔。
――リブの……父親。
ユウゴ。
「……」
買い物帰りなのだろう。
袋の中には、見覚えのあるジャガイモが覗いていた。
少女は、言葉を失う。
この男と、まともに話したことはない。
「どこかに行きたいのか?」
気にかけているのは分かる。
けれど、それは一般的な“優しさ”とは少し違う。
底が見えない。
目の前にいるのは、確かに自分なのに――
彼の視線は、いつもその先を見ている気がした。
「隣、いいか?」
返事を待たず、ユウゴは袋を地面に置き、少女の座る木箱の隣に腰を下ろす。
二人の間に、気まずい沈黙が落ちた。
「俺は、知識人だ。困っていることがあるなら、助けられる知識を提供できる」
どこかへ行ってほしかった。
けれど――背に腹は代えられない。
「あ、あんたに……聞きたいことがある」
「ん?」
「東の森に……『あらゆる植物の命を吹き返す大樹』があるって、知ってる?」
おそるおそる、問いを投げる。
もし、「知らない」と言われたら、それだけで、希望は潰える。
マンドラゴラのことを、どうしてもアストレイルには託したくなかった。
あんなことになったのは――おそらく、あの男のせいだと、少女は思っていた。
「……よく、知っているな」
ユウゴの眉が、わずかに動く。
「君は、東出身か?」
突然向けられた関心に、少女は視線を地図へ落とす。
「違う。……違う。ただ、そういう話を、聞いたことがあるだけ」
「そうか。確かに、君には向こう特有の訛りはない。だが……そんな昔話を知っている人間がいるとは、驚きだ。誰から聞いたんだ?」
「そんなの…誰でもいいじゃん…」
「そ、そうか…。悪かった」
顎に手を当て、じゃり、と音を立てる。
「………その…地図を、見せてくれるか?」
少女は一瞬ためらい、無言で地図を差し出した。
「……だいぶ古いな。すごいな…。こんな古いのを見たのは初めてだ。よく手に入れたじゃないか」
「さっき……買った」
「どこで?」
「ギルド近くの、古本屋」
「あそこか……。なるほど。そういうものを取りそろえる本屋だったのか。…随分と、堅物だったろう?」
「……うん」
舌打ちで迎えられた記憶がよみがえる。
「あのじいさん、店全体を結界魔法で囲ってるんだ。かなり強力な結界でな。俺も入ったことがない」
「……」
あのとき感じた違和感。
それが、結界のせいだったのか。
「よく入れたな。もしや凄腕の魔法使いなのか?」
「詮索…しないで。そういうところ、リブにそっくりで…きらい」
「む…悪かった。性分なんだ…」
悪気がない分、質が悪いと感じた。
申し訳ないと何度も謝る部分は、リブとは違う誠実さが垣間見えた。
「昔は、まともな本屋だったんだ。その頃は俺も入ったことはある。だが、本を集めることが楽しくなってな……いつの間にか、手放すのが怖くなったみたいだな」
「……変な人」
「いつか店ごと買い取れたら、面白いものが見られるかもな」
いい性格をしている。
ユウゴは地図を広げ、街を指差す。
「ここが、俺たちのいる場所」
そして、指先は東へ。
「噂の発祥が、ここ――レイナンだ」
森の中央に開いた空洞。
大きな街。
「薬草を焚いた煙が常に漂い、市場は夜まで続く。商人も多い。時間になると、花火が上がるらしい」
頼んでもいない説明。
それでも、街の姿が、鮮やかに浮かぶ。
「大樹は、その街から離れたどこかにあると言われている。誰も見つけていないが……息を吹きかけられた草木は、必ず緑を取り戻すそうだ」
――知っている。
理由は分からない。
けれど、大樹は、少女の記憶の中に“いた”。
会ったことがある。
そんな気がした。
「……どうやって行けばいい?時間がない」
ユウゴは、理由を聞かない。
ただ、答える。
「東出身で……金で動く男がいるが……」
勧めはしない、と、口だけがそう言った。
「行ってくる」
――あの男。
自分を売ろうとした、あの怪しい男。
誰でもいい。
なんでもいい。
あの子が、救えるなら。
少女は、ユウゴの制止を振り切り、
するりと路地裏の影へ溶けるように消えた。
東へ向かう、覚悟だけを残して。




