第37話: 少女は、赤く熟れたリンゴを食す
朝の端に、ようやく光が滲みはじめる頃だった。
デネラと少女は、その日の作業をやっと終えたところだった。
冬の朝は刺すように冷えるというのに、額には汗が浮いている。
このまま放っておけば風邪をひくだろう、とデネラは思う。
「ふー……ようやく終わったね。おつかれ」
「……っ」
「ハードだったでしょ? 体にきたんじゃない?」
何年続けていても、慣れるということはない。
足は鉛のように重く、腕は痺れて、身体の輪郭が自分のものではなくなる。
それでも、生きている感覚だけは確かに残っていた。
白い息を空に吐きながら、デネラは言う。
「ご飯、食べていく?」
「……いら、ない」
「そっか。気が向いたら来なよ。あいつの家より、ずっとマシなもの作って待ってるから」
「……あいつ」
あいつ――それはリブのことだ。
少女とリブがどうにも相性が悪いのは知っている。
けれどデネラは、二人はいつか分かり合えると、どこかで本気で思っていた。
「ねえ。なんであんたは……あいつと一緒にいるの? あいつ、性格よくないし……嫌い」
「わかる、わかる。言葉に悪意あるよねー」
「……嫌にならないの?」
「ナナシちゃんみたいに最近一緒になったわけじゃないしね。何年もいるから、慣れたよ」
「慣れ……それで、いいの?」
「それでっていうのは?」
「きつい言葉で責められて、ヘラヘラして……人の喧嘩の中に入る。全然、楽しくなくない?」
「ははっ。言えてる」
リブの棘のある言葉。
他人なら疎ましく思うだろう。
けれどデネラは、ふっと笑って受け止める。
「傷つくときはあるよ」
デネラは肩にかけたタオルで額を拭った。
「こんな性格だからね。何言っても傷つかないと思われてる。ギルドの人たちに『農家の娘が何の用だ』って笑われてるのも知ってる。でも、言い返せない。……ほんとに図星だから」
「……辛く、ないの?」
「逆にありがたいって思うようにしてる。だってさ、限られた時間の中で、あたしのためにその人は十何分も使ってくれたんだよ。隠さないで本音をぶつけてくれるって、普通はできないことだから」
少女はかすかに嘲るように息を漏らす。
デネラの言葉は、共感しづらいのだろう。
それでも、聞いてもらえるだけでデネラには嬉しかった。
こんな話を誰かにしたのは初めてだった。
「……あんたは、それが素なの?」
「裏のない人間もいるんだよ。あたしはそう。……例えるならリンゴ」
「りんご」
「食べ頃の。そろそろ旬が来るから、持っていきなよ」
少女を果樹園へ連れていく。
そこは、父が手塩にかけて育てた場所だった。
不器用に見えて、繊細なところのある父らしい、宝石のような果実が実っている。
デネラは、その中からひとつ、赤く熟れたリンゴをもぎ取る。
霧の粒が表面に残り、朝の光を淡く返していた。
「今日のお礼ね」
「……」
少女は黙って、大きな果実を見つめた。
「リンゴってさ。生で食べるとおいしいでしょう? 健康にもいいし、育てるにはちょっと繊細なところもあるけど、立派に育てば毎年ちゃんと実る」
身振り手振りで熱心に語るデネラを、少女は静かに眺めていた。
「スパイス混ぜても不味くならないよ。最初から最後まで、真正面のおいしさがある。あたしはそういう人間。ナナシちゃんも、それを信じればいい」
少女は赤い果実を見つめながら、ふっと笑う。
「……例え、うまくないよ。ハズレのりんごもあるし、時間が経てばボケて不味くなる。真正面の美味しさなんて……存在しない」
地に落ちたリンゴには、黒い穴がいくつも開いている。
「中から虫が出るかも。市場で売られてても裏が腐ってるかもしれない。そんな不確かなもの、信用できない」
「じゃあさ。おいしいって思うところだけ食べればいいじゃん。不味いとこは捨てていいから。まー、あたしは全部食べられるけどね。酸いも甘いもどんどこい!」
「規格外じゃん」
呆れたように少女が言う。
なんでも丸く収めようとするデネラに、言い返す気力も削がれるのだろう。
「あたしは、誰にでも自分と同じになれって言ってるわけじゃないよ。……人によっては、おいしいところだけ食べたっていい。ナナシちゃんが思うあたしのおいしいところだけ食べればいいよ」
太陽みたいな笑みを浮かべ、デネラは続けた。
「ナナシちゃんみたいな人がいてもいいんだよ。そんでさ、いつか、気が向いたらでいいから、不味かったとこも食べてみて。……もしかしたら、おいしいって思うかもしれない」
「やだよ。そのころには腐ってる」
「例えだってば!」
「……知ってる」
少女は、ほんの少しだけ表情をゆるめた――ように見えた。
「……わたし、そろそろ行く」
「えー、もう?」
「……この時間には……帰らないと怒られる」
まだ朝なのに?誰に?と聞きかけた瞬間、家の中から母に呼ばれる。
返事をして振り返ると、少女はもう畑から姿を消していた。
「あーあ……」
タオルを首に巻き直し、デネラは片付けを始める。
服を脱いで泥を落とし、顔を洗い、朝食をとって一息ついた。
両親は少女のことを根掘り葉掘り聞いてきた。
しかしデネラにもわからないことばかりだ。
どこで出会ったのか、いくつなのか、名前は――。
答えに迷っていると、戸が激しく叩かれた。
「デネラ! どこ行ってたんだよ! 手伝ってほしいことがあるって言ったろ!」
リブだ。
「あれ? 今日だっけ? ごめん、忘れてた!」
「まあまあ、上がりなさいよ。ちょうどご飯よ、リブくん食べた?」
「若いんだから、もっと食え、食え」
「う、うっす……」
デネラの両親はリブが大好きだ。
朝食はあっという間にリブの話題で満たされる。
リブは渋々ながら、二度目の朝食に箸をつけた。
少し苦しそうに食べる彼の横顔が可笑しくて、デネラは笑いをこらえきれない。
「笑うなよ。好意は無碍にできねぇから」
「ごめん、ごめん」
「……そうやってヘラヘラ謝る癖、やめろよ。反省してねぇみたいに見える」
「えー?」
パンにチーズを挟みながら、リブはデネラを肘でつついた。
「明日は忘れるなよ。今日は無理だったけど、ぜってー手伝え」
「はーい」
「なんか機嫌いいじゃん。何かあった?」
「顔に出てた?」
「何年一緒にいると思ってんだよ。傷ついてんのに傷ついてねぇフリしてるとことか知ってるんだよ」
「はは」
「……頭打った?」
「いや。ただ、美味いもんばっか食べてたいなって思っただけ」
「なんだそれ? お前、俺に隠れて高級レストランでも行ったのか!」
首根っこを掴まれて揺らされ、デネラは吹き出す。
「全員がリブみたいにご飯に夢中ってわけじゃないから!」
そう言いながら、デネラは少女との朝を少しだけ語った。
***
少女が戻った場所は、昼とは正反対の闇だった。
夜のように深い影の中で、頭上には星がくっきりと瞬いている。
「水……あげる。肥料も……」
言われた通り、根に水を含ませ、肥料をひとつまみ。
完全に燃え尽きたと思っていたマンドラゴラは、
なぜか以前と変わらぬ姿で、少女の前に戻ってきた。
「……ぷ」
けれど、葉の端に枯れ色が混じっている。
限界が近いのだ。
だから少女は、デネラのもとで植物の扱いを覚えることにした。
「きゃぷ」
「美味しい? 良かった……元気になって。あと、人は襲わないで。……君が傷つかないため。君を守るため。……約束」
「きゃぷ」
マンドラゴラは、まるで微笑むように、葉を揺らした。




