第36話: 少女は、とある農家の娘と話す
夜の気配がまだ町の底に残り、鶏の声すら眠っている早朝。
薄く煙る朝靄の中を、デネラはいつものようにゆっくりと走っていた。
ふいに、靄がゆらぎ、人影が沈むように現れた。
「えー……ナナシちゃーん」
声をかけた瞬間、少女の顔に浮かんだのは、言葉にできないほど露骨な“嫌そうな表情”だった。
知り合いに向ける顔じゃない。けれど、彼女らしい、とデネラは心のどこかで思う。
「嫌そうな顔しないでよ」
少女は返事もせず、靄の奥から静かに歩み出た。
「ナナシちゃんもランニング?」
そんなはずはないのに、口が勝手に動く。
「……今日は……あいつと一緒じゃないんだ」
「あいつ?ああ、リブのこと?」
「いつも……腰巾着だから」
「あたしが? まあ……確かに。リブのこと、気になる?」
「うん。嫌いだから。いると不快」
「不快かぁ……」
デネラは歩調を落とし、少女の歩幅に合わせて並んだ。
朝の冷たい空気が、ふたりの間に薄い膜のように漂っている。
「ねえ」
少女が小さく口を動かしながら、デネラの腕を見つめた。
そこには、トレントとの戦いで負った薄い傷跡が残っている。
「……わたしのこと、怖い……?苦手……?」
「ん?」
「あの時、傷つけた……から。まだ……痛い?」
デネラはそこで気づく。
――この子にも、“人の感情”と呼ばれるものが、確かに息づいているんだ。
「痛いって言ったら、傷ついた顔しちゃうでしょ?」
「え?」
「もう治ってるし。大丈夫。あたしはナナシちゃんのこと、怖くも苦手でもないよ。じゃなきゃ、こうして話しかけたりしないって」
「……そう」
ほっとしたように見えた少女の表情が、ほんのわずかに柔らいだ。
「こうやって話すの、初めてだね」
「いつもうるさいのがいるから……」
「あたし、女の子のお友達っていなかったんだ」
風に混じって、デネラの鼻歌がかすかに揺れる。
「お友達にならない?」
少女は目を伏せたまま、すこしだけ呼吸を乱した。
「……別に。普通」
「普通って……」
心を開いたわけじゃない。ほんの僅か、扉がずれただけのような。
「じゃあさ、職場体験しない?」
「職場……体験?」
「あたしの本業は農家。植物を育てるのがどういうことか、やってみてさ。ナナシちゃんが、あたしとどう関わりたいかも、それで決めたらいいよ」
「植物……」
少女の目が、ほんの少しだけ深くなる。
「植物を傷つけない方法……ある?元気にする方法……知ってる?」
「本業だし。そりゃ、知ってるよ」
「……じゃあ、行く」
「え、あ……うん」
意外すぎる返事に、デネラは一瞬目を瞬かせた。
「じゃ、こっち。……あ、両親にナナシちゃんのこと紹介しても平気?」
「……必要なら。返事するかどうかは別……だけど」
「大丈夫。ナナシちゃんが嫌がることはさせないから」
ふたりはデネラの家へと歩きはじめる。
冷たい土の匂いが、朝の空にゆっくりと立ち上っていた。
***
畑に着くと、デネラは少女にジョウロを渡した。
「今日は水やりね。簡単だから。あたしは後ろから肥料入れるよ」
「水……植物には大事……なの?」
「そりゃそうだよ。この子たちのご飯だから。あげすぎは良くないけどね」
「……うん」
少女はジョウロを両手で抱え、ゆっくりと畝の間を歩く。
その姿は、不器用ながらも丁寧で、どこか祈るようだった。
「葉っぱにだけあげても意味ないよ。根っこにもね」
「え……あ、うん」
言われるままに戻って水をやり直す少女の背中は、小さな集中の熱を帯びていた。
「水魔法使えば楽じゃない?」
「魔法の使い方なんて知らないし……杖、なくしちゃったし……無理」
「魔力こめるのって難しいもんね。わかるよ」
「……呆れないんだ」
「呆れるってのは期待してる時に出る感情だよ。あたしは自分にも期待してないからさ。ナナシちゃんにも呆れようがないってわけ」
「……あっそ」
少女は黙り込み、また水を落とし始めた。
その隣で、デネラは肥料の匂いに苦笑する。
「それ……臭い……」
「肥料ね。水だけじゃ足りない栄養をあげてるの。人間がパンばっか食べてたら倒れちゃうのと一緒」
「…………こんな臭いのに?」
「こんな臭いのに、大事なんだよ」
やがて、少女のジョウロは空になり、彼女は重たいバケツを抱えてぽつりとつぶやいた。
「……水……なくなった」
「井戸の使い方はわかる?」
「……うん……」
デネラはその“うん”が怪しいことを察しながらも、あえて何も言わず見守ることにした。
少女は井戸の前で、しばらく悩むように周囲をうろついた。
朝の光が、彼女の髪を淡く縁取りしている。
そのとき、勝手口からデネラの母が出てきた。
「あ」
嫌な汗が背を伝う。
少女は一歩後ずさり、母は当然のように話しかける。
「どうしたの?黙ってちゃわからないじゃない。水汲みたいの?」
「お母さん!!大丈夫!!あたしが教えるから!!」
デネラは慌ててふたりの間に身体を滑り込ませた。
「いいから、お母さん先にやって! ナナシちゃんはゆっくりでいいから!」
母の視界から少女をそっと隠すようにして、デネラは手際よく井戸から水を汲む。
「ごめんね。あたしのお母さん……ナナシちゃんの苦手なタイプでしょ?でもさ、ポジティブに考えてみて。良い出会いだったな、的な感じで!」
「………出会いも別れも全部面倒だよ。辛いと思う感情も、楽しいと感じる一瞬さえも愚かで…迷惑」
少女の声は風の下で消えそうに小さい。
「それが人間の存在意義みたいなところだし。あたしは出会いも別れも意味があると思うよ」
「意味なんて作らなくていいでしょ。無駄じゃん」
「無駄じゃないよ。それらを通してあたしらは成長していくんだから。喜怒哀楽、過去、未来、そして現在。辛いことも楽しいことも、全部を通して自分の糧になる。無駄なんてこと、一個もないでしょ?」
「なにそれ。超ポジティブシンキング」
「よく言われる」
肩越しに落ちた影が、ふたりのあいだをひとつに溶かす。
「……楽しく……なるのかな?」
「なるなる」
「……そっか……」
デネラが汲んだ水を少女のバケツに移すと、少女は小さく息を吐いて持ち上げた。
「……重すぎ……」
その一言が、朝の畑に柔らかく沈んだ。
人生も、バケツも。
少女には、まだ少しだけ、重すぎるのだ。




