第33話: 少女は、傷ついた心を癒す
冷たい風が頬をなぞり、そこに残る熱をさらっていく。
そのひやりとした感触は、傷ついた心にまで入り込み、内側の痛みを静かに揺らした。
少女は、かつてレインが炊き出しをしていた小さな広場の片隅――
人目から遠ざかった、冷たい石の上に膝を抱えていた。
だからこそ、レインの影が自分の頭を覆ったとき、胸の奥がわずかに跳ねた。
「今日は……痛そうだね」
「放っておいて」
腫れた頬を服の袖で隠しながら、少女は小さく息を吐く。
「強がらないで」
レインは、自分の肩に掛けていた上質なコートを、そっと少女の肩に置いた。
「やめて。同情とかいらないから」
「動き回って暑いんだ。……でも、ハンガーがないからさ。少しだけ、ここに」
「…………それなら……いい」
少女はコートの袖を指先でつまみ、そっと握りこんだ。
その小さな仕草に気づいたのか、レインの目元がやわらかくほどける。
そして、彼の手がゆっくりと少女の肩へと伸び――
「!!……わたしに触るなって……言ったじゃん!」
「動かないで。……傷が悪化する」
その言葉と同時に、ふわりと暖かな光が少女を包んだ。
レインの右手から溢れた光は、少女の頬へそっと触れ、痛みを撫でるように溶かしていく。
「治癒するだけだから。じっとしてて」
その光は、怖さとは違う、やわらかい温度だった。
触れられるたび、知らない感情だけが静かに胸に積もる。
それは、好意のかたち。
信頼の気配。
そして、誰かに大切にされるという感覚の、かすかな記憶。
光が消えたとき、痛みもまた消えていた。
「ね?……もう痛くないでしょ?」
「…………頼んでない」
レインの微笑みが目に触れた瞬間、少女の心臓がどくんと跳ねる。
思わず顔を背けると、冷たい風が髪を揺らした。
「うん。僕がしたくてしただけ。……これは僕のエゴ。僕が――君を守りたいと思ったから」
「……あんた、さ……」
「なに?」
「……なんでもない。もう、行く」
「また会えるかな?」
少女はその問いに答えなかった。
ただ、レインが羽織らせたコートの温もりを胸元でそっと握りしめると、
影のような静けさで立ち上がり――そのまま彼のコートを肩に掛けたまま、音もなくその場を離れた。
――…。
ようやく一人になれた、と思ったのは束の間だった。
事情聴取という名の疑いを晴らすため、門兵に同じ質問を何度も投げつけられ、
ようやく解放されたときには、夜の帳がすっかり落ちていた。
「ナナシ! お前……ついに人に手を出したって本当か?!」
……ああ、やっと静かになれると思ったのに、と少女は小さくため息をつく。
暗い路地の先に現れたのは、よりにもよってこの男だった。
街中が混乱しているというのに。
――どうせ我慢できず、父親の制止も振り切ってきたのだろう。
「…………」
「黙ってたって、何も分かんねーだろ。ちゃんと説明しろよ。何があった?」
説明する義務などない。
身内でもない他人に、胸の内を差し出す理由もない。
「街はまだ混乱してる。けど……ギルド仲間たちは、お前が人を殺したって口を揃えて言ってんだ。お前がそんなことするわけない……そうだろ?」
ああ、うるさい――。
少女はまた、小さく息を吐いた。
「……だったら……なに?」
「傷だらけになった女冒険者たちを見たって話もある」
「……先に手を出してきたのは、あっち。わたしは、なにも悪くない」
「じゃあ…あいつらの話は本当だっていうのか?死ぬくらい痛めつけられたって騒いでたぞ。お前が魔物を動かして、あいつらを殺そうとしてきたって。それにお前のことをーーー」
「『魔王』、でしょ?……それが真実なら、それでいい」
真実がどう扱われるかなど、少女はもう気にしていなかった。
彼女たちを殺すつもりはなかった。だから置いてきた。
生きるかどうかは、彼女たち自身の問題だ。
「は!?殺人未遂だぞ!!分かってんのか?」
「“わたし”は、何もしてない」
マンドラゴラは肥大しすぎた。
少女はただそれに対しーーー自らを壊すよう指示した。
結果、森がすべて燃えた。
「わたしは、何もしてない。……あいつが勝手に」
「お前は、圧倒的加害者だろ」
ああ。この目が嫌いだ、と少女は思う。
真正面からの正義。まっすぐすぎる眼差し。
自分とは反対にあるもの。
「……あんたは、いいよね。守ってもらって、正しく生きられて。ずっと強気のままでいられて」
「はあ?」
「おめでたい人だね」
この男を見るだけで苛立つ。
こんなにも潔白で、こんなにも“まっすぐ”でいられる存在が。
憎らしくて、やり場のない感情が胸で軋んだ。
「……お前は、残念だな。『守ってくれる人』がいなくて」
「いるよ」
「は?」
「わたしにも……いるよ。守ってくれる人」
少女は、ふっと笑った。
「おい、待てよ!」
「…………うざい」
その言葉とともに、少女の姿は白い息のように夜闇へ溶けた。
――…。
「……と、あの子は言ったのか?」
「ああ、確かに言った。あー……くっそ。ただ心配してただけなのに……なんであいつの顔見るとイライラすんだよ……」
家に戻るや、リブはいつもの反省に沈んだ。
少女が無事か確かめたかっただけなのに。
冒険者たちの言葉をそのまま信じたわけじゃない。
彼女たちは素行も悪く、嘘の一つや二つ、混ざっていて当然だ。
それでも、少女の言葉に触れた瞬間、感情がこぼれてしまう。
「ふむ……」
「なに? なんか気にかかることでも?」
「いや……そうだな。どういう会話でその返事が来るのか、検討もつかないが」
「……あ、ああ……」
リブは一部を省いてユウゴに話している。
少女への中傷は、口にしたくなかった。
「この街には、あの子を知る人間はいない。……そしてあの性格だ。すぐに人と打ち解けるとも思えない」
「……まあ……確かにな。あいつが俺ら以外の奴と話してるとこなんて、見たことねえし」
「守ってくれる人、か」
ユウゴは顎を指で撫で、静かに息を吐いた。
まるで、聞こえない声の続きを探すように。




