第30話: 少女は、かじかんだ手に白い息を吹きかける
雪が降りはじめていた。
白い粒は地に触れた瞬間すっと溶け、冷気だけを置いて消えていく。
――寒い。
少女は指先をぎゅっと握り込み、かじかんだ手に白い息を吹きかけた。
ざわめきが耳に刺さる。
見ると、路地裏には炊き出しの列ができていた。
湯気の向こうでは、困窮した者たちが貪るように木椀を抱えている。
「アークレイン様だ……」
「今日も来てくださった……ほんに、あの方は天使よ……」
称える声が重なり、少女はさらに身を縮める。
――ここにいたくない。
立ち上がろうとしたときだった。
湯気をまとった椀が、少女の目の前に差し出された。
「また会えたね」
「…………わたしは、会いたくなかった」
忘れたはずの声だった。
だが、あの光る路地での出来事が鮮やかに蘇る。
思わず、少女は視線を逸らした。
「食べる?温まるよ。今日のスープは特に美味しい」
「いらない」
拒もうとした瞬間、腹の奥が小さく鳴った。
自分の身体に裏切られ、頬が熱くなる。
レイン――そう呼ばれていた男は、微笑んだ。
「僕も食べたいんだ。一緒に……どうかな?」
「…………付き合っては、あげる」
少女は椀を受け取り、両手でそっと包む。
指に染みる熱が、ひどく懐かしい。
「そういえば、まだ名前を言ってなかった。僕はアークレイン。みんなはレインって呼ぶよ。君も、そう呼んでくれたら嬉しい」
「……覚えていたらね」
「十分だよ」
レインは、少女の隣に置かれた木箱へためらいなく腰を下ろした。
濡れて冷たいはずなのに、彼はそれを気にも留めない。
「今日は、怪我してないね」
「……いつもしてるわけじゃない」
「うん。でも、君はそのままがきれいだから」
さらりと落ちる言葉。
少女は思わず椀を持つ手に力を込めた。
違う世界の人間だ――そう思い知る。
少女は熱いスープをひと口飲む。
舌を少し火傷して、わずかに眉をしかめた。
「……いつも、ここにいるの?」
「たまたま」
「じゃあ普段は?どこに?」
「聞きたがり。知ってどうするの?」
肩が触れたところが、熱のように気になる。
少女は少しだけ身体を引いたが、レインも同じだけ近づく。
「気になってしまったんだ。……君のことを」
少女は小さく息を吸った。
「……あんたみたいなのは信用ならない。人の暮らしに土足で踏み込むタイプ。今もそう」
肩のぬくもりが、余計に胸をざわつかせる。
「互助精神は嫌い?」
「反吐が出る」
「そう言われると……ちょっと悲しいな」
「エゴでしょ。弱い人間に優しくして、自分を良い人間だと思いたいだけ」
「そんなことない…と否定したいところだけど、言葉ではうまく伝わらないね…。僕は君の力になりたい。小さなことでもいい。それだけなんだ…」
空になった椀を木箱に置くと、レインがそっと手を伸ばす。
少女は反射的に跳ねるように身をこわばらせた。
「……触らないで」
「そんなつもりじゃなくて……ただ、君が辛そうで」
「なんの権利があって?…貴族、だから?偉いから?上から物申しながら、自分は優しい人間だって言いたいの?」
「それは違う。僕が偉いとか、貴族とか、関係なく…一人の人間として君を助けたいんだ」
「わたしには、あんたが“幸せそうな人間”にしか見えない。何もかも持っていて、何も知らない人間」
少女の声は震えていた。
怒りではなく、寒さでもなく――恐れに似た何かで。
レインはゆっくりと瞬きをした。
「……そう思われないように、努力してみる」
「……勝手にすれば」
それだけ告げて、少女は木箱から軽やかに飛び降りた。
レインを残し、吹雪く街の奥へと消えていく。
* * *
「おらぁッ!!」
「いや〜、今日も迫力っすねぇ。うんうん、元気元気」
「斬られたいんか!」
「やめてほしいっすねぇ……!」
薬の売れ行きは相変わらず好調だった。
高価な治癒魔法に手が届かない者たちは、安く即効性のある薬草を求めて押し寄せる。
稼ぎは家の修理にすべて注ぎ込んだ。
デネラの話術と、母親譲りの気配りが効き、目標額は驚くほど早く達成された。
「で、何しに来たんだよ」
「いや〜最近ギルドに顔出してないからさ。どうしてるのかと思って」
「どうもしてねぇよ。忙しいだけだ」
「それがいいよ。外はまだ危険らしいし。植物系の魔物、動きがね……活発で」
リブの剣先が、ふと止まる。
「……全容、見えてきたんだって?」
「そう。マンドラゴラ。各地で暴れてる」
甘い香りが、鼻先にかすかに蘇る。
あの夜の悪夢のような匂い。
「言わせんな……匂いで分かる」
「本来は魔物避けなのにね。無害のはずだったのに、今じゃ人を食うって」
「……人を?」
「がぶ飲みよ。目の前で仲間が食われたって話、ギルドに届いてる」
デネラの声がかすかに震えた。
「人畜無害だった魔物は、いつの間にか危険度Aへ格上げ。今後は、炎魔法で対処するってさ」
「こんな雪で、うまくいくかよ……」
本来ならば1日で春夏秋冬を通り過ぎるはずの魔物が住まう領域は、厳しい豪雪に見舞われている。
毎日のように雪が降り注ぎ、止まる勢いを知らなかった。
まるでこの世の草木を全て枯らすような勢いだった。
「春が終わる頃まで待たないと…かもね」
「ちんたら待ってたら、増殖しちまうぞ」
「けど、あたしたち魔法を使えない冒険者は見てることしかできない。あーあー、あたしに魔力があったらなー…」
外は静かに降りしきる白で満ちている。
春まで待てばいい、と誰かが言った。
だがリブは知っている。
待てば待つほど、得体の知れぬ何かが増えていく、そんな気配を。
「……ナナシも、招集かかるか?」
「あの子は……行かないよ。行かせないよ」
デネラはきっぱりと言い切った。
どこか祈るような声音で。
リブはその横顔を見つめ、静かに剣を下ろした。
雪は、ひっそりと積もりはじめていた。




