第3話: 少女は、不安な夜を超え、朝に出会う
ユウゴが席を外しているあいだ、
少女はゆっくりと家の内部へ視線を巡らせていた。
古い木の壁。小さな窓。
暖炉の火がわずかに揺れ、影が床に長く落ちている。
……ただ、邪魔だったのは、向かいから突き刺さる視線だ。
リブが、あからさまに彼女を警戒している。
少女はその眼差しを避けるように、奥の部屋へ視線を滑らせた。
壊れかけた扉の隙間から、積み上げられた本と、乾いた薬草の袋が見える。
「………」
「気になるか?」
沈黙に割りこむように、リブが声を落とす。
「あれ、傷薬だ。ここ、冒険者が多いだろ。いちばん売れるのは怪我の薬。風邪薬とか、解毒剤とか……まぁ、いろいろある」
少女は目だけを動かして聞いていた。
「親父は、医者なんだ」
その割に、家は質素すぎた。
少女の視線が、わずかにそんな意味をにじませる。
リブは肩をすくめた。
「わかってるって。……うちが貧乏なのは、親父が回復魔法を使えねぇからだよ。頭はいいし、薬作るのは得意だし、器用なんだけどな」
静かに暮らす親子の生活。
そこへ、突然まぎれこんだ――名前も知らない少女。
少女は、胸の奥に影を落とした。
「……お金……いるの?」
ひどく小さな声だった。
リブは、聞かれるとは思っていなかったのだろう。
一拍置いて、やや気まずそうに答える。
「あったら……そりゃ、助かるけど」
「わたし……迷惑?」
「迷惑っていうか……まぁ、その……別に」
強く言い切れなかった。
腕にはあざ。
理由の分からない怯え。
――どう考えても、訳ありだった。
少女の紫の瞳が、ふっと揺れる。
光が差して、ぞくりとするほど妖しく見えた。
「……いる……?わたし…………」
少女が静かに身を寄せる。
細い指先がリブの頬をなぞり、冷たい感触がひと筋、皮膚を伝う。
「っ……」
背筋に電気のような震えが走る。
紫の瞳が真っ直ぐに捉え、近い。
息が触れるほど近い。
唇が近づく。
その瞬間――
ガタッ。
ぐらついたテーブルが軋む音に、リブははっと我に返った。
現実が、一気に冷たい水のように押し寄せた。
「……やめろ」
少女の肩を押しとめる。
「自分を安売りすんな」
強引に椅子へ戻した。
「そういうのは、良くない」
「……それ以外を……わたしは……知らない……」
泣き出しそうな顔に、リブは短く舌打ちした――そのとき。
「あてっ!」
リブの頭を軽く叩いて、ユウゴが風呂から戻ってきた。
息が白い。
どうやら相当冷えていたらしい。
「この子を怖がらせるな」
「何もしてねぇよ!」
「そうか……。スープは食べたか?」
手つかずの皿を見て、ユウゴは苦笑し、少女に向かって穏やかに言う。
「口に合わなかったかもしれないな。……無理はしなくていい」
「そのうち食うだろ。腹が減れば、なんだって美味ぇんだよ」
リブはそっぽを向く。
――さっきの出来事が、まだ胸の鼓動を早くしていた。
「俺は寝室に行く。何かあれば呼びなさい」
「わーってるよ」
ユウゴは「おやすみ」とだけ残し、階段を上がっていった。
残されたのは、リブと少女。
静寂が落ちる。
少女は動かない。
灯の揺らぎだけが、彼女の横顔を淡く照らしていた。
気まずさに耐えられず、リブは立ち上がる。
「……俺も寝る。さっきみたいなこと、もう二度とすんなよ」
返事はなかった。
ただ、少女はゆらめく炎をじっと見つめ、
安全かどうかもわからない夜を、ただやり過ごしていた。
胸に、言いようのない不安と警戒が交互に押し寄せていた。
◆◇◆
翌朝――
「あー……朝かよ……」
目をこすりながら、リブはベッドから這い出た。
このベッドは、父と二人で作った自慢の“大作”だ。
何年も使って、もはや軋む音さえ馴染んでいる。
――惜しいのは、マットレスだけ。
友人から譲り受けた汚れたマットレスは、スプリングが悲鳴を上げ、
布地はもう限界を迎えていた。
リブの朝は、だいたい誰より早い。
まだ太陽の色が弱い頃、洗面所へ向かった。
三ヶ月前に壊れた魔石のせいで、お湯は出ない。
冬が来る前に新しい魔石を買わないといけない。
マットレスより、ずっと優先度は高い。
「……よし、いくぞ……!」
気合いを入れ、冷水を顔に――
「つ、つめてっ!!」
何度か水を浴びせ、ようやく頭も心も覚醒したとき。
ふ、と昨日の出来事が脳裏に浮かんだ。
あの少女。
その瞬間、彼女のかすかな気配に気づいた。
「………おはようさん……」
昨日と同じ場所。
同じ姿勢。
同じ、気力の抜けた紫色の目。
「もしかして……お前、ずっとそこにいたのか?」
「………」
どうやら、口数は本当に少ないらしい。
「っつーかスープ!食ってねぇだろ!俺らにとって食事は貴重なんだぞ、タダじゃねぇんだから!」
タダじゃない――
言った瞬間、昨日の近づき過ぎた距離が蘇り、視線を逸らす。
「……いや、払わなくていい。いいけど、変なこと考えんなよ。とにかく……早く食って元気になれ」
返事はない。
「貧乏ってのは、生きてるだけで必死なんだよ。俺らは、冒険者っていう不安定な仕事でどうにか食ってんだ。……親父の優しさに甘えんな」
「………はっ」
少女が小さく笑う。
嘲りに似た響きだった。
「……何がおかしい?」
「……必死に生きるくらいなら……死ねばいいじゃん」
次の瞬間、リブは彼女の胸ぐらを掴んでいた。
「俺らで笑うな」
怒りよりも、必死な響き。
「死にたがりのお前と違って、俺は最初から最後まで、正々堂々生きてぇんだよ」
少女は何も言わない。
その無気力な沈黙が、逆に痛かった。
「おー……おはようさん。二人とも朝から元気だな」
ユウゴがダイニングへやってきた。
昨夜も遅くまで本を読んでいたらしい。
眠たげにあくびをひとつ。
「おはよう」
外では、北の大地アルヴェンの朝が静かに広がっていた。
冷たい風が窓を揺らし、
新しい一日を告げる光が、ゆっくりと差し込んでいた。




