第27話: 少女は夜の底を揺らす
雨に打たれた翌日。
あれほど丈夫さだけが取り柄だったリブは、珍しく床に伏せていた。
喉を焼く熱と重たい息――
ただの風邪だと分かっていても、昨夜の雨の冷たさが、まだ身体の奥に残っているようだった。
リブは、湯気の抜けた家の静けさのなかで、父の気配をぼんやり追った。
戸口のあたりで、ユウゴが外套の紐を確かめている。
「……出かけるのか」
声は自分でも驚くほど弱く、毛布の隙間からこぼれた。
「少しだけな。気がかりなことがあって」
並べられた薬瓶を見て、向かう先がすぐに分かった。
ヴルの店だ。
「手伝えるけど」
「風邪ひきに荷物を持たせるほど、俺は落ちぶれてはいないさ。休んでいろ」
言われてみれば、寒気はまだ指先に潜んでいた。
毛布ごと肩をすくめると、鼻がつんと痛んだ。
「腹が減るだろう。デネラの母さんが粥を置いていってくれた。食べておけ」
「……わかった」
「デネラにも礼を言え。心配してたからな」
返事をするたびに、熱の膜が揺れるようだった。
ユウゴが靴を履く音が、遠ざかる波のように聞こえる。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
扉の音が落ちると、部屋の空気がすぐ温度を取り戻した。
***
裏路地の奥、薄闇の縫い目のような店。
ヴルは、いつもより軽い布をまとって待っていた。
「ユ、ユウゴさん……今日はまた、どないなご用で」
軽口の調子は変わらないのに、目の奥だけが妙に澄んでいる。
ユウゴを前にしたときだけ見せる、あの奇妙な“素”。
「リブくんのお風邪の具合はどないなん?」
「早いな。リブの風邪のことまで、耳に入っているとはな」
ユウゴが椅子に腰を下ろすと、薄闇がわずかにざわめいた。
「うちの商いは、情報も品のうちですから。ボスの耳に入れときたい話も多いんで」
「この店はーーー俺のガラクタでよくもつな。飽きないものだ」
「飽きんように頑張らせてもろてます。大事な商品ですわ、ほんま」
その言い回しの端々に、媚びとも計算ともつかない柔らかさがあった。
ナナシに向ける目と、どこか似ていて――ほんのり、下心の匂いがした。
「俺が今日欲しいのは、ひとつだけだ。分かるな」
「……あの子のこと、でっしゃろ」
ヴルは視線を床へ滑らせた。
息を整えるのに、ひとつ分の静寂を使う。
「どうだった」
問いの温度は低い。触れれば切れるほど。
ヴルはひきつった笑みを作り、肩をすくめた。
「――パンドラの箱や」
その言葉が落ちた瞬間、店の奥に漂う香草の匂いがわずかに濃くなった。
「開けたら、ろくなことにならん。触れんほうがええ類のやつです」
ユウゴの視線が棚に置かれた紫の杖に吸い寄せられる。
「裏闘技場で拾ったんじゃないのか。少女のものだろう?」
「落とし物を拾って売ろうとしただけやねん。けど、色も色やろ?誰も不気味がって買ってくれへんねん」
「悪目立ちしすぎるなよ。俺たちの本当の目的はーーー」
「堪忍してや」
言葉の選び方を探すあいだ、ヴルは喉に指を当てた。
脈がわずかに跳ねている。
「まあいい。話してくれるか?お前の言っているパンドラの箱について」
「………蛇の魔物が現れてな。人を襲うようにして暴れて……でも、あの子の前では、まるで護るみたいやった」
記憶を引きずり上げるように、ヴルの声が細くなる。
「そんで、突然消えてしもうた。煙みたいに」
ユウゴの眉がわずかに寄った。
「お前は、よく無事だったな」
「逃げ足だけは自慢できますわ。わいの先読みの魔法、覚えてはるでしょ?」
「都合のいい力だな。商売には向いている」
ヴルは短く笑った。
その笑みは、いつもより薄い。貼り付けた紙のようだ。
「俺は、お前の情報の質を評価している。だからこそ、訊きにきた」
空気が、ひとつ深く沈んだ。
「この数日の異変――大地震、雷雨。どれも突然すぎる。全部、あの少女が現れてからだ。俺はあの子が関係していると思っている」
ヴルは、その憶測を即座に受け入れるほど若くはなかった。
「考えすぎちゃいます?」
「そうであってほしいな。しかし…知っているか?………紫の魔石は存在しない。タグのエラー、ギルドがあの子を“管理していない”こと……」
ゆっくりと言葉を置くたび、店の空気がひとつずつ凍り付いていく。
「点がばらばらに転がっている。だが、必ずどこかでつながる。そういう種類の“異物”だ」
「……星座みたいやな」
ユウゴの目が、かすかに笑った。
その柔らかさは、刃を布でくるんだような、危ういものだった。
「そういうわけだ。頼む」
「少女、異変、事故……そないな話を拾えばええんですな」
「ああ。注意して動け」
ユウゴが立ち上がると、ヴルはようやく体から力を抜いた。
父の顔で微笑むユウゴに似た影が、店から離れるたび薄くなる。
――やっと、出ていく。
そう胸の底でつぶやいた、その瞬間だった。
扉へ伸ばしたユウゴの手が、不意に止まる。
振り返りもせず、声だけが落ちた。
「……ヴル」
その低さだけで、背筋に冷たいものが走る。
「あの子に近づくときは、礼儀を忘れるな」
ヴルは、わずかに喉を鳴らした。
図星を刺されたときに漏れる、あの短い音だ。
「……心得てますわ」
ユウゴは返事を待たず、扉に手をかけた。
だが、完全には閉めない。板一枚ぶんの隙間を残したまま、夜風がかすかに流れ込む。
その沈黙に、まだ終わらない会話の影が揺れた。
店に落ちた静けさは、濡れた夜気と混じり合い――
この先の言葉を、ひっそりと待っているようだった。




