第26話: 少女は、帰還し幸運に出会う
雨は思ったより長く降り続き、街に戻るころには、二人の服はまるで別の色になっていた。
ユウゴから受け取った紙袋も、すっかり形を失い、ふやけたパンは紙の匂いを吸っていた。
「これ、乾かしたら食えたりするか?」
「……しないでよ。お腹壊すよ。パンならあたしのお母さんが焼いてあげるから。焼きたて、ふわふわのやつ」
「……まじ?」
「まじ」
雨に濡れた上着は、思っていた以上に重かった。
この季節に脱ぐのは危険だとわかっていても、肩に貼りつく布が、体温を奪っていくたびに心まで沈んでしまう。
「さみー……」
「帰ろ、リブ。報告は明日に回そ」
「ああ。さすがにもう無理だな」
ふたりは並んで、静かに濡れた街路を歩いた。
すれ違う人々は、先ほどの雷雨と地震の話ばかりしている。
しきりに空を見上げ、何か悪い前触れではないかと怯えるように。
リブは、ふと足を止めた。
「……ナナシ」
家に着くと、冷たくなった上着を床へ落とし、靴も服も脱ぎ捨て、毛布に身を沈めた。
指先までしびれていたが、毛布のぬくもりがじわりと皮膚に戻ってくる。
「……っはぁ……」
生き返る、という言葉が自然に浮かんだころ、扉が控えめにノックされた。
「リブ。遠慮せずシャワーを使いなさい。濡れたままは良くないぞ」
「平気だって」
「無理をするな。……スープも作っておく。あたたかいやつだ」
「……その言葉待ってた」
リブは毛布を蹴り飛ばし、簡素な服に着替えて浴室へ向かった。
ヴルからもらった炎の魔石は、今日もよく働いている。
湧き出る水がすぐに温度を取り戻し、その温度がリブを静かに包む。
暖かさに身を預けながら、リブはさきほど見た少女の背を思い返していた。
細くて、頼りなくて、何か大事なものをもう一度失いたくなくて――
そんなふうに見えた。
「……悪態をつくのは、きっと……弱い自分を守るためなんだろうな」
シャワーの音に紛れて自分の声が消えていく。
考えれば考えるほど、不思議と胸の奥がざわついた。
今、あの子はどこで雨をしのいでいるんだろう。
震える手を包んでくれる人が、あの子にはいるんだろうか。
さっと水を止めたとき、心のどこかが何かを決めていた。
「……よし」
部屋に戻り、湯気の立つスープを味わうと、リブは椀を置き、言った。
「親父。……俺、決めた」
「うん?」
「あいつのこと放っとけねぇ。……放っといたら、きっと後悔する」
「そうか」
「関わって困るかもしれなくても……関わらないほうが、たぶんもっと苦しい」
「……そうか」
リブは息を吸い、慎重に言葉を選んだ。
「だから、この家に……あいつの居場所、作る。あいつが笑える場所……あっていいと思う」
ユウゴはゆっくりと、しかし確かに頷いた。
「いいと思う。リブのやりたいようにしなさい」
「よっしゃ!」
照れ隠しのように笑ってから、リブはまた一つだけ気になることを口にした。
「なぁ…そういえばさ、少し気になったことがあるんだけどよ。…魔法使いって、天気とか……地震とか。操れんのか?」
「それは神の領域だ。人が触れられるものではないよ」
「……だよなぁ」
沈黙が少し落ちる。
「どうしたんだい?」
「いや……デネラが怪我した日、地震あったろ。今日の雨もさ、あれだけ晴れてたのに突然で……。で、こういうのが起きる時には……いつもその真ん中にナナシがいる」
「……あの子が?」
「怒ったり、悲しんだりした時……空気が変わる。そう見えるだけかもしれんけど、俺は……なんか、嫌な偶然だと思えなくて」
ユウゴは顎に手を添え、少し思案した。
「まだ断定するには早いが……確かに、気になるな」
「だよな!」
「分かる範囲で、俺も気にかけておこう」
「心強ぇ!」
リブは肩の力を抜き、息をついた。
少女は不思議な子だ。
何かを抱えているのは確かだ。
だが、その核心に触れた瞬間が、まだどこにもないだけ。
ユウゴは静かに、彼女をひとつの“調査項目”に加えた。
――おそらく、無視できない存在になる。
そんな直感を、否定できなかった。
* * *
そのころ。
少女は、あの暗がりへ戻っていた。
「おかえり」
瞬きをした途端、黒い空間に、小さな光がぽつりと灯る。
それはゆっくりと増え、星のように散らばり、少女の歩む先を照らした。
「つらいことでもあったのかい?」
蛇を与えた主――アストレイルが、穏やかに微笑む。
抱きしめるように両腕を広げたが、少女はその腕に入らず、そっと横へ座った。
「……ううん。別に」
少女が膝を抱えた途端、地面に柔らかいクッションが現れる。
アストレイルは彼女の横に静かに腰を下ろし、そっと彼女の髪に触れようとして――
触れる直前で、ためらうように指先を引っ込めた。
「話してごらん。楽になる」
「どうにもできないよ……あの子は、もう……」
「あの子?」
アストレイルが指を鳴らす。
天井の光が一か所に集まり、小さな影を照らし出した。
「……ぷ」
聞き覚えのある、小さな声。
少女は顔をあげた。
「……っ! なんで……生きて……?」
光の中から、よちよちと歩くマンドラゴラが姿を現す。
「よかった……」
少女は四つん這いで駆け寄り、小さな花弁にそっと触れた。
マンドラゴラはふるふると震えながら、以前と変わらぬ声を漏らす。
「きゃぷ」
アストレイルはその背中を、指先でなぞりたい衝動を押し殺しながら眺める。
「壊れたなら、作り直せばいい。君の望む世界は、ここにいくらでも作れる。君が望むなら――この子は永遠に生きる」
少女はマンドラゴラを胸に抱き、何度も嬉しそうに笑った。
アストレイルはその隣で、静かに息をつく。
「……そんな顔をされるとね。妬けてしまうよ」
少女は気づかないまま、マンドラゴラを抱きしめて微笑む。
アストレイルは彼女の髪の先をそっとすくい上げ、
執着を隠しもしない声で、彼女の耳元に落とすように囁いた。
「――その子がもっと強ければ……いいのにね」
その声音は、優しさの仮面に隠れた底なしの暗い企みを帯びていた。




