第25話: 少女は、甘い匂いの行方を失う
森の中は、昼の熱を抱え込んだまま、むせ返るように重かった。
つい先ほどまで、夕方の冷えに肩をすくめていたことが、嘘のように思える。
光は白く反射し、土は乾き、遠景には蜃気楼が揺れている。
デネラは小さく息を吐き、日差しを避けるようにコートを引き寄せた。
傍らを歩くリブは、砂を踏むたびかすかな音を立てながら、前を行く少女の小さな背を見失うまいと目を凝らしている。
「……気づかねぇな。いつもなら……もっと敏いはずだが」
「今は、気づける状態じゃないよ。力、ほとんど残ってない。さっき街に戻ったのに、水も食べ物も買わなかったし……限界に見える」
その言葉は、日差しよりも静かに胸へ落ちた。
「亡霊ってことはねぇよな?」
「足が地面についてる。ちゃんと……生きてる」
軽口のはずなのに、どこか遠い。
ナナシとの距離は百メートルほど。遮るものがないせいで、追えばすぐに届きそうに見えてしまう。
やがて、草原の匂いが濃くなる。
デネラは足を止め、指先で風を探るように空気を吸い込んだ。
「……甘い匂いがする」
「草の匂いしかしねぇけど」
「違う。もっと……濃くて、喉が痛くなるくらい甘い。砂糖を煮詰めたみたいな……いえ、それよりも……」
眉をひそめるデネラの横で、リブが怪訝な顔をする。
その“甘さ”が、彼女の記憶の奥を、静かに擦っているのが分かった。
「……まさか」
「なんだよ?」
「あとで。今は……静かに」
ふっと、気配が変わった。
デネラはリブの口を押さえ、草の陰に身を沈める。
「見て」
指先の先に、少女がいた。
その前には、荒っぽい身なりの冒険者が二人。
足元には、引き抜かれたばかりの“何か”が、痛ましいほど力なく垂れ下がっている。
少女の手から、買ったばかりの鉢が落ち、乾いた音を立てて砕けた。
少女は、その“何か”を見つめ、声にならない音を漏らす。
「あ……」
風よりもか細い、その声。
冒険者たちは意にも介さず、得意げに笑った。
「マンドラゴラだ!運がいいな!」
「根っこは金になる。急いでギルド行くぞ!」
デネラは、息を呑む。
「……やっぱり、マンドラゴラ……」
「レアって話は聞くが……これが?」
「そう。甘い匂いで身を守る。女性と、一部の魔物にしか分からない匂いよ。魔物によっては、それが毒にもなる」
説明が終わるより早く、少女が男たちに飛びついた。
「やめて……その子、返して……」
細い腕。
か細い手。
押し返されるのは、あまりにも容易だった。
「どけ!」
地面に尻もちをついた少女は、砂を強く握りしめる。
その姿は、これまで見せたどの表情よりも、剥き出しだった。
「その子は……無害だから……!」
「魔物は全部害だろ。馬鹿か?」
「違う……あの子は……その子だけは……」
風が変わる。
空気が、すっと冷えた。
「……なんだ?」
あの日と同じ、嫌な圧が静かに満ちていく。
空がざわりと暗み、雲が集まり、遠くで雷光が瞬いた。
「……この感じ、やばくねぇか。トレントの時と……」
「行くぞ。ナナシを止めねぇと」
二人は草をかき分け、冒険者たちの前に立つ。
「お前ら!その魔物、置いていけ!」
「誰だよ!」
「赤の他人だ!!」
乱暴に言い放ち、リブが腕を掴む。
「赤の他人なら、放っておけ!」
「うるせぇ!」
デネラも一歩前に出て、静かに告げた。
「人を襲わない魔物への攻撃は禁止。ギルドの規則よ。マンドラゴラは貴重な種……分かってる?」
「ふざけるな!俺らが先に見つけたんだ!」
その瞬間、影が落ちた。
伸びゆく白い体躯――少女の蛇。
「へ、蛇!?なんでこんなとこに……まさか……!」
「噂の蛇使いかよ!」
「やってられっか!ほら、返す!この草、返すからな!」
悲鳴を上げ、男たちはマンドラゴラを投げ捨てて逃げていった。
べしゃり、と湿った音。
静寂。
降り出す、細い雨。
動かない、マンドラゴラ。
少女は、ゆっくりと歩み寄り、膝をついた。
小さな背中が、雨に打たれて震えている。
「……ナナシちゃん。ほら、鉢……まだ、間に合うかも……」
割れた鉢に土を詰め、差し出すデネラ。
けれど、少女は静かに首を横に振った。
「……いいの。全部……わたしのせいだから」
「何言ってんだ!お前のせいじゃねぇ!」
「いいから……放っておいて……」
雨脚は強まり、髪を濡らし、地面を打つ音が世界を満たす。
「……一人にして」
その声は、風のように静かだった。
だからこそ、胸に深く刺さった。
小さな背中が、暗い雨の中へ溶けていく。
止めようと思えば、止められた。
腕を掴めば、引き戻せた。
――それでも。
その背を押さえつける力は、どちらにも残っていなかった。
ただ、雨だけが。
少女の足跡を、ゆっくりと消していった。




