第19話: 少女は、心を休まる場所を知らない
夜明け前。
畑の向こうで鶏が鳴くと、離れた牧場の牛がのんびり返事をした。薄い朝靄のなか、リブはデネラの家の門をくぐる。
「リブくん、おはよう」
「おばさん。今日もよろしくお願いします」
「こちらこそ助かってるわよ〜。昨日なんて二列終われば上出来と思ったのに、三列もいけたもの。うちのボンクラ娘とは大違いだわ!」
ガッハッハと豪快な笑い声。
デネラの父は朝から元気だ。リブは苦笑しつつ、デネラが陰で根回ししてくれたのだろうと気づく。
気遣い方が雑なくせに、肝心なところは妙にぬかりない。
母から大きな籠を二つ受け取り、リブは慣れた手つきで長靴を履く。
「冒険者なんかやめて、うちで働かねーか?」
「……え?」
「いいと思うけどねぇ。冒険者よりずっと安定してるし、美味しい野菜も毎日食べられるわよ」
「なに言ってんのよ!」
デネラが家の奥から顔を出す。
「このガサツさは冒険者向きなの。こんなのが農家やったら畑丸ごと枯らすよ!」
リブはほっとしたような、申し訳ないような、妙な気持ちで笑った。
「おはよう、デネラ。具合は?」
「少し痛むけど、大分マシ。あと三日でどうにかなるよ」
「よかった…」
「……で。あんたのほうは?」
「え?」
「ナナシちゃんの件でさ。昨日の、親父さん」
「ああ。思ったよりあっさりしてた。怒られなかった。それが逆に、なんか……変というか」
自分でもうまく言えないまま、喉につかえる感覚だけが残る。
「まるで期待してたみたいだね」
「は?なに言ってんだよ」
「だってさ、あんた──」
「リブくーん!悪い、こっち来てくれー! 重くて動かせん!」
「はーい。今行く!」
救われたような、逃げたような。
リブは帽子を深くかぶり、一輪車を押して畑へ向かった。
太陽が昇るのは早い。
畑の土はもう温かく、空気はすでに夏の気配を含んでいる。
汗を拭いながら肥料を撒き終えると、デネラが影から水を差し出した。
「お疲れ。はい、水」
「助かる…!」
喉に落ちていく冷たい水が、体の奥の火照りを素直に鎮めていく。
「お昼、食べてくでしょ。お母さんが用意しといてくれたよ」
「いつの間に…」
「農家って忙しいの。気づいたら誰かがやるしかないの」
「お前、よく毎日こんなことしてるな」
「農家の娘だし」
「理由になってねぇ」
けらけら笑うデネラに、リブは苦笑しつつも感心していた。
口で言うほど簡単じゃない。
鍛錬も冒険もこなしているくせに弱音を吐かないところが、ずるい。
そんな折、酒場帰りらしい冒険者の声が近づく。
「この前よ、あいつに睨まれてみろよ。蛙に睨まれた蛇ってやつ?マジ凍ったわ」
「あー、蛇使いだろ?石にされて殺されるってウワサの。よく生きてたな、お前」
くだらない笑い声が土埃の中に溶けていく。
デネラは小さく息を吐いた。
「根も葉もない噂って、勝手に膨らむんだね。……たぶん、あたしたちが原因だよね。ボロボロで帰ってきて、ナナシちゃんだけ戻らなかった。元々得体の知れない子扱いだったし……誤解されちゃうの、仕方ないのかな」
「……ふーん」
「『ふーん』じゃないよ、リブさん!」
「……あっそ」
デネラはじっとリブを見つめる。
その「静かに刺す」感じが苦手だ。
「ナナシちゃんの居場所を、作ってやるんじゃなかったの?」
「……あいつに金輪際近づくなって言われた。だから関わらない」
「言われたからって、それで?」
「心底どうでもいい。考えるだけでストレスだ。嫌なことは切り離す。俺はそうやって生きるって決めた」
「……あんたの心がそんな単純だと思ってる?」
風が一度止まり、空気がすうっと冷える。
「さっき言いかけたけど……ユウゴさんに叱ってほしかったんじゃないの?ちゃんと怒られて、そのあと『大丈夫だ、お前ならできる』って言ってほしかったんじゃ──」
「気色悪いこと言うな!!」
声が思った以上に大きく跳ねた。
言われた瞬間、胸の奥がひどく熱くなる。
それは怒りというより──触れられたくない部分を見透かされた痛みに近かった。
「……帰る!」
「お昼は?」
「もらってく!」
「そこは図々しいのね」
デネラは肩を竦める。
リブは鼻を鳴らし、家に戻ると出された昼食を十秒少しで食べ終えた。
「ごちそうさまでした!今日も美味しかったっす!」
「また明日もお願いねー」
「相変わらずの食いっぷりだな!がはは!」
玄関を出る直前、デネラと目が合う。
その一瞬だけで、さっきの言葉が全部蘇る。
リブはぷいっと顔をそむけ、「ふん」と短く息を吐いた。
まるで、あのモヤモヤを隠すように。




