第15話 少女は、トレントの足跡を追う
つくづく自分は甘い、と少女は思った。
足手まといの二人を連れて依頼をこなすなんて、普段の自分なら絶対にしない。
断ってもどうせついてくるだろう。拒む理由を並べるのも、言葉を選ぶのも面倒だった。
――否定して波風を立てるより、最初から頷いておいたほうが楽。
なぜかそう思ってしまったのだ。
「…………」
胸の奥で何かが引っかかった気がしたが、掬おうとした瞬間に消えた。
「……まあ、いいか」
前を行くセルは、尾と頭を器用に使って獣道を作っていく。
その動きは静かで、まるで森そのものが移動しているようだった。
どこまでも同じ色の森。単調な景色に飽いても、それを不思議に思わない。
変わらないのがこの森であり、変わらないのが自分だ、と少女は思っていた。
「ストップ」
不意に、デネラが少女の腕を掴んだ。細い指が、思いのほか強い。
「……なに」
「この先、よくないよ」
「どうして」
「足跡が変なんだ。……トレントの」
少女は瞬きをしただけだった。
「それが?」
「トレントは知能が高い。姿を隠すのも、誘うのも、逃げるのも巧い。蛇が通ったあたりから、足跡のつけ方が“わざと”に見える。……多分、すぐそこに潜んでる」
「……セルの敵じゃない」
淡々とした声に、デネラは苦く微笑んだ。
「力を過信しすぎ。トレントは複数で待ち伏せするのが常套手段なんだってば。さすがの蛇でも――」
「シャアァァァ!!!」
「……っ!」
蛇の鋭い威嚇が森を裂いた。
振り向くと、異様に蠢く木が、太い蔦を伸ばしてセルを捕らえていた。
「セル……!」
「トレントだ……!」
中央にある赤い瞳がぎらりと光る。
黒い口が軋んで開き、久しぶりの食事を前に高ぶっているのがわかる。
少女の喉がひゅっと鳴った。
「や……やめて」
「助けるぞ!」
足が動かなかった。
身体が冷えて、空気の中に取り残されたみたいだった。
背中を強く叩かれて、ようやく呼吸が戻る。
「わ、わたしが……?」
「他に誰がいんだよ。お前の……だろ」
「む……無理。勝てるわけ……ない」
「じゃあ見殺し? それでもいいのか!」
言葉が胸に重く落ちた。
「……」
考える暇もなく、リブは剣を抜いて駆け出した。
デネラも続く。二人とも無謀だった。無謀なのに、迷わなかった。
「でやぁ!!」
蔦が無数に迫り、切っても切っても湧いてくる。
森そのものが怒っているようだった。
「……違う」
少女は小さく呟いた。
「その蛇を離せぇ!!」
叫びは木々に吸われ、森がさらに揺らぐ。
ついにトレントは、巧妙な蔦遣いでセルを呑みこんでしまった。
「セル……」
赤い瞳が細まり、満足げに震える気配。
少女はただ見ていた。指先すら動かなかった。
「まずい! 逃げるぞ!」
「ここにいたら死ぬよ!」
ふたりが少女の腕を引いた。
けれど少女は、まるで根を張った木のように動かなかった。
「ナナシ!」
「わたし……わたしは……」
「いいから早く!」
引かれても揺れない身体に、デネラが息をのむ。
「偉そうに言って……わたしを決めつけないで」
少女の声は低く、震えていた。
「……え?」
「守るって、言ったのに」
胸の奥の何かが、ようやく裂けた。
その瞬間、地面の下で巨大な何かが軋んだ。
大木が折れるような、深い深い音。
大地が揺れ、トレントの体が震え出す。
「地震……?」
「違う……トレントが……震えてる……?」
「なにに……?」
ベキベキと、この世ならざる音が森に響いた。
少女には、その音が不思議と心地よかった。
「――守って」
トレントの口が裂ける。
その隙間から、セルが勢いよく飛び出した。
「シャアァァ!!!」
少女の蛇は、黒い影のように大気を切り裂いて戻ってきた。
「ありえない……食べられたら最後って聞いたのに……」
デネラの声は震え、トレントの赤い瞳も同じ色に揺れた。
蛇が口を開く。森の光がその奥で飲み込まれた。
そして――ひと呑みだった。
「……全部、消えて」
咀嚼音は鉄を砕く音に似ていた。
森が静かになりすぎて、かえって耳が痛かった。
気がつくと、セルはトレントの一部を少女の足元へ吐き出していた。
「ありがとう」
少女はそれを拾い上げ、しばらく見つめた。
残ったのは依頼の証となるわずかな木片だけだった。
「……助かった、けど……俺は逃げるべきだったと思う」
リブの声は、無理やり形を保っているようだった。
「……終わりよければそれでいい。何も起きなかった。それで十分」
「お前がひとりなら、そうかもしれないけどよ……俺たちは、今、一緒なんだ。判断ひとつで全滅だって――」
「……うざい」
「お前な……!」
「まあまあ。全員無事なんだし、トレントも倒せた。蛇ちゃんも無事。ほら、“ありがとう”って言うところでしょ?」
デネラが軽く割って入ると、少女はその陰に隠れた。
勝手についてきて、勝手に文句を言う男に、胸がざらついた。
「悪かった。……ありがとうな」
しぶしぶと絞り出すリブの声は、どこか歪んでいた。
「……報酬、欲しいんでしょ」
少女は木片を放るように差し出した。
「はあ!?そんな施し受けねぇよ!」
「またそういうこと言うの?汗水たらして稼ぐのがどうとか……誰が決めたの」
「周りの人だよ!」
「統計なさすぎ。……お金はお金。過程なんて、どうでもいい」
「違う!」
リブが肩を掴んだ。
骨に響くほど強くて、少女は眉を寄せた。
「力で……わたしを黙らせるんだ。……言葉じゃ勝てないから?」
「ち、違う……!」
リブは手を離し、戸惑いだけを残した。
「もう、いい」
少女は静かに告げた。
胸の奥が、ひどく冷えていく。
「待てって……悪かった!」
触れられたくない。話しかけてほしくもない。
あの誰もいない場所に戻りたい――そう思ったときだった。
「ちょ、ちょっと待って……リブ……」
デネラの声が震えていた。
次の瞬間、周囲が夜のように暗く沈む。
――影だ。
「トレント……!」
二人の剣が同時に抜かれる。
森の木々がざわりと横へ動き、根が足を生やす。
「おい……嘘だろ。アンシェントワームが……二体……」
頭上から落ちてきた巨大な影たちが、にやりと笑う。
さらに周囲の木々が一斉に動き出し、森全体が息をしているようだった。
「こんなの……聞いてないよ……」
デネラの声は、耳の奥でかすかに震えていた。
「……やべぇ。いつの間にか……囲まれてたんだ」
ぼこぼこと、森の魔物たちが動き続ける。
そのただ中に、三人は誘い込まれていた。
逃げ場のない、静かな絶望の中心へ。




