隔ての向こう
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
つぶらやくんは、ここのところ家の外には出ているかい?
いや、雨が長かったからねえ。こうして会うまで家の中に引っ込んでいるんじゃないだろうか、と。別に悪い意味じゃないぞ、濡れてまで外出したいなんて、急ぎの用でもなきゃ私だってご免被る。
人は恒温動物ゆえ、体温は一定に保ちたいという気持ちが少なからずあるだろう。濡れて冷えれば熱を発生させねばならず、余計なカロリーを食うことになる。
長生きするには、極論として余計な面倒を避けるほうがよく、リスクが分かっているなら動くのが面倒になるのも生き物のサガであろう。
だが、そのようなときでも、外は刻一刻と変化を続けている。まれにいきなり現れたものによって影響が出てしまうこともあるからな。たまには警戒しておいたほうがいいかもしれない。
私が以前に体験したことなのだが、聞いてみないか?
当時の私は、某ハイツに住んでいた。
あのハイツは名のごとく高台にあるタイプで、眺めがいい。そしてA棟からG棟まで近場で固まっていたんだ。
それらの棟に囲まれる形で、中央には公園が存在している。その外周部分は車がぐるぐる回り、各棟をめぐることのできるロータリーになっていた。
中央の公園部分、それなりに広いが過去に何度かボールが飛び出したことがあってね。いまはネットで覆われて、出入りは公園の入り口付近からしかできないドーム状になっている。網目を通して、内部の様子をうかがうことはできるけどね。
そのときも、雨降りだった。
普段なら外へ出ない私だったが、不覚にも冷蔵庫の中の飲み物を切らしてしまっていてね。やむなく、そばの業務用スーパーへ足を運ぼうとしたんだ。
玄関の戸を開ければ、視界の先に公園のネットが見える。視界をなかば塞ぐほどに降り注ぐ雨の中、私は公園内にテントが張られているのを確認した。
横長で平屋を思わせるような救護テント。誰かが酔狂で用意したのにしては、いささか本格的すぎる。
なにか緊急の仕事でもあるのだろうか……と、テントをしり目に傘を差し、そそくさとスーパーへ向かう私。
陳列されている商品を見ると、ついつい目移りしてお目当てのもの以外を買ってしまい、お金も時間もかかる。私の悪いくせだ。
そうやって、予定していた時間をだいぶ過ぎて戻り、雨足が若干弱まる気配を見せても、まだテントは公園内に鎮座していた。
帰りに見て思ったのだが、救護テントぽい作りであるなら、近くにそれらの業種にたずさわる車が停まっていそうなもの。しかし、それらの影が見当たらないのだ。
そして見間違いでないならば……テントの色が若干変化している。
家を出た時には、雨に濡れこそすれ、真っ白い肌をしていたテント。それがこの数十分後には何やらほんのり、茶色く染まっているように思えた。
泥はね、にしては外側から汚れがこびりついていない。内側からテントが汚れているんだ。
中で作業をしているのは確からしいが……いったい、何をしているのか。
つい、興味の湧いてしまう私は、買い出した荷物たちをいったん部屋へ置いて、家を出た。
ドームになった公園の入り口をくぐると、小さく腹の虫が鳴った。買い出しに行く前はだらだらしていて、つい食事を食いっぱぐれていたんだ。
ひとまず、テントの様子をうかがってから腹ごしらえをしよう……などと、このときまではどこかのんきに構えていったのだけど。
腹の虫と一緒に、テントの内側の汚れが、にわかに新しく増えた。
逆袈裟に、筆を走らせたかのような極太の線が一閃。その太さたるや、人間の私の胴体を優に上回るほどのもの。それがはっきりと壁越しに見えるということは、濃さなり量なりが半端ではない、という証拠。
――関わり合いになるべきじゃない!
さすがの私も察して、すぐさま部屋へ引き返したよ。
なにせ、私の腹の音の直後にああもテントは汚れたんだ。明らかに反応を示している。
部屋の中へ入るや後ろ手にドアを閉めて、鍵をかける。それでも私は安心できず、のぞき窓から外の様子を見続けていたよ。
狭まり、歪みがちなのぞき窓の視界では、満足に詳細を見られたとはいえない。
ただ、ドアの前に追っ手らしきものは、ついてきていないのは確認できた。しばらくにらんでいたが、死角から急にあらわれて、こちらをのぞき込んでくるようなジャンプスケアじみたこともしてこない。
ほっと、胸をなでおろしたのもつかの間。
がさごそ、と室内から明らかな物音が立って、緩みかけた神経がまた張り巡らされる。
というのも、この手の音を立てるのはだいたい決まっているからだ。
家庭内害虫のたぐい。ゴキブリが立てるその音、と……。
しかし、ややあって私が見た光景は、這いまわるゴキブリのそれではなかった。
私の先ほど持ち帰ってきた買い物袋。雨にいくらか濡れたまま放り出されていたそれが、ひとりでに音を立てていたんだ。
中に潜んでいるものがあるといわんばかりに、袋はときどき動き、跳ねてその存在をアピールする。私はそばのたたんだ傘でもって、何度も袋をぶったたいたさ。
結局、袋から何者かが姿を現すこともなかったが、奇妙なことは確かに残った。
度重なる殴打で、容器がめちゃめちゃに破損した飲み物たち。しかし袋の中にも部屋の床にも、彼らの中身は一滴たりともこぼれていなかったんだ。
最初から何も入っていないかのように、空っぽだったんだよ。
そして、この日。
ハイツのひとつの棟で留守番をしていた男の子が、行方不明になっている。
彼は家に着ていた服一式だけを散らばらせて、身一つでどこかに消えてしまったかのようで、いまだ見つかっていない。
それが発覚するより前に、公園のテントはきれいさっぱりなくなってしまったんだ。
大掛かりな撤去作業が必要そうに思えたそのテントの片付けを見た人もまた、私を含めてひとりもいなかったんだ。