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イナ

雲海は崩れ落ち、大いなる夢は消え去った。


塔の外では、セリーヌがよろめきながら立ち上がると、ふと靴紐を見下ろし、一瞬固まった後はかすかな諦観を伴うため息を漏らした。


イナは口元に付着した謎の液体を拭った。

「あれ? なんでこんなにお腹空いてるんだろう」


頬がまんじゅうのように膨れ上がったリカがセリーヌの肩にもたれかかる。

「くすん…やっと魔王倒したのに…」


メラは輝きを失った塔を見上げながら、指輪を撫でるように回転させ、優雅に屈礼をした。


そよ風がやや乱れる中、私と欹は瞬時に校長室へ戻った。


欹がソファにどさりと腰を下ろす。

「ねえメラのあの魔法強すぎない? 私の最強魔法だってあのレベルなのに」


「当然よ。彼女の術式威力は習得した魔法の数に比例するの。知識を『贈与』して敵を制するなんて、実に巧妙な設計だわ」


欹が舐めていたキャンディを宙で止めた。

「まさか夢の中であの子…」


「そうよ。夢の中で巨人族の全魔法を習得したの。正統なる原初魔法の継承者と言えるわ」


欹はキャンディを噛み砕いた。

「ありえなさすぎる…これが『神の寵児』の実力か…」


「違う。彼女たちが勇者になれたのは私が選んだからではなく、勇者になり得る資質があったからこそ私が選んだのよ」


欹がソファにへたり込んだ。

「もう魔王やめたい…こんなの戦えるわけないじゃん!」


数日後、欹は専用の踏み台に立ち上がった。

「みんな三件以上の依頼を達成できてエライ!これから一週間の休暇をあげるわ!」


校長室で新聞を置きながら戻ってきた欹を見やる。

「残りの依頼に邪魔しなかったなんて、珍しいじゃない」


欹がぐったりと机に突っ伏す。

「分かったのよ、魔王には限界があるって。勇者の成長を邪魔できないなら、せめて鍛えて華麗に散れるようになりたいだけ」


棒キャンディを投げてやると、

「無理は禁物だ。力なんて所詮は付け焼き刃だ」


欹がキャンディの棒をくわえながらむくりと起き上がる。

「楽に言わないでよ!歴代魔王の中でも私は弱い方なんだから。メラに負けるなんてプラインドット許せないわ!」


「休みの間に散歩でもしたら、何か良いことがあるかもね」

含み笑いを浮かべると、再び新聞を広げた。


欹が腕枕でぐでっと頬杖をつく。

「そんなのあるわけないでしょ……」


春風に夏の予感が混じり始めた街で、欹はキャンディを咥えながら人混みに流されていた。


(あいつの言う良いことなんてあるはずない。ただ食材買いに来ただけなんだから)と心で繰り返しながら、野菜袋をぶら下げてふらふら歩く。


路地裏の闇から黒猫が飛び出し、欹の頭頂部に着陸した瞬間、

「捕まえた!」という声と共にオレンジ色の影が猫へ飛びかかる。


三者がもつれ合って転がり、欹が地面から顔を上げる。

「びっくりしたわよ!どこのどいつ……」


その姿を見た途端、頬が痙攣した。

「なんでイナなのよ!?」


イナが猫を抱きながらぺろりと舌を出す。

「ごめんね~欹ちゃんいたなんて気づかなかったよ~!」


欹が服の埃を払いながら啖呵を切る。

「こっちの台詞よ。説明責任あるわよ」

イナは黒猫を高々と掲げた。

「冒険者ギルドの依頼やってたの」


「まあ、教え子ってことで大目に見てやるわ」


(まったく、これが良いことって?)と袋を手に取ろうとした欹の動作が止まる。

(……あれ?私の袋!?)


ばっと振り返った先で、水路を漂う野菜袋が下水口に飲み込まれる最期を目撃する。

「今日の昼飯が……」


暴れる黒猫を抱きかかえるイナがにっこり笑う。

「それ欹ちゃんのご飯?じゃあイナと一緒に食べようよ!ごめんねってことで!」


内心では断りたい欹だが、給料の大半を遺跡の入場料に消していた事情もあり、食事代が浮くのはありがたい。とはいえ教師としての威厳は保たねば。

「何度言わせるの、『先生』って呼びなさい!……仕方ない、特別に許してあげる」


顎をしゃくり上げて威厳を装う欹に、イナは猫の耳を優しく撫でながら提案する。

「じゃあまずこの子をギルドに届けようか」


石畳を歩きながら欹が鼻を鳴らす。

「んー、せっかくの休みなのに依頼なんかしてるの?」


「今なら報酬が1.5倍なんだよ」


「実家には帰らないの?」


イナの足取りがふと軽くなる。

「イナのお家ないんだ。セリーヌさんが言ってた、ママとパパは前の魔族戦争で離れ離れになっちゃったって」


欹の眉が微かに震える。魔族情報部の記録によれば、王国の戸籍管理は戦争孤児にも行き届いているはずだ。十年経ってなお消息不明なら――それはつまり……


「リカたちがいなくて寂しいだろうに」


イナが不思議そうな顔で首を傾げる。

「どうして?リカちゃんもセリーヌさんもメラさんも、みーんな街で働いてるよ」


「出身が似てるから?」


「うん!リカちゃんは城外の依頼、セリーヌさんは教会のお手伝い。メラさんは巨人の指輪の研究でギルドと契約したんだって。みんなで生活費稼いでるの」


「……大変な子供時代だったな」


戦争を引き起こした張本人として、欹は初めて後ろめたさを覚えた。靴底が突然重くなる。

イナが指を噛みながら首を傾げる。「んー……イナ、小さい頃のこと覚えてないや。楽しいことだけいっぱい覚えてるから!」


欹はふと己を省みる。自分に両親がいたのかすら知らないのに……(魔王のくせにこんな感情抱くなんて滑稽だ……単純に幸せだけ記憶できる彼女が羨ましい)


無言でギルドまでの道を歩き終え、受付の青年に黒猫を引き渡したイナが小銭袋をチャリンと鳴らす。「どうして毎日猫探しの依頼があるんだろう? みんないい子なのに」


「飼い主がドジばっかりだからじゃない?」

欹が適当に応えると、イナは突然その手を握った。

「さあ、ご飯食べに行こっ!」


「離しなさい! 教師と生徒の立場ってものを――」

「ちっちゃいこと気にしないの! 欹はほんと意地悪」


ギルドを出ようとした瞬間、埃まみれの冒険者一行が入り口を埋めた。甲冑に刻まれた遠い地の傷痕、髪に纏う異境の風の匂い。彼らの瞳は常に地平線の彼方を見据えていた。


欹がイナの露出した肩を見下ろす。「こんな薄着で防寒も防御もどうしてるの?」

「欹だって同じじゃん」

「教師用に特注した最上位魔法装備よ。自浄機能付きで防御値もマックス」

「私たちのもセリーヌさんが調整してくれたんだよ~」


戦利品を積んだ荷車の列を見送りながら、欹が呟く。「冒険者って自由そうでいいわね」

「自由なんて王都の掌の上で踊ってるだけだよ」

「意外と物分かりいいんだね」

イナが報酬袋をチャラリンと振りながら跳ねる。「難しいことよりお腹空いた~! 早く行こうよ」


川面がキラリと光る飲食街で、欹の頬が痙攣した。

「これが……ご馳走ってやつ?」


「この川の魚って最高に美味しいんだよ! 今すぐ捕まえてみせるっ!」


イナが拳を擦り合わせ、川面よりも長いよだれを垂らしながら構える。


「超重いパンチ!」

ドンと水面を叩いた衝撃で、気絶した魚が水しぶきと共に欹の足元に降り注ぐ。


欹が焼き魚の串をふうふう吹きながらほおばる。

「んー……まあまあ合格点ってとこか」


イナは丸ごと一匹をガリガリと音を立てて咀嚼する。

「森も川も山も海も! シンプルで美味しいとこが好きなんだ!」


「あとメラちゃんとセリーヌさんとリカちゃんと先生と一緒にいるのも好き! みーんなでわいわいするの楽しい!」


欹は串焼きの木の枝をくるりと回しながら苦笑する。


対岸の柳の下で、簑笠を深く被った影が釣り糸を巻き上げる。


梢を揺らす風に紛れ、静かに川岸を歩み去る教師の後ろ姿。

イナの笑い声が水面を跳ね、遠くで教会の鐘が鳴り響いた。

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