インファン
時は遡ること一日前。
メラが雲を召喚して四人に日陰を作ると、セリーヌがリカの手を取った。
「行きましょう。姫様がお待ちですよ」
イナは後頭部に手を組んで言った。「ん~……待ちきれないな。何食べようかな」
メラは呆れ顔で肩をすくめた。
「しょうがない子だな。みんなの分まで平らげたのに、まだ空腹とは」
リカがふと振り返り、欹番の家の玄関を一瞥する。
「何か人の気配がしたような……」
セリーヌがリカを校舎方向に押しやった。
「さぁさぁ、姫様を長らくお待たせしています。校長先生にご迷惑もかけられませんし」
四人の去る姿を陰から眺めていたアポロが姿を現した。
「鋭い直感だ。だがどうでもよい。ふふ、可愛い子猫ちゃん、いただきだ」
アポロは欹番の家の扉をこじ開け、忍び込んだ。
校門前ではインファンが望遠鏡を手にリカの姿を探していた。
私が日傘を差しかける中、三人の騎士が背後に直立していた。
「お待たせして申し訳ありません」と私は軽く会釈した。
インファンは飢えた狼のように望遠鏡の視界を追っていた。
「どれだけ待っても構いません!第四百六十二代勇者様も皆を気遣うお心遣い……流石です!」
私は苦笑を噛み殺した。本当に焦っていないなら、わざわざ校門まで出向いてこないだろうに。
四人が校門に到着すると、セリーヌが申し訳なさそうに頭を下げた。
「大変お待たせ致しました、姫殿下」
インファンは依然として望遠鏡を構えていた。
「全然大丈夫!勇者様とお会いできるなら……あれ?勇者様はまだ?」
私がリカを指さす。
「姫殿下、こちらが当代の勇者です」
リカが手を振った。
「どうも、お姫ちゃん」
望遠鏡が地面に叩きつけられ、高らかな音を立てた。
蒸し暑い兜の下で、フィリップの表情が複雑に歪む。
インファンは咳払いで取り繕った。
「校長先生、そんな戯れ言を。王国の伝統により、この私が勇者様と婚約を結ぶことになっております。未来の夫に対する不敬はお控えください」
フィリップの顔面の痙攣が激しくなっていった。
「でもリカが勇者なんですよ」リカが勇者の剣を取り出し、首を傾げながら言った。
フィリップとは対照的に、インファンは一目見てその剣を見抜いた。記録と色形が若干異なっていようと、歴代勇者の伝記を読み込んだ彼女には確信があった!
インファンがリカの両手を握りしめると、胸元の宝石が眩い輝きを放った。
「賢者の石がこれほど反応するとは……間違いありません!この私が積もりに積もった敬慕の念を、どうお伝えすれば……」
「失礼ながら、ここは話し場所ではございません。校長室でゆっくりと」と私が遮る。
フィリップが黙々と破片を掃き集める中、私はインファンにべったり貼り付くリカを見ながら日傘を畳んだ。
本来ならリカたちの資料を渡すべき場面だが、ここは敢えて演出を加えよう。神様だってたまには悪戯したくなるでしょう?
欹番のソファに座るリカは、インファンの接近に戸惑っている。三人の騎士はまるで甲冑の置物のように部屋の四隅に配置されていた。
インファンがリカの隣に腰を下ろす。
「勇者様、どうかご武勇伝をお聞かせくださいませ」
「『勇者様』って呼び方、なんかしっくり来ないな。お姫ちゃんって呼んでもいい?その代わりリカって呼んで」
インファンは頬を染めて肯いた。
初恋の少女のようなインファンを見やりながら、私は書類を四部取り出した。
「折よく準備していた調査資料をご披露しましょう。学籍記録に載る内容ですから」
インファンが手を叩く音が響く。
「邪神討伐の偉業!第七百三十三代、八百六十二代、九百九十八代の勇者様も……流石です!」
リカとセリーヌが私を見上げたが、私は静かに手の平をかざした。
「表立つのは好みません。これはあくまで諸君の功績ですから」
インファンがメラの手を嬉しそうに握り締めた。
「メラ・セシウィス!第百二十四代勇者パーティーの魔道士も、巨人族の秘術を継承された魔法愛好者でした!さすが勇者様のお伴!」
次にイナの手を上下に振りながら、
「イナ・ヘルメス!第三百二十八代の戦士もこの野性的な生命力!まさに勇者様に相応しい戦友です!」
セリーヌを見つめる目が潤んだ。
「セリーヌ・イヴァリーナ・セレブリャコフ!第四百八十七代の聖職者もこんなに寛大で細やかな方でした!勇者様の選択は常に正しい!」
イナが目を丸くした。
「あの長ったらしい名字、一度で覚えられるなんて……」
セリーヌが耳を赤らめて呟く。
「寛大って部分だけでも省略してほしかった……」
夜、リカの寮でいつもの雑談中。
セリーヌが欠伸を噛み殺す。
「もう遅いから帰るわ。リカも早く休みなさい」
三人を見送ったリカが伸びをする瞬間、窓外に不審な気配。勇者の剣を構え窓を開けると、梯子に乗ったインファンと目が合う。
状況を飲み込めないリカが窓枠を指さす。
「お姫ちゃん、中に入る?」
インファンが頬杖をつき恍惚の面持ち。
「第六百二十八代様も友人を大切にされました……お休みなさいませ、勇者様」
ウィリアムとジョージが梯子から姫を受け止め、フィリップが梯子を担ぐ。
「リカって呼んでいいんだよ!」と窓から手を振る声が響く。
翌朝、欹番専用椅子の埃を払いながら生徒を見渡す。
「今日は欹先生の代講です。心配無用、明日には復帰します。それと新入生を紹介――」
インファンが教壇でカーテシー。
「ごきげんよう、皆様」
空席を意図的に無視し続ける。
「席が足りないのでリカさんの隣に特別席を設置。パーティー加入も異存ないですよね?」
フィリップたちが朝から寮を巡回済みのため、反対者は皆無。ウィリアムたちが運び込んだ豪華な学習机の出所は謎のまま。
黒板をコンコンと叩く。
「では授業を始めましょう」
リカがぼんやり宙を見つめていると、インファンが手を叩いた。
「第七百六十四代様も現世と幽界を往来されました!さすがです!」
ノートに落書きを始めると、
「第三十四代様の挿絵の才能が!流石は勇者様!」
机に突っ伏すと、
「第八百五十四代様の戦略的休息法!見習わねば!」
給食を完食すると、
「第二十三代様の質素倹約!まさに模範!」
……
放課のチャイムが響く中、トイレに立ったインファンの隙にイナが舌打ち。
「あの姫さん……うるさいんだよ」
メラが深いため息。
「やっと静寂が……」
セリーヌが教科書を閉じる。
「食堂、急がないと混むわよ」
私がドア枠に寄りかかる。
「欹の伝言だ。今夜は彼女の部屋で会食とのこと」
欹のアパートで「特製料理」を口に運ぶ四人の窓外、樹上は熱気に包まれていた。
アポロが枝を握り締む。
「くそっ!あのガキ共より先に食事を……このアポロ様が!」
別の樹ではインファンが望遠鏡を覗く。
「第九百四十代様も師弟交流を大切に!ああ尊き!」
私はため息と共に幻術を仕掛け、毒に悶える欹を待ちつつ玄関に佇んだ。
現実に戻り――
欹の「なんでそうなるの!?」という声を背に階段を降りる。解除した幻術の残滄から、書香漂う執務室へと移行する。
「あの味覚こそが、彼女が魔王と呼ばれる所以か」
窓越しに赤く染まる夕陽を見やりながら、硝子の向こうでまた新たな騒動が始まる予感に目を細めた。
その後数日間、インファンの一人舞台が続いた。
メラが目を閉じて瞑想(実は居眠り)していると、隣に座り込む。
「第八百三十二代パーティの魔導士も休息を大切に!流石は勇者様のお供!」
イナが川辺で魚を焼いていると、水中から調味料を差し出す。
「第六百五十二代の戦士も野営の達人!さすがです!」
セリーヌが小説を閉じようとした夜更け、窓外で提灯を掲げる声。
「第九十二代聖職者も文豪でした!ご立派!」
唇の動きを読まれてしまったセリーヌは、カーテンを勢いよく閉めた。
ヘトヘトの長距離走終了後、全員に水筒を配る。
「歴代勇者パーティの不屈の精神!感動です!」
時の流れは風の如く、数日が瞬く間に過ぎた。
新聞を畳みながら応答する。
「どうぞ」
インファンがそっと入室してきた。
「ご相談が……」
「勇者様の生活とは、本来どうあるべきだとお考えですか?」
「普通の人とは違うものだろう」
「その通りです!もっと華々しい冒険が……邪神討伐や古代遺跡探索こそ相応しい!」
コーヒーカップを傾ける。
「魔王不在の時代に、そんな事件が頻発する方が不自然だ」
「でもこのままでは勇者様との絆が深まりません。だから提案が……」
内心では思っていた。天然のリカですら、そろそろ辟易しているはずだと。
寄り添うのは喜びでも、密着されれば息苦しくなる。血を分けた親子でさえ、四六時中世話を焼かれたらうんざりするものだ。
血縁者でさえそうなのだ。ましてや出来たばかりの友人なら尚更だ。
インファンが画策するのも無理はない。私は薄笑いを浮かべた。「面白い提案だ。ちょうど適任者が……」
天を衝く尖塔を見上げて欹が嘆息。
「本物そっくり……ここ本当に偽物なの?」
玉座に腰かけるインファンが解説する。
「校長特製の模擬魔王城です。文献通りの仕掛けが二百八十七箇所」
欹が内心で呟く。(本物の魔王城、こんなに複雑じゃないわよ……)
「で、私に何の用?」
インファンの指先が欹を刺す。
「魔王!」
欹が飛び上がる。
「えっ? 何? まさか!」
「魔王役をお願いしたいのです」
インファンが扇で口元を隠す。
欹は空間に潜ませた杖をそっと戻した。
「魔王のフリ? でも私こんな小柄で……」
「校長推薦とのことですが」
「……あの野郎!」
ガチャガチャと音を立てて現れた金貨の箱。
先日の高級食材代を自己負担した欹の目が輝く。
「ご依頼、喜んでお引き受けしますわ」
インファンが水晶玉を取り出す。
「各所の準備は整いました。校長へ開始の合図を」