表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

永嘉王の帰還

正月の宴で怪我をしてしまった青蘭は、病床に伏した。しかし、そのお蔭で皇太后の怒りが少しずつ溶けていったのだ。

   ★  青蘭の負傷  ★


 宴の翌日、太陽が中天から傾いた頃、今上帝は皇太后の見舞いに宣訓宮を訪れた。しかし、婁氏は対面を許さなかった。

「母上、子進が参りました。中へ入れてください」

正殿の前に立ち尽くした高洋は、母親に懇願した。侍女の秀児が数回往復した後、高揚は後宮に戻っていった。

 高洋は、酒を飲むと己を失い些細なことで、宦官や宮女を鞭打った。時には、皇族や高官も怒りを被るときもある。高洋は素面の時は、己の酒害による乱行を悔いたが、その罪悪感は反って酒の量を増すだけだった。

 しかし、丞相の楊韻は、見て見ぬ振りを決め込んでいた。独自性を出し漢人官吏の権力を削ごうとする皇帝より、酒や女人に耽溺し政を官吏任せにする皇帝の方が、御しやすかったからである。


紫雲閣の房内には火藘がたかれ、窓からは早春の淡い光が、薄絹越しに差し込んでいる。榻牀で目を覚ました青蘭は、寝返りを打とうとして背中の激痛に顔をしかめた。

 昨夜は、何の考えもなく婁皇太后を身体でかばってしまったが、自分が気を失って退出した後はどうなったのだろう。青蘭は痛む手で衾を引き上げた。


 扉が開いて、薬湯の香りをまとった冷たい空気が流れ込んだ。縹色の外衣を着て、長恭が入って来た。

「青蘭、大丈夫か?」

 長恭は榻牀に近づくと、心配そうに青蘭を覗き込む。長恭は屈みこむと青蘭の額に手を当てた。

「熱があるな・・・痛むか?」

「師兄、こんな所に来ては皇太后様のお怒りを・・」

長恭は榻牀の横に座ると、湯気を立てる薬湯を匙でかき混ぜた。

「御祖母様に、看病のお許しをもらった。だから、・・・大丈夫だ」

 青蘭が皇太后を庇って負傷したため、長恭に看病することを許したのだ。

「皇太后様のお怪我は?」

長恭は青蘭の身体を起こすと、薬湯を唇に流し込んだ。

「君が身を挺して守ってくれたお蔭で、御祖母様は大丈夫だったよ」


 椀を小卓に置くと、長恭は青蘭の手を握った。長恭の瞳に包まれると青蘭は何も言えなくなる。

 青蘭の首筋を見遣ると、白い包帯が見える。侍医によると、青蘭は肩口と背中には馬鞭で打たれた跡が深い傷になっているという。もし、青蘭が守ってくれなかったら、祖母は瀕死の重傷を負っていただろう。

青蘭はほっとしたように微笑んだ。


「青蘭、陛下の鞭の下に身を投げ出すなんて、あまりにも無謀だ。・・・これからは、やめてくれ」

 長恭は、肩に手を遣ると背中をそっとなでた。

「無謀だなんて・・・思わず身体がうごいてしまったの」

最近の今上帝は、酒毒に犯され、理由もなく周りの者に激怒するようになった。侍女の中には、陛下の懲打を受けて命を失う者もいるというのに、青蘭は命知らずだ。

 長恭は榻牀の上で身体を寄せると、青蘭の肩を抱きしめた。

「い、痛い」

青蘭は思わず悲鳴を挙げた。

「す、すまない。そんなに痛いのか?」

長恭は、青蘭を横にさせると衾を引き上げた。


   ★  二人だけの元宵節  ★


 月が満ちて元宵節が近づいた。

 青蘭の肩や背中の痛みは癒えたが、鞭で打たれた傷はなかなか癒えるものではない。側仕えに付けられた小玉が、傷薬を塗るなど身の回りの世話をやいてくれる。長恭は侍中府から帰ると紫雲閣に直行し、一緒に夕食を取り、青蘭に薬湯を飲ませるのだった。

起き上がれるようになってきた青蘭は、長恭から『史記』を借りると、榻で横になり読書に励むようになった。そして皇宮から戻った長恭に、不明なところを質問するなど、学問への渇望をいやしていた。


『屈原列伝』である。

 屈原は、戦国時代の楚の皇族であった。

 博学で王と国事の計画をめぐらし、外交に当たっては諸侯と論議を交わすなど政に辣腕を振るっていた。しかし、好事魔多し、上官大夫がそれを妬み、王に讒言され、その地位を奪われたのだ。そして、南方を彷徨ったあげく、汨羅に身を投じたという。

 その命日は五月五日であった。端午の節句に粽を食べるのは、粽を水に投じて魚が屈原の遺体を食べないようにするためであるという。


「青蘭様、そのような書物ばかり読んでいてよく飽きませんね」

 小玉は、榻の横にある卓の上に夕餉の料理を並べた。青蘭が怪我をして以来、小玉は青蘭の世話を進んで引き受けてくれる。

「学問を中絶してしまった。ここを出れば学堂に戻る。遅れを取り戻したいの」

この怪我がなければ、いまごろは顔師父の元に挨拶に行っていたはず。

「『史記』が好きですよね。女子が歴史書を読むなんて珍しい」

「むしろ、世間の狭い女子こそ、歴史を学ぶべきだと思う。・・・生きてく中で人間はいつも判断に迷う。しかし、歴史の中には、多くの示唆がある。先達の生き方は良い手本なのだ」

榻に横になった青蘭はちらっと扉を見た。まだ、長恭は戻らない。青蘭は溜息をつくと、書冊に目を落とした。


 昨年の元宵節では、櫓の陰から長恭と敬徳の姿を覗いているだけだった。しかし、今年は長恭の帰りを待っている。

 江陵からはるばる淮水と黄河を渡り鄴城までたどりつき、長恭と巡り合った。縁とはなんと数奇なものだろう。皇太后の怒りを買い皇宮に閉じ込められたが、今では長恭の間近に住まっている。

 今年の元宵節は、外に出て灯籠見物に出られないが、その心はなぜか満たされていた。

長恭は純粋さと清廉さが屈原に似ている。その正道を曲げぬ頑固さが、長恭の身に災いを招かないだろうか。青蘭は、読み終わって溜息をついた。屈原は、正道を進み、智力のありったけで、その君に仕えたのに、讒言され権力から隔てられた。長恭が清廉であればあるほど、乱倫の気風が蔓延る斉の皇宮で生き残るのは難しいのではないだろうか。


 濃紺の空に望月が昇り、青蘭はそわそわしていた小玉に、灯籠見物を許した。

 その時、扉が開き、黒い袋を持った長恭が入ってきた。

「青蘭、遅くなってすまぬ。傷の具合はどうだ?」

 長恭は、青蘭の横に座ると手を取った。

「もう大丈夫よ、でも・・・」

今夜は正月の儀式の最後を飾る元宵節だ。親しい者たちは灯籠見物に街に繰り出し、想い合う者たちは天灯を挙げる。しかし、自分は背中に馬鞭の傷を受けて、見物にも行けない。

「痛いのは、このあたりか?」

 長恭は心配顔で衣の上から背中を撫でた。女子の背中に鞭の傷とは痛々しい。

「これからは、私が君を守る。誰にも傷つけさせない」

 長恭が妖艶な瞳で青蘭を覗き込んだ。長恭の手の甘い感覚が、青蘭の全身を駆け巡った。

 長恭が青蘭の手を取ると、滑らかだった手が、今は掖庭の冷たい水でがさついている。長恭は握った手を唇に持って行った。心が痛い。


 長恭は、榻の前に卓を移動させると椅を近くに持ってきた。

「青蘭、まずは食べて力をつけるんだ」

 長恭は、鶏の羹と皿を前に置いた。卓の上には、川魚の煮物や羊肉入りのほうとうなど滋養の付くものが並べられている。

「羊肉は、滋養が付く・・・」

 まるで、新婚家庭のささやかな食卓のようだ。また一緒に食事が食べられるなんて・・。青蘭は密かに陛下の懲打に感謝した。


 食事が終わると、長恭は茶を入れた。懐かしい江南の茶である。

「今年の春は、周との国境に遠征があるのだ。私は必ず武功を挙げる。そうしたら、・・・皇太后も婚儀に異議を唱えない。・・・青蘭、待って欲しい」

 長恭は、小振りの茶杯を青蘭に差し出した。

戦は命のやりとりだ。青蘭は南朝で多くの将兵が、刃に下に散っていったのを見てきた。

「私のために、戦に行くなんて・・・」

 先頃、やっと散騎侍郎という文官に任官した長恭が、あえて出陣するとは・・・。

「鮮卑族は、本来、地位も名誉も戦場の武勇で勝ち取っていかなければならないのだ。・・君の未来の夫は、誰よりも・・武勇に優れている」

 秀麗な容貌に似合わない長恭の剣や弓の術の強さは、教えを受けた青蘭がよく知っている。長恭は、横に座ると傷に触れないように青蘭を抱いた。

「遠征で武功を挙げたら、すぐに皇太后令を出してもらう」

 皇太后令で婚姻を賜れば、鄭桂瑛でも反対はできない。


 長恭は楽観的な希望を述べると、床に置いた袋から天灯を出した。

「青蘭、今日は元宵節だ。でも、怪我をしている君は外に出られない。だから、・・一緒に後苑から天灯を飛ばそうと、・・・作ってきたのだ」

 長恭が侍中府から戻った後、少しずつ作っていた物である。

「人影がなくなったら、飛ばしに行こう」

 長恭は笑顔になると、天灯を青蘭の膝の上に置いた。


 月が高くなった頃、青蘭と長恭は披風をまとうと、夜の後苑に出た。所々に松明が焚かれ、後苑の小径を照らしている。南の空を見ると正殿の前庭が灯籠の明かりで真昼のようである。

 長恭と青蘭は小径を進み、睡蓮池の辺に出た。外は早春の寒さで、披風越しに、凍りつくような冷気が伝わってくる。

 二人で寄り添って歩いていれば、見咎められる。青蘭は、長恭から離れようとした。

「君の身体が冷えてしまう。もっと側に・・」

 長恭は青蘭の腰に左手を回すと、披風の頭巾の中の滑らかな頬に口づけをした。師兄は、何と無邪気なのだろう。青蘭は、長恭を見上げて睨んだ。

「青蘭、元気が出てきたな」

 長恭は反って笑顔を作ると、持ってきた袋を開け、中から天灯を取りだした。天灯には桃の花が描かれ、詩賦が記されている。

『詩経』の詩の一章である。


 桃の夭夭たる

 灼灼たり 其の華

 之の子 干に帰がば

 其の室家の宜しからん


 桃は若やぐ 輝くその花

 この子が 嫁に行ったなら

 その家にもふさわしい。


 婚礼における、祝いの歌であるとともに、求婚の詩賦でもある。

 長恭が天灯に明かりを灯すと、二人の花顔が明るく照らされた。青蘭は、披風から両手を出して天灯を支えた。願いや誓いを言葉に出して、天灯を飛ばすのだ。

「この時、天に誓おう。私、高長恭は、ここにいる王青蘭を妻にする」

 突然、青蘭を見つめた長恭が、厳かに誓った。

「師兄、婚姻を天に誓うなど・・・」

 天に誓えば、叶えられなかったとき、純粋な師兄の心に癒やしがたい傷として残るに違いない。皇太后に前途を嘱望されている長恭が、むやみに天に誓うなどあってはならないことだ。

「そなたの心は?」

 灯りに照らされた師兄の清澄な瞳に逆らえる女子がいるだろうか。

「私の心は、いつまでも師兄と共に・・・」

 長恭が青蘭の身体を、引き寄せると、天灯は、音もなく二人の手元を離れた。

 夜空にふらふらと登っていく天灯は、これからの青蘭の運命のように頼りなげだ。高く浮かび上がった天灯は、上空の風に乗って瞬く間に小さくなっていった。


 長恭は、己の披風を両手で広げて青蘭を包むと、披風の中で抱きしめた。長恭の温かさが青蘭を勇気づける。青蘭は目を閉じた。

「私達は、いつまでも一緒だ」

 長恭は笑顔で囁くと、青蘭の手を引き紫雲閣に向かった。


★ 段紹と長恭 ★


 上元節が過ぎ、春の陽光が強さを増した。水仙の蕾が膨らんできた頃、平原郡王の段韶が皇太后府を訪れた。


 段韶は、婁皇太后の甥に当たり、婁氏の姉である婁信相の長男である。

 端整な面差しは武将と言うよりも文人を思わせる。皇太后の外戚でありながらも、傲慢になることなく、常に慇懃な物腰は大人の風韻を漂わせていた。

 段韶は、早くから甥として高歓に近侍し、北周との戦いで数々の戦功を上げた。段韶は、戦闘に置いても統治においても、公平な判断をして、人々の信頼を得ていた。

 高歓の信頼が厚く、その臨終に際しては、大事に当たっては段韶に図るようにとの遺命があった。

 この時、段韶は、尚書右僕射(宰相)として政の重任を担うに留まらず、斛律将軍と共に、軍の中心的な存在であった。


 段韶は、几帳面に挨拶をすると温順な瞳で叔母を見上げた。

「叔母上、お元気でしょうか?」

 段韶は眉を潜めた。後宮での宴で、今上帝が婁皇太后に馬鞭を振るったことは、段韶も耳にしていた。皇帝親子の不和の原因として、娘の入内が関係していることを思うと、伯母の負傷にも無関心ではいられない。

「ああ、この通り元気だ」

婁氏は笑顔で腕をさすった。正月の高洋の蛮行は広く知れ渡っているらしい。

婁氏は、甥に椅子を勧めた。

「陛下が、あれほど酒毒に犯されているとは、思わなかった」

ここ一年ほど、婁氏は息子の高洋との関わりを避けていた。一族の噂から、酒乱の気があるとは聞いていたが、母親を殴打するとはおもっていなかったのだ。

「身を挺して叔母上を、守った侍女がいたと聞いております。今時珍しい、忠義の厚い娘だ」

「誠に、・・・傷が治れば、褒美をやって家に帰してやりたいと思っておる」

 恩には必ず報いるのが、叔母の婁氏である。

「そう言えば、叔母上もお聞き及びのことと思いますが、二月には翼州への出兵が予定されております」

 昨年(紀元五五七年)の後半にも斛律将軍が出征し、北周の四鎮を陥落させている。そこで、北周は翼州方面の国境を侵す気配を見せているのだという。


 その時、長恭が居房に現われた。青蘭が後ろから茶器を運んできたのだ。

「高長恭、平原王(段韶)に御挨拶を申し上げます」

 長恭は、礼に従って段韶に拱手した。段韶は族叔父であるが、任官前の長恭はあまり顔を合わせることはなかった。

「昨年任官したとか。散騎侍郎としての仕事ぶりも立派であると聞いておる」

「過分なお言葉です」 

 段韶は、謙遜する族甥の面貌を見た。

 似ている。・・何と父親の高澄に似ていることだ。父親似比べて苛烈さに欠けるが、その分、敵を作らない温順さがある。

 段韶は、勧められた茶杯を傾けた。

「職務が忙しい中でも、長恭は好く顔を出してくれておる」 

 婁氏は茶杯を手にすると、厳しい表情を緩め、祖母の顔で言った。

「叔母上、これからが楽しみですな。はっはっはっ、長恭、今度、我が屋敷を訪ねて来るがいい。共に詩賦を詠じよう」

 段韶は、丁重に長恭を誘うと、宣訓宮を退出していった。


 長恭はすでに十八歳である。しかし、いまだ爵位を賜らず、昨年やっと散騎侍郎の官職を得たのみである。他の皇子に比べると、昇進が遅れている事を不思議に思っていた。

 しかし、高澄によく似た長恭の花貌を観て、謎が解けた気がした。

『叔母上は、高澄に余りに似ている容貌が、いらぬ誤解や陛下からの嫉妬を招かぬか心配して出仕を遅らせていたのか』

 長恭が、顔氏に弟子入りし、漢人に劣らぬ学問を身に付けているという評判を思い出した。

『叔母上は、長恭を能臣にすることで、朝廷で生き抜けるようにと考えているのか』

 段韶は長恭という清廉な青年の、苦難が多いであろう前途を思うと、胸が痛んだ。


★ 永嘉王の帰還 ★


 年が明けると、青蘭の父王琳将軍は、甥の王叔宝を鄴に遣り永嘉王簫莊を迎えさせることになった。

 一月の中旬、王叔宝は鄴都に到着し、左僕射の段韶との折衝の結果、永嘉王簫莊の帰還が二十五日に決まった。それに伴い、王琳は今上帝高洋より、斉の一部としての梁の丞相・都督・中外諸軍・録尚書事に任じられた。


 簫莊は、梁の皇子である。幼少の頃当時の東魏に人質に出され、皇宮の片隅で育った薄幸の皇子である。莊皇子が鄴にいる間に、父の元帝は崩御し梁王朝は、滅んでしまったのである。

 しかし、梁の再興に執念を燃やす青蘭の父である王琳将軍は、永嘉王簫莊の帰還を斉に願い出た。前皇帝の皇子である簫莊を旗頭にして、梁の旧臣の結集を図ったのである。


 当初、王琳将軍は、高敬徳と青蘭の婚姻によって斉からの援軍を引き出そうとした。しかし、青蘭の出奔によって、そのもくろみはあえなく消えてしまったのである。青蘭が江陵から出奔しなければ、簫莊が帰還することもなかったと思うと、簫莊を渦中に追い込んだのは自分かも知れない。青蘭は、簫荘に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


 紫雲閣の書房には、大分蔵書が増えた。房内には蝋燭の灯火が灯り、火爐が置かれて温かい空気が漂っている。

「永嘉王も今年で十一歳だ。ずいぶん逞しくなって来ている」

 書架の側に立ち、『史記』の書冊を開きながら、長恭は莊皇子を思った。昨年南院を訪れて以来、長恭は簫莊の元を訪ね、兄のように投壺や学問を教えていたのだ。

 長恭は、几案に座る青蘭に近付くと、両肩に手を置いた。

「南朝は、戦乱のさなか。・・・梁に帰れば、その苦労は並大抵ではないわ」

 青蘭は、莊皇子の前途を思うとその哀れさに深い溜息が出た。

「私も皇子が心配だ。・・・出立の時は、ぜひ見送りに行きたいと思っている」

 青蘭は、几案の上で開いていた『文選』を閉じると、ゆっくりと立上がった。

「師兄、私も見送りに行きたい。皇太后様からは帰宅のお許しが出ているけれど、永嘉王を見送ってから、鄭家に戻ることにしたいの」

 春の温かさが増すにつれて、青蘭の背中の傷も回復し、跡も目立たなくなってきた。婁皇太后からの許可は下りているが、同じ屋敷で毎日のように会っていると、鄭家に戻ることに躊躇もある。

 『文選』を書架に置くと、青蘭は長恭を見上げた。傍にある蝋燭の灯火が、青蘭の秀でた鼻梁と黒目がちな瞳に美しい影を作っていた。

「もちろんだ。王将軍の令嬢である君が見送りに行けば、永嘉王はどれほど心強いか」

 長恭は、青蘭の肩に腕を回すと、優しく引き寄せた。


  ★ 永嘉王との別れ ★


 簫莊が帰還する日は、早春の一月には珍しい粉雪の降る日だった。

 長恭と青蘭は、簫莊を見送るために早朝、南院に出掛けた。長恭は令珮を見せると、雪がうっすらと積もった院内に入った。

  大門の前には数台の馬車が停まり、多くの護衛の兵が物々しく取り囲んでいた。簫莊に仕える宮女や衛士たちが、忙しく家財や大きな櫃を門の外の荷車に運んでいる。


 長恭と青蘭は、正殿の扉の前に立った。

「莊皇子、・・・私だ。高長恭だ」

 長恭が声を掛けると、音を立てて扉が開けられた。萌葱色の長衣に、鉄紺の外衣をまとった簫荘が、扉を押して出てきた。

「見送りに来てくれたんだね」

 簫莊は、嬉しげな叫び声とともに長恭に跳び付いた。

「よかった、よかった。・・・もう会えないかと思った」


 房の中は、すっかり片付けられてもともと殺風景な室内がすっかり何もなくなっている。簫莊は、長恭の手を引くと僅かに残された榻に座らせた。

「身体に気を付けてこれで手を温めて・・・」

 青蘭は、懐から手爐を出すと、簫莊に渡した。

「南朝までの道は長い。水も変わる風邪に気を付けて」

 長恭は、簫莊の乱れていた長衣の衿を合わせてやった。初めて会った頃が思い出される。長恭は莊皇子の肩を抱き寄せて、大きな腕で抱きしめた。

「兄上も、身体に気を付けて・・・」


「鄴都に来て六年、辛いこともあったが、皇太后様や兄上に出会って、人の温かさも知った。むしろ、故郷を離れる思いがするのだ」

 簫莊が堂から外を見ると、鈍色の雪雲から白い雪が舞い降りて来る。梁への帰路は、困難を極めよう。

「出立の時の雪は、吉兆だ。必ず佳きことがあるだろう」

 長恭は簫莊を励ますように、自分では信じていない吉兆の話をして笑顔を作った。

「兄上、私は怖い。・・・南朝で私は何をすればいいのだろう」

 出立が目前になって、簫莊は急に先行きが恐ろしくなったのだ。こらから行くのは、父母もいない幼き頃に離れた見知らぬ土地である。

「永嘉王、江州では父がお待ちしています。きっと好いことがあります」

「莊皇子、心を強く持って」

 長恭は、簫莊の肩に両手を置くと励ますように見詰めた。


 堂の外から、侍衛の声がする。

「永嘉王様、出立の時刻が迫っております」

 簫莊は、侍衛の声に外を睨んだ。

「雪模様の時は、日暮れが早い。こんな日は安陽に泊まるはず。心配いらない」

 早春の雪は、やがて牡丹雪となった。

 長恭と青蘭が、門の外で待っていると、黒貂の襟がついた青い被風姿の簫莊が侍女を伴って現われた。雪の中に長恭と青蘭を見付けると、一瞬灯りが灯ったように微笑んだが、直ぐに顔を引き締めると馬車に乗り込んだ。

「小翠、これを・・・」

 青蘭は、巾着に入れた銀子をさり気なく侍女に渡した。道中は、苦難つづきだ。銀子が助けになるに違いない。


馬車がゆっくりと動き出した。

 雪は一層激しくなり、皇宮の東の出口である春建門が雪で煙って見える。

 馬車を護衛する侍衛と共に、永嘉王簫荘は皇宮を出て行った。後には、馬車の轍の跡が四筋残った。そして、ほどなくその跡も薄れて見えなくなってしまった。


それから数日後、王青蘭は鄭家に戻った。

雪の中、永嘉王が南朝の王琳の素に出発した。長恭と青蘭はこの不遇な王子を見送った。そして

やっとその後青蘭が鄭家に戻った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ