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正月の宴

長恭が皇太后に婚姻を直訴したために、青蘭は再び冷遇される。

★  鄴都の追儺  ★


中原では、古来より、元旦の前日である十二月三十日に、追儺が行われてきた。追儺は、立春の前日に悪鬼を退治して新年を迎えるための祭事である。日本の節分祭の由来になる祭りだと言われている。

 通常は、悪鬼に分した踊り手を霊媒が追い出す儀式を行うものである。しかし、北斉が建国されてから皇宮での追儺は、閲兵の形で行われるようになった。


 皇宮の正殿である太武殿の前庭には、文武百官が並んでいる。散騎侍郎である長恭は、文昌殿の前庭の中程に並び始めての追儺の行事を観ていた。

 太武殿の前に広がる前庭には、文武百官が左右に分かれ整列している。その後ろの北側に並ぶ騎兵は北斉を、南に並ぶ歩兵は南朝の陳を象徴する。

 春を待つ光に輝く長剣が打ち合わされ、兵達の喚声が湧上がる。芝居じみた様子で、斛律将軍により、北斉の勝利が報告され、今上帝(高洋)が斉を寿ぐ詞を述べた。

「皇帝陛下、万歳、万歳、万々歳」

文武百官は拝礼すると、斉の勝利を祝う言葉が、雷鳴のように皇宮に響き渡った。

『陳に対する、単に戦意高揚の芝居だ。全く茶番だ』

 初めての追儺に興味を持っていた長恭は、大袈裟に前庭で模擬戦を繰り広げる将兵の姿を腹の中で笑った。


 追儺の儀式の後、人波が、南の側門に向う中、遠くで聞き慣れた声が聞こえた。

「兄上、待って」

 声がした方を振り向くと、弟の仁徳王延宗が人波をかき分けて近付いてくる。

「やあ、延宗久しぶりだな」

「まったく、義姉上を浣衣局から助けたら、僕は用なしか?」

「あれから、いろいろあって大変だったんだ。今夜は年越しだ、宣訓宮に来たらどうだ」

「食事をするなら、今がいい」

 延宗が横街に出ようとする長恭を必死の面持ちで袖を捉えた。

「延宗、どうしたのだ」

 いつもの脳天気な延宗とはどうもちがう。大勢の家臣が通り過ぎる横街で立ち話はできない。長恭と延宗は連れ立って宣訓宮に向かった。

 宣訓宮でも、年越しの準備が進められている。回廊には赤い灯籠が掲げられ、南門の安仁門には、神奈・鬱壘の二神の名前を書いた赤い桃符が掲げられている。

忙しなく働いている侍女たちを避けて、二人は清輝閣に入った。


 延宗は父高澄の死後、李皇后の手元で養育され、現在でも、後宮に宮殿を賜り生活している。

 安徳王という爵位を持つ延宗だが、母親と封地を持たないという点では長恭と似た境遇であった。第四皇子の長恭と、第五皇子の延宗は、兄弟に中でも一番仲が良かったのだ。


「延宗、青蘭のことではいろいろと世話になった」

「それじゃ、御祖母様は二人の仲をお許しに?」

「いやあ、それがまだなのだ。今は祐筆として仕えている」

 延宗は茶杯に手を伸ばすと笑顔になった。

「兄上の狙い通りじゃないか?」

「それが、そうでもない。同じ宮殿にいながら言葉も交わせないのだ。監視されている」

祖母の言いつけを忠実に守っている兄が可笑しかった。

「くそ真面目な兄上はこれだから困る。女子なんて、忍んでいって、甘い言葉を・・・」

 未婚の延宗だが、兄弟たちの色事はいやというほど聞かされている。

「だめだ。青蘭は王琳将軍の令嬢だ。正式に御祖母様の許しを得てから、大手を振って娶りたい。こそこそとはできない」

延宗は溜息をつくと、吉良の持ってきた菓子に手を出した。


「兄上、僕は後宮を出たい」

延宗は、俯きがちに切り出した。延宗は、今上帝と李皇后の寵愛を受けて後宮で生活している。直の皇子と同じ待遇を受け後宮で生活することは、皇族の憧れであった。

「延宗、なぜいきなり後宮を出たいなどと?」

 延宗は、宮中でも怖いもの知らずで有名だ。しかも、延宗は高洋に溺愛されてきたはず。

「この頃、陛下が・・・怖いのだ。元氏一族を斬首に処して以来、酒が入ると、ちょっとしたことで激怒して、剣を振るうのだ。この一か月で殺された宦官が何人いるか」

 そして、延宗は皇太子高殷に関わるある事件について語り始めた。


 高殷は、皇后李祖娥を母とする今上帝の皇子である。幼くして皇太子に立てられた。斉で一番の美女と謳われた李皇后の容貌を受け継ぎ、幾分線が細いながらも、精美な眉目と温厚な人柄の十歳の少年であった。学問を良くし、経書にも通じている。

 しかし、今上帝には、反ってこの高殷の温順さが不満であった。荒くれ者の多い鮮卑族の武将を統率して行く将来の皇帝として、皇太子の善良な性格に不満があったのである。

 ある日高洋は、高殷を罪人の刑場に連れていった。そして高洋は、皇太子高殷に自ら罪人を斬首するように命じたのである。

 温柔な高殷の恐怖は、想像に余りある。震える囚人を前にして躊躇する高殷に業を煮やした高洋は、高殷の手の上から剣を取ると、高殷の目の前で罪人に向って振り下ろした。

 罪人の断末魔の叫び声と、高殷がその場に倒れるのがほぼ同時であった。そして、その高殷の様子に激高した高洋は、罰として高殷を鞭打ったという。

 高洋の乱暴な教育と、父親から与えられた刑罰は、高殷の温順な精神をズタズタにした。その夜から、皇太子高殷は、悪夢に魘され、言葉がまともに喋れなくなってしまったのである。

「それまでは、皇太子は気さくで良く笑っていた。しかし、あれから何時も何かに怯え陛下の前に出ることもできない。僕も息子にあのようなことができる陛下が、・・・怖いんだ」

 この時代、刑罰は一種の見せしめとして、公開の場で行われるのが普通であった。しかし、漢族の母を持ち師について学問を学んできた神経の細い十歳の高殷に、手ずからの斬首を強いるのは、乱暴なことであった。


 長恭も、叔父である高洋の酒乱と言える噂は聞いていた。中朝にいるときには酒気をおびると、側仕えの宦官を意味も無く手討ちにするという。

 しかし、箝口令が敷かれているのだろう。上奏を処理することを仕事とする侍中府では、今上帝高洋の姿を垣間見る機会はほとんどい。また、皇族の長恭にあえてそのような噂を耳に入れる者はいなかったのだ。

 しかし延宗から皇帝の残虐な所業を聞くと、怒りがむくむくと湧き出した。これが、御祖母様が苦労して作り上げた国の形なのか。

「延宗、散騎侍郎の私には、力にはなれない。皇后に頼むのが一番では?」

「兄上、皇后はまだまだ子供だと出してくれない。外に屋敷を貰えるように皇太后様にお願いして」

 延宗は、唇を尖らせると長恭の腕を掴んだ。

「延宗、屋敷を賜るには、剣術の稽古に励みまず初陣を許されなければな・・・もしくは、だれかと婚儀を挙げることだな」

「初陣はまだだし、・・・婚儀なんて・・・」

延宗は悔しそうに顔を逸らした。皇后という後ろ盾を持っているように見えて、延宗は孤独だった。その寄る辺の無さを誤魔化すように乱暴な言動を繰り返してきたのだ。

「分かった。・・・御祖母様に言ってみるよ」

 長恭は、うるんだ瞳に溢れる延宗の涙に負けて、延宗の腕を優しくなでた。

 大晦日の夕日が西の空に傾く頃、延宗はとぼとぼと後宮に帰って行った。


  ★ 年越しの宴 ★


日本では正月に年神を迎える。しかし、中原では大晦日に悪鬼が訪れると信じられていた。大晦日に眠っていては、悪鬼に身体の中に侵入されてしまう。悪鬼の侵入を防ぐためには、大晦日の夜は悪鬼の嫌いな灯りを灯し、赤い色を飾って大きな音を立てるのである。


大晦日の夜は、本来は皇太后の主宰の元、後宮で盛大に年越しの宴が催されるはずである。しかし皇太后と陛下の仲が険悪な現在は、皇太后の一族と恩顧の家臣が集まって宴を催すのが恒例であった。

 正殿の堂の正面の榻には婁皇太后が座り、左右には秀児と青蘭が控えている。堂の中央の通路をはさんで左右には、多くの家臣たちが居並んでいた。


婚儀の話をしてから、紫雲閣には見張りが付き夜に偲んでくることは難しく親しく話していない。右側に座った長恭は、酒を注ぐ振りをしながら青蘭の顔を盗み見た。

「先日の施粥会は、多くの臣下が参加したと評判でした。皇太后様が、多くの民に慈悲を施したと仏もご存じです」

「若君も出られたとか・・・」

令嬢を紹介された話などに、話が及べば青蘭を傷つける。

「皇太后様は、常に民の暮らしに心を砕いている。その心が、朝臣に広く浸透したからでしょう。皇太后様の慈悲の心に、孫の長恭が杯を捧げます」

長恭は立ち上がると、祖母に杯を掲げた。

「長恭は、この祖母の気持ちをよく知っている」

婁氏は、酒杯を取ると笑顔になった。平生は、決して目立つ発言をしない長恭が、祖母の歓心を買おうと饒舌になっている。

「皇太后様、楽安公主の降嫁は、誠にめでたい。崔附馬は、堅実な人物、良き婿をえましたな」

趙郡王高深が、長い髭をしごきながら笑顔を作った。高深は、高歓の頃から仕える人物で、高一族の中では温厚で知られている。

「そうだが、孫娘は結婚と言うものが分かっておらぬ・・・」

十月に崔逹拏と婚儀を挙げた楽安公主は、堅実な官吏である逹拏を嫌って、何かと騒動を起こしているのだ。

「楽安公主は、まだお若い。夫婦の良さはだんだん分かってくるものですよ」

 正妻の他に、多くの側女を抱える高深は、意味ありげに笑った。


長恭は、王青蘭を娶りたいと直訴してきた。一人では眠れないと婁氏の榻牀に潜り込んできた長恭も、大人になったものだ。

 しかも、先日は青蘭との婚姻は斉の外交に有利であるとの理屈まで持ち出してきた。しかし、若くて純粋すぎるからだろうか。青蘭をただ一人の妻として、生涯を共にしたいと言って来たのだ。

 長恭は、一途すぎる。その純粋さが、愛おしくあり心配でもある。

 朝堂は陰謀と残虐さに満ちている。長恭が独りぼっちになったとき、それを支えるのは妻の一族だ。梁の将軍である王琳の一族にその任が果たせるだろうか。

しかし、一途な長恭は青蘭以外の妻を愛さないという。

 皇族は、幾人かの臣下の令嬢を妻妾に迎え、その実家の政治力を利用して朝堂を渡っていくのである。長恭は自分が亡くなれば、どう朝堂を渡っていくのだろう。

婁氏は、隣の招待者と酒を酌み交わしている長恭を見遣った。


★ 婁氏の願い ★  


年越しの宴は、子の刻まで続くのが通例である。しかし、高齢の婁氏の就寝はいつも早かった。

「私は席を外す。皆でよろしくやってくれ」

戌の刻にさしかかった頃、婁皇太后は臥内に引き上げた。

青蘭の顔を見られるのは、祖母と一緒の時だけなのに、・・・。長恭は肩を落として酒を注いだ。

正攻法で婚姻を願ったのは、失敗だったのか。来年になって青蘭は鄭家に戻るだろう。しかし、青蘭との未来はますます遠ざかっていく気がする。長恭は席を立つと、祖母の後を追った。


長恭が臥内の入り口に立つと、秀児と青蘭が祖母の外衣を脱がせている。

「今年は、多くの方が集まりましたね」

秀児は鏡台の前に座る婁氏の簪を抜くと、鏡台の前に並べた。

「ああ、そうだな」

李皇后と対立して以来、朝廷との関わりを絶っている婁氏であったが、朝堂の様子は耳に入っている。今年の客が多いのも。今上帝の暴虐な振る舞いに廷臣たちは不安を覚えているからだ。

「陳皮茶をお持ちします」 

長恭が帳の陰に身を隠すと、秀児は臥内を出て行った。

「いくらお勤めとは言え、早くお休みにならないとお体に障ります」

 青蘭が奥から夜着を持って来ると、婁氏の肩に掛けた。

婁氏は青蘭に椅子を勧めた。

「お前は、私を冷酷な祖母だと思うかい?」

 祖母は、青蘭に何をするつもりなのか。長恭は耳をそばだてた。

「浣衣局に、そして宣訓宮でも自由を奪った。さぞや、私を恨んでいるだろう」

「皇太后様のなさることは、すべて若君のためを思ってだと分かっています」 

青蘭の緊張した声が聞こえてくる。青蘭は私を諦めるというのか。

「粛が生まれて直ぐ、屋敷から観翠亭に出してしまった。そのせいで、兄弟の順番も違って、母親の翠容も妃にすることができなかった」

「師兄から、聞きました」

長恭は、何もかもこの娘に打ち明けているらしい。

「後ろ盾を持たない長恭には、確固たる姻族が必要なのだ。それでこそ、斉の朝堂で渡り合えるものだ」

どうして、婁氏の言葉に逆らえよう。青蘭は下を向いて唇を噛んだ。しかし、ここで引き下がっては、今までの苦労が無駄になる。

「父は亡国の遺臣、母は商人にすぎない私には、学問する意外、何の力もありません。しかし、困難に合ったとき、師兄を支えて行こうという気持ちは、誰にも負けないつもりです」

こんなことを言えば、また浣衣局に逆戻りかも知れない。しかし、青蘭は一度は否定した長恭への思いを口にしてしまった。

婁氏は珍しいものを見るように青蘭を見遣った。女子が、恥ずかしげも無く想いを口に出すのは珍しいことだ。

「そなたは、珍しい女子じゃのう」

婁氏は、灯火に照らされた青蘭の横顔を見遣った。青蘭だったら、学問のために男装をして偶然に長恭と出会ったという取って付けたような話も、本当かも知れない。

長恭が帳の陰で聞き耳を立てていると、いきなり耳元で秀児の声がした。

「若君、そこで何を?」

驚いた長恭は、唇に指を当てた。

「青蘭が、心配なんだ」

臥内に目を移すと、二人の話題は長恭が幼少の頃のことに移ったようだ。

「若君、皇太后様はもう閉じ込めることなどなさらないと思います」

「本当か?」

「はい、私がお守りします」

秀児は、婁氏が高歓に嫁いできたときから仕えてきた侍女で信頼の置ける人物だ。

「分かった」

長恭はうなずくと、祖母に気付かれないように居所に戻った。


★ 今上帝の乱行 ★


 正月の二日には、新年の宴が後宮で催された。本来は今上帝の実母である婁皇太后が、後宮の主宰者である。しかし、李姐娥の立后以来、李皇后と婁皇太后は不仲で、同じ宴に出ることもほとんどなかったのだ。


 太陽が中天から傾いた未の刻頃、婁皇太后は輿に乗って久しぶりに後宮に渡った。青蘭は供の一人として秀児と共に皇太后に従った。文昌殿の北には、後宮の正殿たる乾寿殿が建っている。階の上で輿を降りると、婁氏は秀児に手を預けながら、正殿に入っていった。


 乾寿殿の堂に入ると、両側には龍を彫刻した列柱が林立している。二つの階を隔てた正面の上座には、黄金の玉座が置かれ、左右には小さめの榻が置かれている。

 正面には、今上帝高洋と皇后の李姐娥が立って婁氏を迎えた。左右には綺羅を尽くした衣装に身を包んだ妃嬪が並んで頭を下げている。婁皇太后が、秀児に手を引かれ中央の通路を進み、青蘭はその後に続いた。

 皇太后の衣は、晴れ着としては質素な橡色で吉祥の刺繍も施していない。庶民でさえも、正月にはもっと派手な衣を着ている。

 母親の衣に気が付いた高洋は、不機嫌に母親を睨んだ。居並ぶ妃嬪たちは、高洋の不機嫌を察して、互いに袖を引き合っている。皇太后は、地味な衣を着て新年の宴に出ることにより、宮中の贅沢を戒めようとしているのだ。

婁皇太后が左の席に着くと、秀児と青蘭は婁氏の後ろに控えた。


舞姫たちの舞踊が始まると、高洋の機嫌も幾分和らぎ新年の祝宴らしい華やいだ雰囲気になってきた。青蘭は、今上帝の右に座る皇后を盗み見た。長恭から中原一の美女であると聞いていたからである。麗艶な美貌に金糸で刺繡した猩々緋の外衣は美しく映え、李皇后の佳容は、他の妃嬪を圧倒していた。

 高洋の李皇后への寵愛は深い。酒に酔うと宦官に剣を振り上げる高洋も、李皇后の前では控えているという。このような美貌の女人を見慣れている長恭にとって、平凡な自分など道ばたの雑草同然にちがいない。青蘭は目をつぶって唇を噛んだ。


 玉座の下を見ると、左には端整な温顔の女人が見える。婁皇太后の甥に当たる段紹の娘である段妃である。李祖娥ほどの美貌ではないが、上品で臈長けた美人である。

かつて、段妃を皇后に推す婁皇太后と李妃を推す高洋が激しく対立した。それは、鮮卑族の勲貴(鮮卑族の武将)とその力を抑えようとした皇帝の対立でもあった。高洋は勲貴の圧力を跳ね返し、李祖娥を強引に皇后に冊封した。しかし、そのために母子の対立は決定的なものとなり、本来は後宮の主たる婁皇太后が、後宮を出て皇宮の一隅にある宣訓宮に籠もったのである。

 それ以来、婁氏は後宮の行事に参列しなくなった。


 後宮の宴に皇太后が来ることは希である。高洋は母の久しぶりの出席を喜んだ。そんな中、皇太后の質素な衣で、奢侈に流れる後宮に戒めを与えたのである。

楽人達の調べが高鳴り、舞姫たちの舞踊が終わると、今上帝が立ち上がった。新年から、母親の機嫌を損ないたくない。機嫌を直した高洋は、新年を寿ぐ言葉を述べると、酒杯を掲げた。

「皇太后の、長寿を祝福して、この杯を献げたい」

 高洋の機嫌のよい言葉に、婁氏は笑顔を作った。王琳の援軍以来、母親とほとんど顔を合わせることがなかった高洋は、母親に機嫌を取るような笑顔を見せると目を逸らした。


 高歓、高澄など美丈夫が多い高一族の中で、今上帝高洋は、背も低く風采の上がらない男であった。茫洋とした容貌の高洋は、兄弟の中ではむしろ醜いといってよく、幼少の頃より他の兄弟に軽蔑されることが多かった。そのためか、劣等感が強く、残忍な一面を持っていた。


 胡姫の舞踊の三曲目の踊りが終わった頃であろうか、高洋の身体はすでに酒毒に染められていた。素面の時は許せたことも、酒気をおびると癇に障る。

「母上、正月の宴でその見窄らしい衣は何なのだ。斉の皇帝に恥をかかせるつもりか」

 高洋は酒杯を干すと、すでに目が据わっている。

「洋よ、母がなぜ質素な衣を纏っているのか考えてみよ」

 婁氏は、階の下に居並ぶ妃嬪たちの綺羅を競った衣装を見渡した。

「贅沢な衣装は、民の汗と涙でできていることを考えれば、平静でいられまい。節約こそ君主の務めなのだ」

 婁氏は、厳しい眼差しで息子を諭した。たまにしか顔を合わせられないからこそ、諭した親心だったのだ。節約という言葉を聞いた途端、高洋の顔色が変わった。

「質素倹約だと?ふん、・・・母上の考えは時代遅れだ。・・・節約、節約・・ふふふ、ええっ、うるさい」

母の婁氏は、李氏を皇后に冊封したことを恨み、何事にも難癖を付けてくる。皇妃がきら星のごとく居並ぶ新年の宴で、みすぼらしい姿を見せるなんて何という嫌みだ。

 高洋は、唇を歪め舌打ちをすると、侍女に酒杯を差し出した。多くの妃嬪を蓄え、贅を尽くすことが、権威を高め、この国を支配することだと、母上はなぜ分からないのだ。

「陛下、そのようにご酒を過ごされては」

 李皇后が、心配顔で酒を制すると、高洋は自ら酒瓶を取り、杯を満たした。

 強い酒が入ると、高洋の理性はすっかり霧散し、劣等感に突き動かされた征服欲だけが皇帝としての強さの表現であった。


皇帝に刃向かうものは、母親でも許せない。

「ふ、ふ、ふ、不埒な、婆め」

 高洋の怒鳴り声が響き渡り、堂内の空気が一気に凍りついた。

「お前など、どこぞに、嫁にやってしまうわ。・・・ふふ・・・はっはっ」

 高洋は、やおら立上がると、憎しみを込めた目で、母親を睨みつけた。

「朕に逆らうとは、許せん」

 酔いに任せた激情が高洋を突き動かし、几の端に置いてあった馬鞭を手にした。

「お前などは、・・・こうしてやる」

 酔いに目が据わった高洋がやおら右腕を振り上げた。馬鞭がひるがえる。反射的に、婁氏は身体を伏せた。

『皇太后が、あぶない』

 思ったとき、青蘭は数歩踏み出し思わず婁氏の身体の上に身を投げ出した。青蘭の左肩にそして背中に腰に、高洋の馬鞭が振り下ろされ、強烈な痛みがが走った。

息子が母親を、鞭打つなんて・・。こんなことが許されるのか?遠ざかる意識の中で、青蘭は皇帝と斉の朝廷を憎んだ。

正月の宴で、陛下の鞭から皇太后を守るために、身を投げ出した青蘭は背中に深い傷を受けてしまった。そのため、帰還が遅れることになってしまった。

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