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敬徳の来訪

皇太后との約束を胸に、青蘭は新年を心待ちにして職務に励むのだった。

★ 敬徳の来訪 ★


 追儺が間近な十二月の下旬、高敬徳は、宣訓宮を訪ねた。敬徳は、この冬嗣部尚書を退任し、青州刺史に任命され、赴任を間近にしていた。

 青州は、北魏の勢力が残り、北辺の国境近くについて、軍事的に重要な地域であった。要衝に刺史として赴任するのは、今上帝が敬徳の軍事的能力と行政の能力を買っていると言うことであった。青州に赴けば、数年は鄴都に帰還できないのが普通である。そこで、皇太后へ挨拶と、親友の長恭に会うために宣訓宮を訪れたのである。


 南門で訪うと顔見知りの門衛が出て来た。

「知った所ゆえ、案内はよい」

 敬徳は、長恭の親友であるため度々訪れている。案内を請わずに、正殿の東に連なる清輝閣に向った。絹張りの窓からは、ほんのりと灯りが灯っている。

 回廊に掲げられた燈籠が明るく灯り、邸内は夕闇に包まれている。基壇の上に立ち、扉を叩いた。

「長恭、長恭いるか?俺だ」

しばらく間があって、長恭が扉を開けた。

「おう、敬徳・・・どうしたのだ」

 長恭は驚いたような笑顔を覗かせた。

「今月の末に、青州に出発することになった。皇太后様に挨拶をしてから、お前と酒を飲みたいと思ってな・・・」

敬徳は、左手に下げた酒瓶を挙げて見せた。

「それは、嬉しい。酒の肴を用意させよう。敬徳、先に、御祖母様に挨拶をしてくるだろう?」

長恭は敬徳を室内に案内すると、吉良に耳打ちした。

「青蘭に紫雲閣に、戻るように伝えるのだ。敬徳と顔を合わさせるな」

吉良は、うなずくと清輝閣を出て行った。

「ほう、これが文叔の手蹟か・・・」

 敬徳は、壁に掛けられた青蘭の手蹟を見つけると、指さした。

「そう言えば、文叔は見付かったのか」

青蘭の居場所が分からなかったとき、敬徳の屋敷にも訪ねていったことがあったのだ。

「ああ、鄭家の商賈のために河南に行っているそうだ」

青蘭がこの宣訓宮に居るなんて明かせない。皇太后の傍で、青蘭と敬徳が出くわすことだけは避けたいのだ。

「そうか、それなら安心だ」


 息を切らして、吉良が戻ってきた。

「若君、肴のこと知らせてきました。間もなく来ると思います」

 青蘭には、祖母の側を離れて居るように伝わったのだな。

「そう言えば、皇太后様は就寝が早い。そろそろ行った方がいい。酒肴を揃えて待っている」

長恭は敬徳を行かせると、青蘭の痕跡が残っていないかと室内を見回した。壁に掛けてある青蘭の掛け物を動かしては、反って不自然だ。臥内の灯火を居房に動かした。

 敬徳も文叔の正体をいずれ知るかも知れない。しかし、その時は婚姻が決まっていないと、敬徳に奪われてしまう。敬徳は戦で同じ失敗を二度する男ではない。


長恭が正房の榻に座って、思案に暮れていると、扉を押して青蘭が現れた。捧げ持った盆には、酒器と肴が載せられている。

「長恭様、御膳房から酒肴を持って行けと言われて・・・」

「何で、お前がここに?」

「お客が来るから、これを運ぶようにと・・・」

吉良からの伝言は、伝わっていなかったのか?

「青蘭、お前は祐筆だ。侍女のように料理は運ぶことはない」

 長恭は少し離れて所にいた吉良を睨んだ。吉良は、何を伝えたのか。長恭は青蘭の腕を掴むと、臥内まで引っ張って行った。

「敬徳が来ている。御祖母様のところで顔を合わせないように、紫雲閣に隠れて居るように伝えたはずだ」

 珍しく長恭が眉を逆立てて怒っている。

「紫雲閣で用事があるから行くように言われたのよ。敬徳が来るとは知らなくて・・・むしろ、女子だと知らせた方が誤解が無くて・・」

「だめだ。そんなことをすれば、敬徳の怒りを買う」

すでに敬徳との関係を長恭が知っている今、敬徳に知られても問題は無いはずなのだが。

「私は気にしないが、敬徳は嗣部尚書だ。皇族の儀式を司る尚書は、厳罰に処すはず」

皇族を欺けば死罪という母の言葉が、頭をよぎった。

「そ、そうね。時期を考えなければ」

とにかく、敬徳が帰るまで紫雲閣に籠もってもらわなければ・・・。


そのとき、正面の扉が叩かれて、敬徳の声がした。

「隠れるんだ」

臥内を見回すが、榻牀や榻、物入れ、櫃・小卓などがあるだけの、素朴な設えなので隠れるところがない。

「仕様がない。榻牀に入って隠れていろ」

 青蘭が慌てて榻牀に入り衾を被ると、長恭は目隠しの薄絹の帳を下ろした。

「おい、長恭、挨拶を済ませてきたぞ」

 長恭が扉を開けると、待ちかねたとばかりに房内に入って来た。

「酒をもう少し持ってきます」

 叱られたくない吉良は、慌てて出て行った。


長恭は反射的に臥内の榻牀を確認すると、敬徳に椅を勧めた。

「青州刺史に赴任するとは、昇進だな」

 長恭は、酒杯に酒を満たすと敬徳の方に滑らせた。

「敬徳の昇進と青州の民の幸福を祝って」

 二人は酒杯を差し上げると、一気に飲んだ。

「青州に行けば、数年は戻れない。せめて、文叔に挨拶をして行きたかったが、鄴にいないとは残念だ」

「青州から戻った頃には、文叔もどっているだろう」

祖母からは、青蘭について聞いていないようだ。確かに、浣衣局に送ったことなど、敬徳に明かせない。

「文叔と言えば、姉がいるそうだが、お前は会ったことはあるか?」

文叔の姉とは、青蘭自身のことだ。

「いやあ、見たことはあるが・・・」

「姉なら、文叔に似ているのだろうな・・・美人か?」

敬徳は、長恭の顔を覗き込んだ。

「いやあ、・・・美人だ」

青蘭が、耳をそばだてているに違いない。迂闊なことは言えない。

「そうか、美人か・・・」

敬徳は、酒杯を両手で持つと卓の上の灯火を見つめた。

「来年には父上の喪が明ける。王琳将軍と斉との同盟も成立しそうだ。だから、青州から戻ったら、文叔の姉との婚儀を申し入れたいと思っているのだ」

 敬徳は、長恭に顔を寄せると耳元で囁いた。

「文叔の姉と会ったことはあるのか?」

「いやあ、会ったことはない。・・・かつて縁があったが、途切れてしまったのだ」

 江陵での破談のことだ。敬徳は目を細めると、思いを飲み込むように一気に酒を干した。

「まあ、お前の気持ちはそうでも、文叔の姉上の気持ちがどうかということだな」

「お前は師兄だが、俺が姉と結婚すれば、兄弟になれる」

敬徳は、乾し肉を口に入れた。

「俺が義兄として後ろ盾になれば、朝廷に入っても活躍できる。世のために尽くしたいという文叔の夢を実現してやれる」

高岳の残した財産は莫大だ。そして、清河王家の威勢は、父高岳亡き今でも官吏の中に残っている。そして何より、敬徳の武勇と治政の実力は、皇族の中でも抜きん出ている。敬徳が動き出す前に、何としても青蘭との婚儀を決めなければ、・・・そうしなければ青蘭は親の意向により、敬徳に嫁がされてしまう。

「はは、文叔の願いは民のために働くことだからな」

長恭は、笑顔を作ると敬徳の肩を叩いた。

「まあ、俺のことはいい。先日の施粥会は大盛況だったそうじゃないか」

「ああ、あんなに多くの流民がいるとは、心が痛い」

「そうじゃない。権門の令嬢たちが、手伝いに来ていたと言うことさ」

「そうだったか?気付かなかった」

青蘭の耳には入れたくない話題だ。

「お前が来ると知って、お前目当ての令嬢が大集合さ、皇太后の差し金だな。楊辟彊の娘なんてお前にぞっこんで・・・」

「何が目当てだ。・・・私には関係ない」

祖母は、青蘭を無視して長恭の嫁選びを進めるつもりなのだ。祖母の思惑は、青蘭を傷つけてしまう。誇り高い青蘭にとって、そんな状況に耐えられるはずもない。

「自分の結婚は、自分で決める。御祖母様の言いなりにはならない」

長恭は酒杯を満たすと、口に運んだ。


「お前と、文叔のよからぬ噂を耳にしたぞ」

「よからぬ噂?」

まさか、青蘭が女子だと、すでに漏れているのか。

「そうだ、お前と文叔が、その、男と男の道ならぬ関係なので、皇太后の怒りを買っていると」

青蘭との親密な関係は、すでに口間に上っていたのか。楽安公主が盛んに広めているに違いない。でも、敬徳は感づいてはいないらしい。

「文叔とは、師兄弟の契りを交わした。でも、そんな疚しい関係ではない」

青蘭は、婚儀の話を進めてはならないという。しかし、早く進めなければ・・・。敬徳の気持ちを知りながら、婚儀に向かって突き進もうとする自分は、卑怯者だろうか。長恭は唇を噛んだ。

「そうだ、青州からもどったら、三人で酒を飲もう」

敬徳は、笑顔を作ると酒杯を打ち合わせた。


 二日後、青州刺史の高敬徳は、護衛の騎兵を従え青州に出立した。


★  皇太后の思い  ★  



 宵闇が迫り、雪が止んだ。長恭が侍中府から戻り宣訓宮南の安仁門を入ると、前庭はすっかり雪に埋まっていた。回廊に掲げられた燈籠が、仄かに雪景色を照らしている。


 長恭が清輝閣に入り平服に着替えると、宦官が来て祖母からの呼び出しだ。

 正殿の居房に入ると、皇太后が榻に座って待っていた。その左には、秀児が控えている。

「皇太后様、お呼びでしょうか」

 長恭は、丁寧に拱手した。

「最近はゆっくりと話すこともなかった。今夜は、夕餉を共にしたい」

 長恭は、笑顔を作ると食盤についた。食盤には、鶏肉の粥、魚の旨煮、棗の羹など滋養の付く料理が温かい湯気を揚げて並べられている。侍女の秀児により、料理が取り分けられた。

「侍中府での仕事は、どうだ」

「はい、政の仕組みが徐々に分かってきました」

 官吏の腐敗などの話題は、皇太后の機嫌を損なう。長恭は笑顔で曖昧に答えた。

「南朝では、王琳将軍が長江南岸で勢力を伸ばしているとか。御祖母様が仰った通り、永嘉王の帰還は、斉に有利に働きます」

長恭は、永嘉王の帰還に向けて何度も南院に出向いていた。

「そなたの尽力により、永嘉王もすっかり逞しくなったのう」

「永嘉王が南朝に行けば、王琳将軍は斉に心を寄せて来ると思われます」

 皇太后は、王琳将軍の政治的な強みにやっと気付いてくれた。そうだ、青蘭は触れるなと言っていたが、婚姻の許しを得るなら今の機会だ。


長恭は立ち上がると、祖母を見つめた。

「御祖母様、・・・お願いがあります。王青蘭との婚姻を許していただきたいのです」

婁氏は、気色ばんで長恭を睨んだ。

「王祐筆の差し金か?」

 婁氏は、拳を握ると不機嫌に顔を背けた。

「御祖母様、青蘭は関係ありません。私の一存です」

祖母に、青蘭との結婚の利点を分かってもらわねばならない。

「王将軍は、梁の遺臣の中でも特に輿望が高いと有名です。王将軍を、一歩進めて臣下にするために、・・・王青蘭を娶りたいのです」

「ほう、そなたは斉の政略のために王青蘭と婚姻すると申すのか?」

 婁氏は、眉を寄せると長恭を見遣った。

「もちろん、それだけではありませんが、私と青蘭の婚姻は、斉の為でもあるのです」

婁氏は側仕えの侍女たちを下がらせた。


婁氏は蜂蜜酒を手に取ると、一口飲んだ。

「王青蘭が、男子だと偽ってそなたに近付いたことも、敬徳と縁談があったことも許して、祐筆として取り立てた。それも、学問に専心すると言っていたから。ところがどうだ。そなたは、婚儀を挙げたいという。そなたは、私を謀ったのか?」

それは、皇太后としての冷徹な言葉だった。

「そ、そのようなつもりは、・・・ただ、心の通じ合う女子を生涯の伴侶として娶りたいと思っているだけです」

長恭は、祖母の前に跪いた。

「長恭、立つのだ。祖母の前で、跪いてはならぬ」

「御祖母様、お願いです」

 長恭は清澄な瞳で祖母を見上げた。子恵(高澄の字)に似ている。

「皇族の婚姻は、全て政治的なものだ。後ろ盾を持たないそなたには、妻の親族の力がなければ、朝廷で苦労をする。ゆえに、権門の娘を娶るのだ」

 婁氏は、立ち上がると長恭の肩に手を掛けた。

「私には御祖母様という強力な後ろ盾がいます。それに、青蘭は、決してただの娘ではありません。王将軍の娘であれば、陳との外交できっと有力な一助となります」

青蘭を外交の駒として使う気は無い。しかし、必ず斉のために力となってくれるに違いない。

「粛や、私は年を取った。いつまでもそなたを守ることはできぬ。後ろ盾を持たぬそなたの身が心配なのだ」

「私も来年は十八歳。戦の武勇は誰にも負けませぬ。それに、・・・御祖母様以外との肉親の縁が薄い私には、心を許せる伴侶が必要なのです」

婁氏は長恭の手を取ると、立ち上がらせた。

「粛よ、・・・そなたは若い。若いと一途に思い詰めるものだ」

婁氏は、長恭に夕餉をとるように言うと、奥の臥内に引き上げた。


臥内に入ると、秀児が陳皮茶を持ってきた。

「今夜は、ことのほか冷えるようです。温かい茶を用意しました」

婁氏は、火藘に手をかざした。

「若君は、王祐筆を娶りたいと?」

「王青蘭が、粛の妻に相応しいと思うか?絶世の美女でもない。化粧もせず、刺繍は不得意、女子としても色気もなく、得意なものは学問だとか・・・」

掌中の珠のごとく育ててきた長恭の妻が、あのような、女子として何の取り柄もない女でいいはずがない。

 望みを掛けた長子の高澄に一番よく似た長恭には、荀翠容以上の美女を娶せたい。

あの当時は、元一族との融和を図らなければならなかったのだ。正室であった馮翊公主をはばかって、無情にも屋敷を追い出してしまった長恭親子には、何をしてやることもできなかった。

自分がいつまでも後ろ盾となって長恭を守ることができるわけではない。せめて、長恭には力のある一族の娘を嫁として迎えたいと思うのが祖母としての愛情であった。

「秀児よ、青蘭が密かに長恭と会っているなどということはあるまいな」

「王祐筆は、御前を下がった後は始終紫雲閣にいるとのことです。何でしたら小玉を監視としてまた傍に置きましょうか?」

長恭は真っ直ぐな性格で、祖母に隠れて女子と密会するとは思えない。

「いや、必要あるまい」

王青蘭は、斉と梁をつなぐ絆としては、重要かも知れぬ。しかし、孫の嫁としては納得できぬところが多々ある。とにかく、二人を近づけて深い関係にしてはならない。

婁氏はぬるくなった陳皮茶を手に取った。



出発の挨拶に訪れた敬徳から、文叔との結婚の希望を聞いた長恭は、皇太后に青蘭との婚姻を直訴して祖母を怒らせてしまった。

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