03:婚約の条件
車輪を嵌め直した馬車は軽やかな動きで走り抜ける。
まるで流れるように窓の外の景色が変わっていくが、今のクレアにはそれを眺めている余裕は無く、問われたことに首を傾げていた。
「どうしてコーチを持ち上げたのか、……と問われましても、コーチを持ち上げないと車輪を嵌められないとユーリ様も仰っていたではありませんか」
馬車に乗り込んで出発してから今の今まで、ユーリはもちろん、同乗するフリーデルまでもがコーチを持ち上げたことについて言及してくるのだ。
これにはクレアもどう返して良いのか分からず、助けを求めるようにヴィンスへと視線をやった。だが彼もまた答えられずにあぐねており、クレアの視線に気付いても元より険しい表情を更に渋くさせるだけだ。
ならばとクレアはユーリへと向き直った。分からないならば聞くしかない。
「ユーリ様、馬車を持ち上げる事をどうしてそれほど疑問に思うのですか? 子供でも出来る事ではありませんか」
「いや、誰だって……。こ、子供でも!?」
「えぇ、あの程度なら子供でも持てますよ」
ねぇ、とクレアがヴィンスに同意を求めれば、彼もまた当然だと言いたげに頷いた。
コーチを持ち上げねば車輪は嵌められず馬車が出発できない。だから持ち上げた。
考えるまでもない簡単な話だ。子供だってそうするだろう。
それをいったいどうしてここまで大事のように話すのか。
そう問おうとし、クレアははっと息を呑んだ。
ユーリは王族。フリーデルも所作や身なりを見るに相応の出自のはずだ。そして他の馬車に乗っている者や並走する騎士だって、王子と同行しているのだから王宮勤めや身分ある者達に違いない。
となれば……、
「フォーレスタ国では高位の方は馬車を持ち上げたりなんてしないんですね。もしかして、馬車を持ち上げる専門の職があるんですか?」
「馬車……? 持ち上げ?」
「王宮専属の馬車持ち上げ人が居て、その到着を待っていたのですね。だとしたら、私、恥ずかしいことをしてしまいました」
お恥ずかしい、とクレアが俯いて詫びれば、話を聞いていたヴィンスが納得したと言いたげに頷いた。
ユーリとフリーデルが真っ青な顔をしているが何も言ってこないあたり、きっと当たっているのだろう。
「……もしかして、フォーレスタ国では馬車を持ち上げるのは、身分ある者にあるまじき低俗な行為なのでしょうか」
クレアの胸に不安がよぎる。
次いで窺うようにユーリを見つめた。
「あの、この事はどうか他の方にはご内密に……。リズベール国では馬車持ち上げ人という者はいなかったんです」
「フォーレスタ国にも居ないんだが」
「居ないのですか? それならきっと御者の仕事なのですね。もしかして馬車持ち上げ手当がつくのでしょうか」
そうだとしたら御者の臨時収入を奪ってしまった事になる。
申し訳ない……と窓から御者の後ろ姿を見つめれば、ユーリが「気にしないでくれ」とフォローを入れてきた。
「御者には俺の方から話を通しておく。だから、その、気にしないでくれ……。あと、今後出来れば馬車は持ち上げないように……」
「かしこまりました。有事の際には、御者に伝えて馬車を持ち上げさせるのですね。ところでユーリ様、お声が少し震えているようですが……」
どうなさいました? とクレアが尋ねる。
その瞬間ユーリが小さく肩を震わせ、次いで咳払いをしだした。
「そ、そうか……? 気にしないでくれ。それで、そうだ、この婚約のことなんだが、結婚を一年待つというのはリズベール国の決まりか?」
「はい。嫁ぐ身でありながら母国のしきたりを貫くこと、どうかお許しください」
理解を求めるためにクレアは深々と頭を下げた。
リズベール国において、結婚は十八歳からと決められている。それも式の時期も決められており、冬の雪が全て溶け落ち太陽が暖かく大地を照らす、そんな春の訪れに式を挙げるのだ。
これはリズベール国に古くから言い伝えられており、王族はもちろん国民も重んじている。
クレアはまだ十七歳。フォーレスタ国では既に結婚が出来る年齢らしいが、リズベール国においては待たなければならない年齢だ。そのうえ今は春の半ば、年齢も、時期も、しきたりに反してしまう。
ゆえに婚約の話を受ける際に一年の婚約期間をと願い出たのだ。つまり『来年の春の始めまで待ってくれ』と言う事である。
もちろん先延ばしにこそすれども結婚の意思はある。
クレアが結婚を一年先に控えた身でありながら既にフォーレスタ国へ移住を決めたのも、その意思を示すためである。
そうクレアが説明すれば、ユーリがなるほどと言いたげな表情を浮かべた。
「リズベール国には女神への信仰があると聞いているが、それに関係しているのか?」
「はい。リズベール国は女神が護る土地。婚姻のしきたりを守る事で女神への敬意を示しているんです」
「なるほどなぁ。法とはまた違っているが、そこまで言うのなら守らないとな」
ユーリの返事には、別段この話を怪訝に思う様子も、ましてや待たされることに憤慨している様子もない。
クレアは上目遣いで彼の様子を窺いながら小さく安堵した。
「ユーリ様の温情、心より感謝申し上げます」
「一年くらいなら構わないさ。だが、その一年間はあまり自由に過ごせないことは覚悟してほしい」
「自由に?」
「婚約者の身とはいえ異国の王女、それも今まで関与の無かった国。あまり自由に歩き回られても困る」
そう告げるユーリの声は婚約者に対するものとは思えないほど淡々としている。決定事項をただ伝えているだけだ。
だがクレアとてそれは覚悟していたこと。元より格差のある婚約、更にはこちらの事情で一年を待たせているのだから、多少の不便は甘んじて受け入れねばならない。
今更ショックを受けることも嘆くこともせず、恭しく一度頭を下げて了承の姿勢を示した。
馬車内にシンと静まった重苦しい空気が漂う。
それを壊したのは、ユーリの小さな謝罪の声だった
「……すまない」
と、呟かれるように告げられた声には先程までの淡々とした色合いは無く、心から申し訳なく思っているのが分かる。
まるで漏れ出たような彼の声に、クレアは彼を見つめて名を呼んだ。
「ユーリ様?」
「フォーレスタ国は信仰心が薄く、きっとリズベール国のしきたりの話をしても軽んじる者が多いだろう。挙句に不便を強いる。これはリズベール国と、国を護ると信じられている女神に対する侮辱だ」
だからと詫びてくるユーリに、クレアは驚き彼を見つめた。
自国に対して信仰心が薄いと話しつつも、彼はリズベール国の女神の話を信じ、そして信じたうえで蔑ろにする自国を詫びているのだ。
淡々と話していたのが嘘のようではないか。……いや、きっとクレアに不便を強いることが辛く、だからこそ胸の内を押し隠して告げようとしていたのだろう。だがそれも耐え切れず謝罪の言葉を口にしたに違いない。
「ユーリ様のせいではありません、どうか気になさらないでください」
「……そうか。何かあれば出来る限りのことはするから言ってくれ」
クレアの許しを得て、ユーリの表情が僅かに和らぐ。
そんな彼を見つめ、クレアは胸の内に湧きかけた不安が緩やかに消えていくのを感じた。
そうして再び馬車内に沈黙が流れる。だが先程とは違う、重苦しさのない緩やかな静けさだ。
それを破ったのはまたしてもユーリだった。今度は少し上擦った声で「ところで」と話し出す。
「結婚を待つのは女神への信仰というのは分かったが、『十八歳』というのは何かしらの理由があるのか?」
「理由、ですか?」
「あぁ、たとえば……。十八歳になると馬車が持ち上げられなくなるとか、体力的なものが控えめになって長時間歩けなくなるとか……」
そういうものは、と、ユーリが探るように尋ねてくる。それどころか彼の隣に座るフリーデルまでもが真剣な面持ちでこちらを見てくるではないか。
そんな彼等の視線を一身に受け、クレアはヴィンスと一度顔を見合わせ、次いで改めてユーリに向き直った。
「特にそういった事はありません」
「無いのか……、そうか……」
「もしかして、私の体の事を心配されているのでしょうか」
ふと気付いてクレアが問う。
所詮は愛の無い婚約。大事なのは両国の関係と子孫繁栄。
ユーリは第七王子ゆえ次期国王というわけではないが、それでも彼の子孫は望まれているのだろう。とりわけこの結婚が政略的な意味合いしかないのだから、嫁入りしてくる女性の体の調子を気にするのは当然だ。
まるで物の扱いかのようだが所詮は政略結婚なのだ。結婚出来る年齢になるや虚弱になられてはフォーレスタ国も困るだろう。話が違うと考えるかもしれない。
「だとしたらご安心ください。十八歳というのは神話になぞらえ決められたもので、体力や健康状態には関係ありません。馬車の持ち上げ程度なら祖父母でも出来ますもの」
さすがに子孫どうのを口にするのは憚られるが、それでも健康であることは断言する。
それを聞いたユーリが僅かに言葉を詰まらせ、「そうか……」と小さく呟いた。




