01:クレア王女の婚約
弱小国の王女クレア・リズベールに婚約の申し出がきたのは今から二ヵ月ほど前の事。
相手は大陸一を誇るフォーレスタ国の第七王子ユーリ・フォーレスタ。
その婚約は突然であり、そして理由もさして語られなかった。申し出に記載されているのは婚約にあたっての取り決めが殆どで、クレアについては嫁にと求めているのに当り障りのない定型文めいた褒め言葉しか綴られていなかった。
母譲りの金の長い髪も、父譲りの藍色の瞳も、国民から愛される温和な性格も、何一つ褒めもせず触れもしないのだ。
だが無理もない。
なにせクレアとユーリは一度として会ったことがないのだから、褒めるどころかきっと彼はクレアのことを碌に知らないのだろう。
だけど王族の婚約なんてそんなもの。
互いの国の為だけに、愛も何も無いとはっきりと分かっていても頷かざるを得ない。そういうものなのだ。
とりわけ、両国の間に明確な格差があれば猶の事。
◆◆◆
「随分と歩いたわね」
クレアは呟くと同時に背後を振り返った。
鬱蒼とした森が続いている。木々は生い茂り、草木が乱雑に生え、獣道すら見当たらない。
木々の隙間を目を凝らして眺めてみるも、故郷の建物どころか面影すらも見つけられない。どこもかしこも草木しかなく、遠くまできたのだと改めて実感する。
「川を越えるとリズベール国の景色は見えなくなります」
隣を歩く青年がポツリと呟いたのを聞き、クレアは改めて背後の景色に目を凝らした。
川を越えたのはどれ程前だったろうか。今ではもうその川すらも見えず、水が流れる音も聞こえてこない。
「だから昔から川を越えてはいけないと言われていたのね。私、川を越えたのは初めてだわ。ヴィンスはここまで来た事はあるの?」
「俺は訓練で何度か」
クレアの問いに、隣を歩くヴィンスが答える。
だが答えるやすぐに口を噤んでしまった。どうやら雑談しながら歩く気はないようだ。
不愛想、とクレアは心の中で彼に対しての不満を訴え、それでも足を止めずに森の中を歩き続けた。
そうしてしばらく森の中を歩き、暇を持て余したクレアは森の先に居る人物について想像を巡らせることにした。
この道の先――道と呼べるか定かではないが、ひとが歩いていれば道と呼んでもいいだろう――、そこに広がる国境の草原。
検問もなく線引きもされていないが、森から先はフォーレスタ国の領土となっており、婚約相手であるユーリ・フォーレスタがいる。
大国の第七王子。会った事のない相手だ。
知っている事と言えばクレアよりも五歳年上ということぐらい。
彼はどのような人物なのだろうか。
性格は? 容姿は? 喋り方は? 好きな事、苦手な事、好きな食べ物、普段は何をして過ごしているのか……。
知りたい事はたくさんある。というよりも何も知らないのだ。知らないのに嫁ぐ。
「でも政略とはいえ結婚だもの。侵略されるよりマシよね」
ねぇ、とクレアはヴィンスに話しかけてみた。
だが相変わらず彼は渋い表情をしたままで、さすがに無視はせず頷いて返しはするが唸り声をあげかねないほどだ。
短く切られた黒い髪、体躯も優れており、元より厳つめの顔付きを今は更に険しくさせている。初対面の女性や子供なら臆してしまいかねないほどの威圧感である。
これは先程見かけた獣よりも獰猛に映るかもしれない。護衛としては適任だが外交となると問題有り、否、問題しかない。
「ヴィンス、森を抜けた先にはフォーレスタ国の迎えの方がいらっしゃるのよ。とびっきりの笑顔で友好的な態度を示して……、無理ね。ヴィンスが笑顔で友好的にしてるところなんて、私ですら見た事ないもの」
ヴィンスの母親はクレアの乳母であり、彼とは幼少時どころか生まれた時から家族同然に過ごしてきた。そして彼が騎士として勤めるようになってからは専属の近衛兵として常に傍らに居た。
だがその間に彼がとびっきりの笑顔を浮かべたことは皆無である。記憶を引っ繰り返しても、せいぜい幼い頃に一度か二度か……。物心つく頃には険しい顔が張り付いていた。
かといって無礼なわけでも横暴なわけでもない。どうにも感情が顔に出にくい性分なのだ。そして険しいこの顔が標準である。
高い背と鍛えられた身体つき、この険しい顔付き、更には口数も少ないとあり、なにもかもが彼の元より少なめな愛想をほぼゼロどころかマイナスにさせていた。
「とびっきりの笑顔が無理でも、せめて失礼の無いようにしてね」
「……善処します」
この会話を最後に、またも沈黙が二人を包む。
勝手知ったる仲ゆえ沈黙は苦ではないが、それでもクレアは心の中で「お喋りの相手が出来る人を同行させれば良かった」とぼやいた。
クレアが何か話しかけては簡素な相槌だけを返され、そして痺れを切らして「しりとりをしましょう」と提案して無感情に単語を言い合う盛り上がり皆無なしりとりを続けてしばらく。
延々と続いていた深い森の景色が終わり、開けた土地に出た。
先程までの鬱蒼とした森が嘘のように広い草原が続く。眩い太陽が遮るものなく降り注ぎ、風が草花を擽る様に揺らす。あまりの眩しい光景にクレアは目を細め、それでも草原の先を見た。
整地された道があり、そこに二台の馬車が停まっている。
フォーレスタ国からの迎えだ。騎士の姿もある。
豪華で作りの良い馬車には家紋が彫り込まれており、覚えのある家紋にクレアは「あら」と小さく声をあげた。
あれは確かフォーレスタ国の王家の家紋だ。
「もしかしてユーリ様が迎えに来てくださったのかしら」
「そうですね、クレア様が逃げるかもと疑って自ら来たのかもしれません」
「ヴィンスってば……。ユーリ様の前ではその物騒な考えは控えてちょうだい。フォーレスタ国が本気を出せば……いえ、本気を出さずとも、いとも簡単にリズベール国を侵略できるのよ」
母国リズベール国は広い森に囲まれており、更に高い崖を背後に構える不便にも程がある立地にある。更に内向的な国民性ゆえ外交は殆ど行っておらず、今日までひっそりこっそりと自給自足で営んできた。
小国の中の極小国。規模でいえば国どころか都市以下と言えるかもしれない。知らぬ者がいてもおかしくないほど。
まったく誇れる事ではないが間違いなく大陸一の小ささである。
対してフォーレスタ国はその真逆、大陸一の領土と繁栄を誇る国だ。その影響力は大陸内に留まらず、他の大陸にも名を馳せていると聞く。
両国の力関係など考えるまでもない。仮に敵対しようものならひとたまりもないだろう。
争いになればリズベール国は一日として耐えられず、ぱくっと丸飲みされて終わりだ。
近隣諸国もどこも手を差し伸べることなく静観するだけだろうし、歴史書の一行にそっと「こんな弱小国があって大国に飲み込まれて終わりました」と書かれるだけだ。……書かれもしないかもしれない。
「申し訳ありません、クレア様。我々騎士隊にもっと力があれば、この婚約に抗うことができたのに……」
「いいのよ。国のために嫁ぐことが王女としての務め。立派に果たしてみせるわ」
ヴィンスを宥め、決意を新たに再び歩き出す。
馬車の近くに立っていた一人がこちらに気づき、なにやら慌てた様子で家紋の彫り込まれた馬車へと走っていくのが見えた。