第5話 新米指導員、始動する
――ですから、私はあなたのために、できることを精一杯やろうと決めたのです。
第5話 新米指導員、始動する
「ただいま」
扉を開けると、家の中の電気が点いていた。どうやらもう同居人は帰っているらしい。
案の定、雪花が靴を脱いでいると、洗面所から妹の花菜がひょっこりと顔を出した。お風呂上がりなのかタオルを首にかけており、頬はほこほこと上気している。
「お姉ちゃんおかえりー。今日飲み会じゃなかったっけ? 思ったより早いね」
「実習生の歓迎会だから、そんなに遅くならないよ」
「あー、実習生。そういえば来るって言ってたね。どんな人だった?」
何気なく投げかけられた花菜の言葉に、雪花は一瞬逡巡し――そして、口を開いた。
「……すごくいいひと、だった。仕事もできるし」
「え」
その言葉を聞いて、花菜が言葉を失う。そんな彼女の様子に、雪花は内心動揺した。
――え、私、何か変なこと言った?
まさか実習生が火星人などとは言えないので、必要最低限のことだけ言ったつもりだった。しかし、目の前の花菜は驚いたようなリアクションをしている。雪花は続けて何か言うべきか迷い――そして、口を開こうとした瞬間、花菜が先に言葉を発した。
「実習生って聞いたから新人とかなのかと思ったけど、仕事できるんだ。よかったね。お姉ちゃんの職場忙しそうだし」
「……ま、まぁね」
「私も今新人ちゃんを教えてるんだけど、やっぱり育つまでに時間かかるもん。いい子だから全然いいんだけどさー」
そう言いながら、花菜は洗面所に戻っていく。ドライヤーの音が鳴り始めて、雪花はほっと胸を撫で下ろした。取り敢えず無事に初日が終わり、今週は残すところあと2日。火星人の生態はまだまだ謎が多いが、初日を何とか乗り切ったことで、雪花の中には小さな達成感が芽生えていた。
しかし、油断は禁物だ。マークが火星人だということは、決して他部署の人間にバレてはならない。
歓迎会の際に浦河も交えて幾つかルールを決めた。少なくとも、明日からも昼食は暫く三人で揃って社員食堂で取ることにしている。元々自席で弁当派だった雪花からすると、社員食堂まで毎回行くのは少し面倒だが、マークが慣れるまでは仕方がない。コンビニ弁当を買って来させる方法もあるが、栄養バランス等を踏まえると社員食堂で食べてもらった方が良いだろう。
――まぁ、マークさん喜んでたし、いいか。
そんなことを考えながら洗面所の隣を通り過ぎた時――ドライヤーの音が止まり、「お姉ちゃん」と背後から声がした。
振り返ると、まだ髪が濡れたままの花菜がこちらを見ている。
「そんなにその実習生、いいひとなの?」
「……うん、普通に。どうして?」
「ふーん……ならいいけど」
そして、花菜がにっこりと笑った。
「――何かお姉ちゃん、嬉しそうだから、気になっちゃって」
***
翌日も、マークは問題なく仕事をこなしていく。元々雪花がお願いしていた仕事は、午前中の内に終わってしまった。
三人で昼食を食べながら、雪花はマークに頼む仕事について考える。隣では浦河が月見そばをつつきながら黄身を割るタイミングの重要性をマークに対して力説し、マークは自身のオーダーしたオムライスを前にその話を真面目に聞いていた。
総務課の仕事は幅広い。そう言うと聞こえがいいが――要するに『何でも屋』だ。
例えば社内の会議室・応接室の予約管理、壁に貼る掲示物の承認、社内便の配布、時として社外便の発送・受け取り(基本は各部署で行うが、大物はこちらに回ってくる)、社印・社長印等の印章管理および押印対応、事務消耗品の手配、会社行事の運営や、社内設置の自動販売機の管理、拾得物・遺失物の管理、コピー機が壊れたとか会議室のプロジェクターが映らないとかいう時の対応や、果ては社長が出張に行く際のタクシー手配に至るまで――その他よろず相談事が日々舞い込んでくる。
幹部などのいわゆる『偉い人対応』は浦河が適当に捌いてくれるが、諸々の雑事はほぼ雪花の仕事だ。一つ一つの仕事は大きくなくとも、それが積もればなかなかの物量になる。
なお、雪花が元々マークに頼んでいたのは、社内表彰用の表彰状データを作る仕事だった。
或る日社長が掲げた『褒める文化の醸成』とやらを目的に、社内では頻繁に表彰が行われるようになった。内容にもよるが、基本的には1回の受賞につき賞金1万円と表彰状がもらえる。この表彰の運営も総務課の仕事だ。
そんな雪花にとっての定常業務も、マークにとっては新鮮なものであったらしい。プリンターで刷り上がった表彰状を、マークは無言で見つめていた。
「どこかおかしいところ、ありますか?」
そう声をかけた雪花に視線を向け、マークは真面目な表情のまま答える。
「セツカさん、『仕事を褒める』ということが、私にはとても新鮮に感じます。仕事というのは、やって当たり前のことだと思っていました」
そう言われると身も蓋もない。雪花は小さく苦笑いを浮かべた。
一方で、マークに仕事の説明をする際に、きちんとその目的を伝えていなかったことに気付く。前にいた営業部でも直属の後輩がいなかったため、誰かに仕事を教えるのは、雪花にとって初めてのことだった。
たとえマークが火星人でなく地球人だったとしても、初めての仕事に疑問を持つことは十分にあり得る。雪花は自身の至らなさに、心の中で反省した。
「普段の仕事については、確かにそうかも知れませんね。一方で、いつもより特別に良い結果を出した人を表彰することで、やる気を出してもらうこともうちの会社としては大切だと考えています。1万円の表彰金を支払うことでその社員がもっと頑張ろうという気持ちになって、結果100万円の案件を受注したり、それを見た他の社員が負けじと結果を出していけば、更に会社にとってもプラスになると思いませんか?」
そうマークに話しながら、雪花はその台詞を反芻し、自分にも言い聞かせる。よく考えてみれば、毎月業務に追われて仕事の意義を改めて考えてみることなどなかった。
誰かに仕事を教えることが、自分にとっての新たな発見に繋がっていく――雪花にとってそれは小さな発見だったが、同時にとても大切なことのように思えた。
目の前のマークは雪花の説明に真剣な表情で頷く。
「成る程、よく理解できました。社員の『仕事を褒める』ことが、そのような会社としての利益に繋がっているのですね」
そして――小さく口元を緩めた。
「総務課の果たす役割は重要ですね。私も精一杯頑張ります」
「――鈴木、食い終わったか?」
浦河の声で、雪花ははっと我に返る。気付けば、自分の目の前のミートソーススパゲティは空になっていた。考えながら食べていたので、あまり味を覚えていない。
前の席のマークに目を移すと、彼のオムライスも綺麗になくなっている。スプーンが皿の上で斜め方向にきちんと置かれていた。そういう作法もきちんと勉強してきたのだろうか。
「すみません、お待たせしました」
食器を片付けた後、雪花とマークは総務課への帰路につく。浦河は喫煙所に行ってしまったが、ここまで来ればマークと二人きりでも特に問題はないだろう。
「マークさん、今日のオムライスの味はいかがでしたか?」
雪花が話しかけると、マークは「おいしかったです」と即答した。
「ただ、ウラカワ課長の食べていた『月見そば』にも、とても興味があります。少しずつ箸の練習をして、私もいつか挑戦してみたいです」
大真面目にそう言うマークのことを、雪花は微笑ましく感じる。一つ一つのことをこうやって新鮮に捉えているマークの傍にいると、自分自身も何だか初心に返ったような気持ちになるのだった。
そして、午後の業務を始めたところで――総務課に鳥飼がやってくる。
雪花が電話中であったため、マークが代わりに鳥飼の元へ向かった。電話をしながらそちらの様子を窺うと、二人は二言三言会話をし、そして鳥飼は部屋を出て行く。鳥飼がわざわざ総務課を訪れるなんて珍しい――そう思いながら、雪花は電話を切った。
すると、マークがいつもにも増して真剣な表情で、雪花の所にやってくる。
「セツカさん、申し訳ございません。私では対応しきれませんでした」
え、と雪花は思わず声を出した。
「マークさん、部長に何を言われたんですか?」
すると、マークがはっと目を見開く。
「……もしかすると、今の方は昨日私を助けてくれた方でしょうか」
「はい、鳥飼部長ですが――もしかして、マークさん」
どうやら、鳥飼の顔を覚えていなかったらしい。目の前でマークが大きな溜め息を吐いた。
「申し訳ございません。どなたかわからず……何の御用かお伺いしたところ、『君の様子を見に来ただけだ。地球での生活には慣れたか?』と言われましたので――火星人とバレてはまずいと、つい」
「……つい?」
マークは心から申し訳なさそうに呟く。
「『スミマセン、ニホンゴワカリマセン』と言ってしまいました……」
それは、昨日浦河も交えて決めたルールの中の一つだった。回答に困ることを訊かれたら、とにかく『ニホンゴワカリマセン』で切り抜けること――こんなに早く役立つことになるとは。
ひとまず、鳥飼がマークの様子を見に来ただけなのであれば問題はない。あとで浦河から「念には念を入れて、どんな相手にもそう回答させてます」とでも言っておいてもらえればいいだろう。
しかし、目の前のマークの顔は浮かないままだ。それが居たたまれず、思わず雪花は口を開いた。
「マークさん、そんなに落ち込まないでください。まだ来たばかりなんですから、人の顔を覚えられないのは当たり前ですよ」
「いいえセツカさん、『来たばかりだから』ではなく――恐らくこれは解決が難しい問題です」
一度言葉を切り、少し逡巡するように沈黙を挟んでから――漸くマークは続く言葉を口にする。
「私にとって地球人の顔を判別することは、かなり困難と言えます。大変失礼な言い方になってしまいますが――私からすると、みなさんの顔の細かい違いがわからないのです。しかも、私にとっての上位上長で、お世話になった方の顔すら覚えられないとすれば……これは由々しき事態です」
そしてまた、申し訳なさそうに口を噤んだ。
――成る程。ここに惑星を隔てた種族間の壁があった。
例えば同じ日本人同士ではAさんとBさんの見分けがついたとしても、外国人からするとAさんもBさんも同じような顔に――いや、火星人と地球人ということを踏まえれば、雪花がそれこそイカのAさんと別のイカのBさんを見分けることができないように、マークにとっても地球人の顔を判別するのは難しいということだろう。
そう理解したところで、ふと雪花の心に疑問が浮かぶ。
「あれ、でもマークさん、私と浦河課長のことはわかりますよね。それは何故ですか?」
「セツカさんとウラカワ課長の顔写真は事前に渡されていたので、ここに来るまでに何度も何度も見て覚えることができたのです。さすがにお二人の顔もわからないというのは、大変失礼ですから」
それでも、かなりの努力を要したことは想像に難くない。どれだけ頑張ったところで、雪花はイカの顔を判別できる自信はなかった。
ひとまずその日の残り時間、マークは自席でできる作業を中心に仕事をこなし、定時になると「お先に失礼いたします」と丁寧に挨拶をして帰っていった。
しかし、その後ろ姿は――少しだけ、元気がないように雪花には見える。
「『部長、別に気にしてなかったぞ』って言ったんだけどなー」
浦河が帰り支度をしながら言った。結局、鳥飼には上手く浦河が説明をしてくれたようだ。こういう時は頼りになる。
鞄を担いだ浦河が、ちらりと雪花に視線を向けた。
「……何かいいアイデア、思い付いた?」
「そうですね――」
雪花はディスプレイに向き直り、カチカチと作業を再開する。机の上には、先程残業に備えて1階のコンビニで買ってきたサンドイッチと、カップスープと、そして――気合いを入れる時専用、ブルーベリー味の飲むヨーグルト。
「――正直、地道な方法しか思い付かなかったですけど……やってみます」
雪花は飲むヨーグルトにストローを挿した。一口飲むと口の中に甘酸っぱさが広がって、脳がリセットされたような気持ちになる。
足音と共に浦河が近付いてきて、雪花の机の上に柿の種を置いた。唐突なお裾分けに雪花が驚いている間にも「お先ー」と浦河は部屋の出口まで歩を進めていく。ドアを開けたところで浦河がこちらを振り返り、ニッと笑みを浮かべた。
「期待してるぜ、指導員」
バタンと音を立てて閉じられるドア。
静寂が広がった部屋の中で、雪花は小さく「……頑張ります」と呟く。
その決意の声は誰に聞かれることもなく、無音の空間に溶け込んでいった。
第5話 新米指導員、始動する (了)