第3話 偉大なる一匙
――あなたと話していると、不思議と心が和らぐことに気付きました。
第3話 偉大なる一匙
「えー、マークっていうんだ! 日本語うまいね、どのくらい勉強したの?」
「実習するなら総務課だけじゃなくて、うちの課にもおいでよー」
「今度他の部署と飲み会あるから、マークも一緒に行かない?」
目の前では、マークが営業部の女性社員達から質問攻めに遭っている。そんな状況に、雪花は内心気が気でなかった。
――時刻は12:30、昼休み真っ只中である。
浦河を交えた打合せを終えた後、マークの使用するPCの基本設定をしている内に、気付けば午前中が終わっていた。そのため、社内の案内がてら社員食堂に3人で向かうことにしたのだ。
雪花はいつも簡単なお弁当を作って持参し、席で食べているので、社員食堂を訪れたのは久し振りだ。会社の近くには他に飲食店があるのでそちらに行く社員もいるが、味が無難で何より社員価格でお得に食べられるため、社員食堂はいつも賑わっている。
入口にあるショーウィンドウに辿り着いた雪花達は、本日のメニューを眺めた。
今日の定食は豚の生姜焼き、中華麺は味噌ラーメン、和麺はかき揚げそば・うどんだ。これらのメニューは日替わりで提供される。どれもそれなりにおいしそうだ。
「マーク、何食う?」
浦河の問いかけに、マークがじっと考え込む。
「そうですね……できるだけ食べやすいものにしたいのですが」
「食べやすいもの?」
「その――『箸』の使い方に、まだ慣れていないので」
成る程。確かに箸でものを食べるのは少し練習が必要かも知れない。雪花はショーウィンドウの中にもう一つ――毎日提供される食堂の定番メニューを見付けて、指差した。
「マークさん、それなら『あれ』がオススメですよ」
――そして、雪花とマークの前には、カレーライスが鎮座している。
この食堂ではメニュー毎にレーンが分かれているので、使い方を教えるために、雪花もマークと同じメニューを選んだのだった。カレーであればスプーン1本で食べられるし、何といっても日本の国民食の一つだ。大外しはしないだろう。
「マーク、カレーは初めてか?」
かき揚げそばに七味唐辛子をかけながら、浦河が言った。マークは「はい」と頷きながら、スプーンで一匙すくって口に入れ――そのまま動きを止める。
固まったマークを前に、雪花と浦河は顔を見合わせた。
「(おい、辛いもんダメなんじゃねぇの?)」
「(いや、そこまで辛くないはず……)」
隣同士でコソコソと会話していると、カレーを咀嚼して飲み込んだマークが、ぽつりと呟く。
「――おいしい……」
その一言に、二人はほっと胸を撫で下ろした。
「だろ? 俺は生まれてこの方、カレーを嫌いな人間に逢ったことないからな」
そう言って、浦河はかき揚げをつゆに崩しながら、笑う。
調子良いなぁと思いつつ、雪花もカレーを口に入れた。もったりとしたルーの味が口の中に広がっていく。じゃがいもが口の中でほろりと溶けた。正にザ・社食といったカレーだ。
目の前のマークは、無言のまま、規則的なスピードでカレーを口に運んでいる。余程おいしいのか、それとも彼にとっては作業のようなものなのか……見る見るうちにカレーは減っていき、そして皿はからっぽになった。雪花の皿にはまだ半分程残っている。
「俺タバコ。先、行くわ」
いつの間にか食べ終わっていた浦河が立ち上がった。
やはり男性陣は食べるのが早い。雪花が慌ててカレーを掻き込もうとすると――
「セツカさん」
喧騒の中で、マークの声が響いた。雪花が顔を上げると、マークがその真面目な表情のまま続ける。
「急ぐ必要はありません。ゆっくり食べてください」
そして、口元を少し緩めた。
「――こんなにおいしいものを慌てて食べるのは、勿体ない」
先程打合せの中で見せた表情と同じだ。微かだが、やはりそれは雪花には笑っているように見えた。
「……ありがとうございます。すみませんが、少し待っていてください」
マークはまた真面目な表情に戻り、頷く。
雪花は自分のペースでカレーを食べ始めた。午前中も感じたが、マークとの会話は心地良い。目の前の彼は、とても300歳の火星人とは思えなかった。
これは火星人のコミュニケーション力が高いのか、もしくは年の功のなせる業か、それともマーク個人に帰するものか――そんなことを考えていた矢先
「鈴木さん、おつかれー」
思考の外から甲高い声が響き、雪花は驚いてそちらに顔を向けた。
雪花の視線の先――マークの座る席の近辺に、女性社員が3人立っている。雪花は口の中のカレーをごくりと飲み込んだ。
彼女達は、雪花が入社した時の部署の先輩だ。元々雪花は営業部入社で、昨年総務課に異動してきた。営業部時代そこまで接点が多かったわけでもなく、華やかでいつも楽しそうな彼女達は、目の前の仕事に忙殺されている雪花とは別の世界の住人のようだった。
「おつかれさまです」
雪花がそう返すと、先輩達はにっこりと笑ってこちらに近付いて来る。マークも雪花の視線の先に顔を向けたところで――彼女達から高い声が上がった。
――あ、もしかして……
そう思った時には、もう遅い。彼女達は興味津々でマークに話しかけている。
「Hello, can you speak Japanese?」
マークが固まった。英語対応はしていないのだろう。さすがにそのまま放置はできないので「マークさん、日本語話せますよ」と雪花が言うと、彼女達は「あ、そうなの?」と楽しそうに笑い声を上げた。
「こんにちは、日本出張ですか?」
「いえ、私は鈴木・マーク・太郎、総務課の実習生です」
「「「実習生!?」」」
先輩達が声を揃えて驚く。
雪花は残り少ないカレーを口に運びながらも、内心気が気でない。何しろ、雪花とマークの間で、マークの他部署の人達への接し方や、何か質問された際にどう回答するかのすり合わせが簡単にしかできていないのだ。各部署への挨拶回りは夕方頃を予定していたため、その前に設定を詰めようと考えていた。
それが、まさか昼休みにこんな事態になるとは……。
目の前では先輩達が、マークに次々と話しかけている。マークは今のところ冷静に回答しているが、このままではボロが出てしまうかも知れない。
浦河がいれば強引にこの場を切り上げることもできたかも知れないが、彼女だけでこの火の点いた先輩達を御する自信はなかった。
しかし、そんな泣き言を言っている場合ではない。もしマークの正体がバレたら――具体的にどうなるか浦河から聞いてはいないが、少なくとも問題になってしまうであろうことは予想が付く。
何よりも、表情には表れていないものの、目の前のマークが明らかに戸惑っているように雪花には見えた。実習生を困らせてしまっては、指導員失格だ。
「ごちそうさまでした!」
ようやくカレーを食べ終えた雪花が、意を決して立ち上がる。マークと先輩達の視線が雪花に集まった。雪花が口を開く。
「マークさん、次の打合せがあるので、そろそろ行きましょう」
「えー、まだ昼休み終わらないからいいじゃない」
「もっとマークと話したいんだけど」
先輩達もなかなか引き下がらない。
膠着状態に入りそうになったその瞬間――
「――鈴木さん、そろそろ時間じゃないか」
背後から響いた低い声が、雪花の鼓膜を震わせた。それと同時に、雪花の前の先輩達の表情が固まる。彼女達はそそくさと席を立ち、「じゃあマーク、またね」と言い残して、その場を離れて行った。
つかつかと近付いてくる足音と、マークの視線の動きで、その人物がこちらに向かっていることがわかる。
雪花もまた、マークの視線の先に顔を向けると――そこには、厳かな空気を纏った厳しい表情の男性が立っていた。
***
「――全く、営業部の連中にも困ったものだ。会社を合コン会場と勘違いしているんじゃないか? 浦河も浦河だ。初日から『実習生』を若手に任せて席を外すなんて、ガードが甘すぎる」
社員食堂から職場に戻るまでの道のりを、雪花とマークは先程の男性に付いて歩く。ぶつぶつと小言を言いながら歩を進める男性に、雪花は歩く速度を上げて横に並び、口を開いた。
「すみません、鳥飼部長。助けて頂いて、ありがとうございました」
そう、彼――鳥飼は、浦河と雪花が所属する総務課の上位組織、人事総務部の部長だった。雪花にとっては上位上長にあたるが、ほとんど業務上接点がないため、正直雪花も鳥飼とそこまで話したことがない。
しかし、そのポジションの性質に加え、常に厳しい表情をしていることから、社内でも恐れられている存在であることは雪花も重々知っていた。
鳥飼がちらりと雪花を横目で見る。
「別に君のためにやったわけじゃない。とにかく、くれぐれも『彼』の扱いには気を付けてくれ。もし正体がバレたりでもしたら、減給では済まんぞ」
そして、鳥飼は廊下を曲がろうとして――不意に足を止め、振り返った。その鋭い視線はマークに向けられる。マークは表情を変えず、鳥飼を見つめ返していたが――
「――以後、気を付けます。今回は助けて頂いて、ありがとうございました」
そう言って、深々と頭を下げる。
鳥飼は何も言わずに、そのまま立ち去っていった。
姿が見えなくなったところで、雪花が大きく息を吐くと、マークが顔を上げる。その表情は変わらず冷静なままだった。雪花はもやもやとした気持ちを消化できず、口を開く。
「マークさんすみません、上手く庇うことができなくて」
雪花がそう言うと、マークがこちらを向いた。
「いえ、セツカさんは助けようとしてくれました。こちらこそすみません。私が彼女達の勢いに気圧されてしまって――」
少しバツの悪そうな顔で、マークが続ける。
「地球の女性は積極的ですね。とても勝てる気がしない」
その凛々しい顔付きには似合わない弱気な台詞に、雪花は思わず吹き出した。二人はゆっくりと総務課に向かって歩き出す。
「――そういえば、カレー、気に入って頂けましたか?」
「はい、とても。実は少し食事については心配だったのですが、全く問題ありませんでした。寧ろ火星の食事よりも、おいしいです」
「それは良かったです。カレーは大体どこでも食べられますから、困ったらカレーを選べば大丈夫ですよ」
「どこでも食べられるんですか……地球に来て良かったです」
思わず雪花はマークの方を見る。彼は大真面目な顔でこちらを見ていた。どうやら本気のようだ。
カレーって本当に偉大だなぁ。
雪花は呑気にそんなことを思う。いつの間にか胸の中のもやもやは姿を消していた。
第3話 偉大なる一匙 (了)