最終話 その同僚、9,000万km遠方より来たる
『――そう、その出逢いは私にとって、正に未知との遭遇でした』
最終話 その同僚、9,000万km遠方より来たる
総務課の部屋に戻り、古内から受け取った封筒を開く。
中に入っている数枚の便箋を開いた時、雪花の目に飛び込んできたのは、その一文だった。
思わず雪花はくすりと笑う。
それは、雪花も当時抱いた想いだったからだ。
雪花は誰も居ない部屋で、マークからの手紙をゆっくりと読み始めた。
***
スズキ セツカ様
セツカさん、地球滞在中は大変お世話になりました。
セツカさんは指導員として、自分の業務もお忙しい中沢山のことを私に教えてくれました。
平日だけでなく、週末も色々な場所に連れて行って頂いたお蔭で、私は仕事に加えてそれ以外の多くのことも学ぶことができました。
この地球実習中、貴重な時間を過ごすことができたのは、すべてセツカさんのお蔭です。
本当にありがとうございました。
以前、私が火星に居た時の話をしたことがありましたね。
あの時お伝えしていませんでしたが、私は元々ダニーと同じ一族でした。身体の弱かった母は病気で早くに亡くなり、その息子である私は一族の跡継ぎとして不適と判断され、地底の最下層に落とされました。
あの頃はただ、日々を生き抜くことで精一杯でした。悪意が渦巻くあの世界で生き延びられたのは、本当に幸運であったとしか言いようがありません。ありとあらゆることを強制され、命の危険を感じるような酷い目に遭ったことも一度や二度ではありませんでした。
永い時間をかけてようやく選抜試験の切符を手に入れた私の心は、随分と荒んでいたと思います。
しかし、地球に来てから、私の世界は一変しました。
セツカさん、あなたは初めて逢うであろう異星人の私に、とても親切にしてくれました。
ウラカワ課長は私の身体のことをいつも気遣ってくれました。
トリカイ部長は私に興味を持ち、色々なことを話してくれました。
ハレヤマさんはいつも明るく私に接してくれました。
――そう、その出逢いは私にとって、正に未知との遭遇でした。
そしてセツカさん。
あなたに出逢った日のことを、私はこの先何度でも思い出すことでしょう。
初日、総務課に訪れた私を、あなたは笑顔で迎えてくれました。
社員食堂で営業の先輩方に囲まれたこともありましたね。しかし、総務課までの帰り道、私はとても穏やかな気持ちでいることができました。
それは、セツカさんが必死で私を守ろうとしてくれたからです。
あなたと話していると、不思議と心が和らぐことに気付きました。
会話を重ねる程、あなたのことをもっと知りたいと思うようになりました。
あなたはいつも一生懸命に目の前のことに取り組んでいました。
自分の仕事に向き合う時も、指導員として私に教えてくれる時も。
その真摯な姿勢に、私は胸を打たれました。
ですから、私はあなたのために、できることを精一杯やろうと決めたのです。
私にできることは、本当に小さなことかも知れませんが――それが少しでもあなたのためになればいいと思いました。
週末に一緒に出掛けることになった時は、とても嬉しかったです。
たとえ人々の雑踏の中であっても、私はあなたを見付けることができました。
――そして、あなたと一緒に見るものはどれも、私にとって特別なものとなりました。
勿論、いつか訪れるその日を、知らずにいたわけではありませんでした。
私はいつか火星に帰らなければなりません。
火星に帰り、自分の居場所をつくること――それが私の目標だったからです。
しかし、地球に来てから過ごした日々は、かつての私からすれば想像もできない程素晴らしいものでした。
本当においしいものが何かを、改めて知ることができました。
穏やかな気持ちで日々を過ごすことの幸せを知りました。
私には私の居場所があるのかも知れないと、そう思えるようになりました。
そして、セツカさん。
少しずつあなたを知っていけること、それは何よりも嬉しいことでした。
正直なことを言えば、セツカさんとハレヤマさんの会話を聞いて、複雑な気持ちになることもありました。
私の知らないあなたの姿が、そこにはあったのですから。
気付けば、私はあなたのことばかり考えていました。
あなたの優しさは、私を私らしく居させてくれました。
あなたのその言葉が、あなたのその何気ない仕種が、私の心をかき乱すことを知りました。
――そして、私を笑顔にしてくれるのも、あなたの一言でした。
あなたにはそんなつもりは一切なかったのかも知れない。
しかし、私の目にはいつもあなたが輝いて見えました。
先日、プラネタリウムに二人で出掛けましたね。
私にとって、あの時間はかけがえのないものでした。
一方で、私は気付いていました。
あなたは、少し寂しげな眼差しをしていました。
あなたと過ごす時間が残り少なかったとしても、共に居られることが私の幸せでした。
しかし、残り時間が刻一刻と減っていく中で――私の気持ちも少しずつ変わっていきました。
――さぁ、私にはあと、何ができる?
あなたのために、何を残すことができる?
ずっとこの時間が、続いてくれたならいい。
たとえそんなことはありえないとわかっていても――それでも、願わずにはいられませんでした。
そして――思いがけず終わりは訪れました。
あなたには本当に多大なるご迷惑をおかけしてしまいました。
私のせいで、怖い目にも遭わせてしまった。
謝っても謝りきれません。
本当に申し訳ありませんでした。
――しかし、あなたはそんな状況下でも、私のことを気遣ってくれました。
意思疎通もできない私の手を、優しく握ってくれました。
あの瞬間、私は気付きました。
セツカさん
――私は、あなたのことが
好きだ。
今更こんなことを言われても、困るかも知れない。
それでも、伝えずにはいられなかった自分勝手な私を許してください。
本当はあなたともっと一緒に居たかった。
その願いは途絶えてしまいました。
――しかし
最後にそっと、私を抱き締め返してくれた
あのぬくもりだけで、私はこの後の人生を生きてゆけるのです。
私の存在を認めてくれた
私の居場所があると言ってくれた
300年の人生の中で、こんなにも満たされたことはありません。
あなたの存在は私にとって、昏い夜空に輝く何よりも美しい星でした。
セツカさん、あなたに出逢うことができて本当に良かった。
あなたの幸せを心よりお祈り申し上げます。
ありがとう、そしてさようなら。
鈴木・マーク・太郎
***
――手紙にぽたりと雫が落ちて、雪花ははっと我に返る。
大切な手紙を汚してはいけない。
だって――これは、あのひとがただひとつ、私に残していったものなのだから。
雪花は慌てて両目を拭った。
しかし、溢れる想いは止まらずに、雪花の指の隙間から零れ落ちていく。
二人で映画館に行った時の記憶がよみがえる。
あの時、映画の感想を語り合う中で――マークは穏やかな表情で言った。
『共に過ごした奇跡のような時間は、たとえ離れても喪われるものではない――私はそう思います』
そう、私だってそう思っていた。
たとえ離れてしまっても――この出逢いに、きっと意味はあった。
だって――生きる惑星が違う私達が出逢えたこと、そのものが奇跡のような出来事だったんだから。
――マークさん、
私もあなたのことが好きです。
好きです、好きです
――好きです。
「――マークさん……!!」
がらんとした部屋の中で、雪花は思わずその名を呼ぶ。
その声に答える者は、誰も居ない。
それでも――その存在は、雪花の心の中でいつまでも輝き続ける。
あの金色に光る瞳も
口元を緩めるだけの控えめな微笑みも
聴いた者を落ち着かせてくれるような穏やかな声も
――すべてが私にとって、大切な光だった。
誰も居ない部屋の中で、雪花は手紙を胸に抱き、静かに泣いた。
ただただ、二人で過ごした日々の思い出を抱き締めるかのように。
***
――それから、1年半の月日が経過した。
「行ってきます」
雪花は毎朝、そう言って家を出る。
自分以外誰も住んでいないことがわかっていても、つい癖で言ってしまうのだ。
妹の花菜の結婚が決まってから、雪花は一人暮らしをしている。
住み慣れた家ではあったけれど、一人で暮らすには少し広すぎた。色々と考えた結果、半年程前から同じ最寄り駅のマンションに移り住むことにしたのだった。
通勤電車に揺られていると、ポケットに入れたスマホが震える。
取り出してみると、花菜からだった。先週末の結婚式の写真が何枚か送られてきている。
『ねぇ、この写真よくない?』
そうメッセージが添えられていたのは、満面の笑みを浮かべたウエディングドレス姿の花菜と、ブーケを持って恥ずかしげに微笑む雪花のツーショット写真だった。
花菜の結婚式には、新郎新婦の友人を中心に多くのゲストが訪れた。
以前は独身女性をターゲットに行われていたブーケトスだが、最近はゲスト全員参加型で行うことも珍しくないらしい。
とはいえ、親族が参加するのもどうかと遠慮する雪花だったが、「お姉ちゃんも参加して!」と半ば花菜に押し切られる形で参加することになった。
――結果、花菜が投げたブーケは、雪花の手の中に綺麗に収まった。
驚く雪花を祝福するように、会場中から拍手が沸き起こる。
司会者に促され、雪花は花菜と並んで写真を撮り、そのままお色直しをする花菜と共に二人で披露宴会場から退場したのだった。
「私、コントロールには自信あるんだよね」
会場を出たところで、花菜がぼそりと呟く。思わず雪花は目を丸くした。
「まさか、狙ってたの?」
「うん。お姉ちゃんに受け取って欲しかったから」
大したことでもないと言うように、花菜が笑う。
「これまでお世話になった私からのプレゼント――お姉ちゃんは絶対幸せになるひとだもん。何かあったらいつでも言ってね。応援してるから」
あの時のやり取りを思い出しながら、雪花は小さく笑って、『いいね』のスタンプを返した。
そうだ、花菜はいつも私のことを応援してくれた。
2年前、私があのひとと週末に出掛ける時も、色々とコーディネートのアドバイスをしてくれた。
――ふと、脳裏に当時の思い出がよみがえる。
初めて東京スカイツリーに行った時、赤いパンプスを履いていったっけ。出掛ける直前に花菜に言われて、履き替えたんだった。あの時初めて古内さんに逢ったけれど、すごく美人でどうしようかと思った。
2回目の時は二人で上野動物園に行った。あの時の黒いワンピースは花菜のアドバイスで買ったけど、あれ以来もしかしたら着ていないかも知れない。浦河課長とあおいちゃんにばったり逢って、あのひとが倒れてしまったり、色々あった。
最後に二人で出掛けたのは、サンシャインのプラネタリウム。あの時に観た星空、すごく綺麗だった。つくりものかも知れないけれど、そんなこと気にならないくらい。芝生の上に二人で寝転んで星を見つめた時間は、今でも忘れられないひと時だ。
――そして、気付けばいつも、私は夜空に火星を探している。
今年また、火星と地球は最接近を迎えるらしい。
それならばきっと、9,000万kmよりもっと、私達は近付けているのだろう。
――あのひとは、元気にしているだろうか。
雪花はいつものように、7時30分過ぎに会社に到着した。
席に着いてPCを起動し、朝ごはん代わりの飲むヨーグルトをビニール袋から取り出す。今日は気合いを入れるために、ブルーベリー味をチョイスした。
――何故なら、今日は大切な一日だからだ。
総務課の扉が音を立てて開く。顔を上げると、そこには部長の鳥飼が立っていた。
随分と早い出社に「おはようございます」と雪花が驚きながら挨拶をすると、鳥飼は「おはよう」と頷く。
「あいかわらず鈴木さんは朝早いな。いつもこの時間に来ているのか?」
「はい、通勤ラッシュを避けようと思いまして……部長も早いですね」
「あぁ、今日は特別な一日だからな」
そして、鳥飼はにやりと微笑んだ。
「まさか、また我が社で火星人の実習生を受け入れられるとは――願ってもないことだ……!」
――そう、今日から雪花の会社に、また火星人の実習生がやってくる。
発端はJAXAの古内から浦河へのメールだった。
火星人の実習先は各国の宇宙機関が自国の企業を推薦して決定しているそうだが、どうやら古内が雪花達の会社を再度推薦し、それが通ったらしい。
当然事前に打診はあったようだが、雪花はそれを知らされていなかった。
「鈴木さんにはまた指導員をお願いすることになるが、今回も期待しているよ」
「はい。総務課としても来て頂けるのはありがたいことですし、実習生の方に色々な経験をして頂けるよう、全力を尽くします」
雪花の言葉に嘘はない。
あの頃育児休職を取っていた先輩は第2子の出産休職に入っているため、今も総務課は浦河と雪花の二人体制だ。奇しくも、2年前と同じ状況で実習生を迎え入れることになっていた。実習生が来てくれたら、雪花の業務量も減るだろう。
「実習生の方が来られたら、鳥飼部長の所にもご挨拶に伺いますね。また歓迎会も企画します」
そう伝えると、鳥飼の表情がぱぁっと明るくなる。
久々に見た鳥飼の嬉しそうな様子に、思わず雪花は吹き出してしまった。
「そうか……! よろしく頼むよ」
「はい、また部長おすすめのおいしいお店、教えてください」
――その時、総務課の扉が再度開く。
瞬時に鳥飼が無表情に戻った。
雪花が入ってきた人物に声をかける。
「おはようございます、浦河課長」
「おう、おはよう。あれ? 部長、こんな早くからどうしたんですか」
浦河が怪訝そうな顔で鳥飼を見ると、鳥飼は「鈴木さんに確認事項があっただけだ」と淡々と言って、部屋を出て行った。
雪花は何食わぬ顔で飲むヨーグルトを啜り、ふと口を開く。
「そういえば、先週末のあおいちゃんの運動会、どうでした?」
「あぁ、あいつむちゃくちゃ足速くて、リレーでごぼう抜きしてたわ……俺もかみさんもそんなに運動神経良いわけじゃないからびっくりした」
「へぇ、あおいちゃんすごい!」
浦河がスマホをすいすいと操作して、画面をこちらに向けた。
そこには、満面の笑顔でポーズを決めるあおいと、その隣で穏やかに微笑みを浮かべる綺麗な女性が写っている。
「奥様、お元気そうですね」
「お蔭さまでなー、本当に良かったよ。まぁ浦河家は女性社会で、俺は肩身が狭いんだが……」
軽口を叩く浦河の表情は、その台詞とは裏腹に嬉しそうだ。
雪花も「良いじゃないですか、楽しそうで」と笑顔を返した。
――そして、始業時刻の9時が近付いてくる。
2年前のことを思い出しながら、雪花はメールの処理をしていた。あの時に比べると、想像以上に冷静な自分が居る。浦河も普段と特に変わらない様子で缶コーヒーを飲んでいた。
今回もJAXAの引率はなく、実習生は一人で朝礼に間に合う時間に来るとのことだ。
雪花はちらりとPC画面の右下を見る。8時55分、そろそろだろうか。
――その時、コンコンとノックの音が室内に響いた。
浦河の方を見ると、彼は雪花に頷いてみせる。そして、「どうぞ」と扉に向かって声をかけた。
視線の先で、扉がゆっくりと開かれていく。
その刹那の間に、雪花の中で2年前の記憶が生まれては消えていった。
――あぁ、あの時
あなたはこうして、私達の前に現れたんだ。
雪花の視線の先で、扉は完全に開かれる。
そこに立っていたのは――
***
「初めまして、マリーです! 精一杯頑張りますので、よろしくお願いします!」
そのマリーという名の小柄な火星人は、まるで子どものように無邪気だった。
オリエンテーションの間も、「地球に来られて嬉しいです!」と目をくりくりさせ、歓びを隠さない。そんな彼女の空気感もあり、浦河はくだけた様子で口を開いた。
「マリーは前の実習生とは随分ノリが違うな。何歳?」
「そうですね、地球年齢に換算すると、まだ190歳くらいです!」
「――え、190歳って若いの?」
「若いですよー、ピチピチです!」
浦河とマリーの漫才のようなやり取りを見ながら、雪花はふとマリーの瞳の色が茶色いことに気付く。つまり、彼女は王族の血を引いているわけではないのだろう。
家柄ではなく優秀さを買われてここまで来たのだと思うと、目の前の彼女の積み重ねてきた日々の重さに、尊敬の気持ちが生まれるのだった。
じっと見つめていると、ふとマリーが雪花の方に顔を向ける。
そして「私、セツカさんにお逢いできるのを楽しみにしてました!」と嬉しそうに笑った。
「えっ、何故ですか?」
「実は実習に来る前に、前の実習生から話を聞いてきたんです。そしたら、セツカさんにすごくお世話になったと伺って。本当は不安でたまらなかったんですが、お蔭さまで安心して地球に来ることができました!」
マリーの口から飛び出してきた言葉に、思わず雪花は目を見開く。
――前の実習生、それはつまり……
「マークさんのことですか!?」
久々にその名を口にした瞬間、雪花の中で想いが弾けた。
一瞬じわりと視界が滲んだ気がして、雪花は慌てて口唇を噛む。
そんな彼女の様子を見て、マリーは驚いたようにその大きな目をぱちぱちと瞬かせ――そして、また笑みを浮かべた。
「はい、地球名でマークさんのことです。彼は実習の素晴らしさ、そして地球人のみなさんにどれだけお世話になったかを、とても丁寧に教えてくれました。途中で実習は終わってしまったけれど、彼の人生にとって本当にかけがえのない時間だったと」
瞼の裏に、マークの控えめな笑顔がよみがえる。
言葉を返せない雪花の代わりに、隣に座っていた浦河が口を開いた。
「そうか――あいつは、元気にしてるか?」
「はい! 火星人の重要なポジションで、バリバリ仕事をしています」
マリーが笑顔で答える。
浦河が「そりゃあ良かった。それだけで十分だ」と言って、雪花に「なぁ?」と顔を向けた。雪花は一つ息を吐き、目頭の熱を逃がす。
「はい、本当に良かった……!」
――そう、この広い宇宙の中で、あなたが元気でさえ居てくれれば。
雪花が微笑んだのを見て、マリーもまたとびきりの笑顔で「良かったです!」と繰り返した。
***
初日はマリーのPCのセッティングと簡単な業務をしている内に、定時を迎えた。
「マリーさん、おつかれさまです。それではまた明日、9時によろしくお願いします」
「はい! セツカさん、ありがとうございました。お先に失礼します!」
マリーは元気に挨拶をして帰っていく。その後ろ姿を見送り、雪花は一つ安堵の息を吐いた。今日は幹部対応で浦河が夕方から不在のため、マリーの歓迎会は明日に持ち越しとなっている。
雪花はPCに向き合い、メールの確認を始めた。日中はマリーの対応をしていたため、未読のメールが溜まっている。急ぎの内容がないかだけ確認して帰ろう、そう決めて雪花は作業を始めた。
――すると、定時後にも関わらず、会社のスマホが鳴る。
出てみると、受付からだ。雪花を訪ねて来客があったらしい。
――何だろう?
特に今日、来客の予定は入っていない。
不思議に思いながらもひとまず対応する旨を伝えると、総務課まで通すのでそのまま部屋で待つよう指示があり、了承して雪花は電話を切った。
お茶でも出した方が良いだろうか――そんなことを思案しながら、雪花は会議室が散らかっていないか念のため確認を行う。
――その時、コンコンとノックの音が室内に響いた。
「あ、はい、今行きます」
慌てて返事をして、足早に入口に向かう。
そして、扉を開けた瞬間――そこに立っている人物を見て、雪花の時が止まった。
「――お久し振りです、セツカさん」
穏やかな声が、雪花の耳を揺らす。
長い黒髪は後ろで一つに纏められており、色黒な肌に白いワイシャツが映えていた。
記憶の中の彼と違うのは、薄暗い色の眼鏡をかけているというその一点だけだ。
そう、そこに立っていたのは、雪花が何度も逢いたいと願い――そして、二度と逢うことができないはずのひとだった。
「――何で……?」
雪花の口からぽろりと言葉が零れる。
彼はドアを後ろ手に閉め、そして眼鏡を外した。
美しい金色の瞳が姿を現し――そして、彼は小さく口元を緩める。
「――申し遅れました。JAXAの鈴木・マーク・太郎です。本日はマリーがお世話になりました。今後火星人の実習を担当させて頂きますので、よろしくお願いいたします」
そう言って丁寧に頭を下げた。
雪花はぽかんとその様子を見ていたが――顔を上げたマークと目が合ったところで、「え……?」と声を洩らす。
「JAXAって……あの、古内さんは?」
「はい、リサは異動になりました」
「異動? それで何故、マークさんが?」
「各国の宇宙機関の実習担当は火星人の役割なのです。リサは異動願を出し、火星の別の役職に就いています。昨日までに引継ぎを終えましたので、今は既に火星に向かう宇宙船の中です」
その説明を聞きながら、雪花の中で、最後に古内に逢った時の記憶がよみがえった。
『――マークから預かってきました。あなた宛ての手紙です。火星語から日本語に翻訳してありますので、ご安心ください』
思い返せば、マークの言語変換装置が壊れていたのであれば、あの手紙は書けるはずのないものだ。
あの時は深く考えていなかったが、あれは火星人でありながらも地球に精通した者――つまり古内が翻訳して手渡してくれたものだったのか。
そして、その前夜に逢った際の彼女の様子も、その気付きに引き摺られるように思い出される。
雪花の呼び出しに応じて急遽現れた彼女は、最低限の化粧に眼鏡をかけていた。
そう、今マークがかけているような、薄い色付きで――まるで瞳の色を隠すような眼鏡を。
ぴたりと雪花の頭の中でピースが嵌まり――そして、そこで改めて肝心なことに気付く。
――あぁ、私の目の前に、マークさんが居る。
それを理解した瞬間、雪花の視界が水を張ったようにぼやけた。
「――セツカさん、驚かせてしまい、申し訳ありません」
穏やかな声が響く。
雪花は首を横に振り「……違います」と、懸命に言葉を紡いだ。
「違うんです。勿論驚いたは驚きましたけど……マークさんにもう一度逢えるなんて思わなかったから……!」
マークがハンカチを差し出す。
雪花がおずおずとそれを受け取った瞬間――そのまま彼の胸に優しく抱き止められた。
「――ずっと、逢いたかった。あなたを想わない日は、一日もありませんでした」
あの夜のように、雪花はぬくもりに包まれる。
しかし、今はあの時のような悲壮さと切迫感はなく――ただただそこには、かけがえのない幸せがあった。
「セツカさん――私は、あなたのことが好きだ」
その言葉と共に、マークの胸の鼓動が跳ねる。
雪花には信じられないことばかりだ。
しかし――ここに確かに、マークが居る。
自らの心拍数も上がっていくのを感じながら、雪花は静かに目を閉じた。
「――マークさん、私もあなたのことが好きです」
そっと呟いた言葉は、彼の耳に届いただろうか。
私を抱き締めるその手が、微かに震える。
思わずそっと顔を上げると、その瞳は優しい色に濡れていた。
――あぁ、私達は今、色々なものを飛び越えて、同じ気持ちで、同じ場所に居る。
それは、奇跡以外のなにものでもない。
一人で火星を探す日々は終わり――これからは、二人で夜空を見上げる日々が始まる。
――さぁ、これから私達に、何ができるだろう。
やりたいことは沢山あるけれど、まず手始めに。
涙を拭った雪花は、心からの笑みを浮かべて、口を開いた。
「それではマークさん、早速ですが、今週末に品川の水族館へ行きませんか?」
それを聞いて、マークはその金色の瞳を丸くしてから――ふっと小さく吹き出す。
「はい、是非。イルカショーを観たいです。あと、アシカとアザラシも。またペンギンを観られるのも楽しみです」
「……マークさん、詳しいですね」
「はい、セツカさんと約束した時から、ずっと楽しみにしていました。沢山調べたので、予習はばっちりです」
そして――二人は顔を見合わせて、笑った。
『その同僚、9,000万km遠方より来たる』 (完)
最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。
本作を書き始めたのは、今年の3月のことでした。
元々は浦河が冒頭で話していた「労働力人口の減少に対する打ち手として、宇宙から人を受け入れられたら面白いのに」という私の勝手な妄想から始まりました。
その時の構想は完全なる出オチ作品で、雪花、浦河、マークの原型のようなキャラクターは居たものの、とても長編にできるようなイメージはありませんでした。
しかし、前作の長編連載を終えて、また何か長編を書こうと思った時に、このアイデアがぽかりと私の中で頭をもたげました。
前作は長い間構想を練った後に書き始めた作品でしたが、今度は今あるこの小さいアイデアを膨らませながらのんびり書いてみてもいいかも……と始めてみたところ、読んで頂いた方々から思いがけずあたたかい感想を頂き、ここまで続けることができました。
そのような経緯で書き始めたので、おおまかなストーリーと結末は自分の中にありつつも、このあとどうなってしまうのだろうと思いながら筆を進めることもありましたが、何とか完結まで漕ぎ付けられたのは、本作をここまで見守って下さった読者のみなさまのお蔭です。
本当にありがとうございました。
本作に登場する雪花は、決して目立たないけれど、真面目に日々の仕事に取り組んでいます。
そして、マークは絶望の日々を過ごしながらも、その世界から抜け出すために必死に努力を積み重ねてきました。
決して諦めず、目の前のことに愚直に取り組んできたふたりが、かけがえのない存在に出逢う――それは、日々を懸命に生きる人々が報われる世界であってほしいという私の願望の表れかも知れません。
この世界には沢山の人々が息衝いていて、それぞれの生活を営んでいます。
もし今居る場所がつらく大変な場所であっても、きっとここではないどこかに居場所があるはずです。
たとえ今は気の合わない人々に囲まれていても、ひとりぼっちでも、どこかに理解してくれるひとが必ず居ます。
――だって、宇宙はこんなに広いんですもの。
そんなことを取り留めもなく考えながら、書きました。
本作が少しでもあなたの心に触れることができたのであれば、この作品は生まれてきて良かったのだろうと、そう思います。
お忙しい中、あとがきまでお読み頂きまして、ありがとうございました。
未来屋 環
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
以下、本作のギミックについて、多少解説があった方が良いかも……と思いましたので、少しだけ書かせて頂きます。
※ネタバレ注意です。
本作には複数の火星人達が登場します。
実習生として雪花の会社に現れるマーク。
納涼祭の夜に出逢った、マークを敵視するダニー。
居酒屋でダニーと行動を共にしていたジョシュ。
二人目の実習生であるマリー。
そして、JAXA職員として活動していたリサです。
火星の王の血を引く者は、金色の瞳という特徴を持っています。
ジョシュとマリーは王族ではないため、瞳の色は異なります。
マークの瞳は金色ですが、母が病気で亡くなったことで、王族を追放されてしまいます。
(ダニーのように、マークの母とマークの存在を面白く思わなかった一族の仕業です)
そして、ダニーとリサも、マークと同じく金色の瞳を持っていました。
リサは仕事柄地球人と相対することが多く、その特徴的な瞳の色を隠すため、普段はカラーコンタクトを付けていました。
第24話の際には、慌てて家を飛び出してきたため、カラコンを色付きの眼鏡で代用しています。
同じ金色の瞳を持つマークとダニーが異母兄弟であるように、マークとリサも異母兄妹です。
本編には書きませんでしたが、一族の中で唯一リサはマークを慕っていました。
それ故に、マークの幸せを人一倍願っていたのだと思います。
なお、本作は主人公である鈴木雪花の視点で語られています。
各話の冒頭には、彼女がその時抱いた想いが記されています。
そのすべての想いは、最終話の手紙の中で、マークからも同じ言葉で語られます。
生まれ育ちが大きく異なる二人であっても、抱く想いが同じであったからこそ、9,000万kmというとてつもない距離を飛び越えることができたのかも知れません。
前作もそうだったのですが、これらのギミックは当初から想定していたものもあれば、書きながら姿を変えていったものもあります。
連載を続ける中で登場人物達が自由に動き出し、展開が変わっていくのを見ると、つくづく物語は生き物だなぁと思うのです。
次の長編はどうなるだろうと、少しワクワクしている自分が居ます。
引続きコツコツと書き続けていきたいと思います。
願わくば、それがどなたかの心にそっと触れられますように。