第24話 言葉はなくとも
――私は、あなたのことが
第24話 言葉はなくとも
雪花は部屋の入口に立つマークの姿に、驚きを隠せなかった。
それは、二人の火星人達も同様だろう。
「な、何だ貴様――何だ貴様その目は!」
ダニーの声が裏返る。
それは明らかに彼の動揺を表していた。
無理もない。
いつも穏やかに佇むその金色の瞳が、今は静かな怒りに燃えている。
初めて見るマークの様子に、雪花も口を噤んだ。
「――ダニー、言ったはずだ。『このひとに近付くな』と」
いつもよりもトーンの低い声は、威厳すら纏って重たく響く。
ふと背後を見ると、口をぱくぱくとさせているダニーの傍らで、ジョシュは言葉すら発することができず、わなわなと震えていた。
「今後このひとに何かあってみろ。たとえ同じ血が流れる者であろうが――私は絶対にあなたを許さない」
そう言い切ったところで、マークが雪花に視線を向ける。
その眼差しは緊張の色を残していたが、元来彼が持つ穏やかさを取り戻していた。
「――セツカさん、行きましょう」
「は、はい」
雪花は振り返らずにマークと共に部屋を出る。
そのまま彼に連れられて入り組んだ廊下を歩き、別の個室に入ると――そこには、雪花にとって思いがけない人物が居た。
「あれ!? 鈴木、どうしたの?」
そう――同期の晴山が、目を丸くしてこちらを見ている。
雪花が言葉を探している間に、マークが「たまたま他の席でお見掛けしたので、お連れしました」と答えた。
「そ、そうなの。残業してたらおなかが空いちゃって、おそば食べようかと思って……」
「おっ、タイミング良いじゃん。俺達もそろそろシメ頼もうと思ってたんだ。せっかくだから一緒に食べようよ」
そう言いながら、晴山が席に備え付けられたタッチパネルを操作する。
まだ状況が把握できていない雪花がマークを見ると、彼は口元を緩めてみせた。
「実は、帰り際にエレベーターでハレヤマさんと一緒になりまして、二人で食事をしていたのです」
「そうそう。結局納涼祭の後の打上げも行けなかったからさ、一回マークさんと色々話してみたかったんだ」
「そうなんだ……」
「鈴木も誘おうか迷ったんだけど、今日残業だって聞いたからさ。今度は他のメンバーも誘って、皆で行こう」
晴山が明るく笑う。
マークに席を勧められて座ったところで、部屋のドアが開いて温かいお茶が運ばれてきた。
「あ、お兄さんお茶もう1個追加で!」と晴山が言った傍から、マークが自分の所に置かれたお茶を雪花に差し出す。
「セツカさん、どうぞ」
「いえ、そんな――」
「驚かれたでしょう。急にお連れしてしまい、すみませんでした」
状況を知らない晴山の前で言葉を選びつつ、マークが雪花のことを気遣っているのは明白だった。
二人のやり取りを聞いていると、どうやらマークがトイレに立ったところで「偶然雪花の姿を見掛けた」らしい――実際には雪花は個室にいたので、それが本当かどうかはわからない。
もしかしたら、ダニーやジョシュの大きな声が廊下に洩れていて、たまたまそこを通り掛かったマークが助けに来たのかも知れない。
いずれにせよ、雪花は命拾いをした。
差し出されたお茶を一口飲むと、あたたかさがじわりと喉から胃に流れていく。
そこでやっと、雪花は人心地が付いた気がした。
***
「じゃあ鈴木、マークさん、また行こう!」
「うん、晴山くんありがとう。おつかれさま」
「ハレヤマさん、おやすみなさい」
店の前で、雪花とマークは地下鉄の駅に向かう晴山と別れる。
雪花の心は、分け合って食べたざるそばと、晴山とマークと過ごした楽しい時間で満たされていた。
二人で並んで駅までの道を歩いていると「セツカさん」とマークが口を開く。
隣を向くと、マークが申し訳なさそうな顔でこちらを見ていた。
「今日は危険な目に遭わせてしまい、本当に申し訳ありませんでした。お怪我はありませんでしたか?」
「そんな、マークさんのせいじゃないです! 逆に助けて頂いてありがとうございました。マークさんのお蔭で、掠り傷一つないです」
そう言って微笑んでみせると、マークはその悲しげな表情を少しだけ緩める。
「セツカさんが無事で、本当に良かったです。あなたに何かあったら――私は生きていけない」
思いがけない言葉に、雪花は目を見開いた。
その反応に、マークもはっと我に返ったように口元を抑える。
「あ、今のは、その――私にそんなことを言われても困ると思うのですが……セツカさんは私の大切なひとなので」
雪花の頬が熱くなった。
その様子に、マークも首を傾げてから――自分の台詞を反芻したのか、彼の頬も心なしか赤くなったように見える。
そのまま二人は無言で暫く歩いた。
――大切なひとって、どういう意味だろう。
静かな夜風の吹く中を歩きながら、雪花の胸はドキドキと高鳴る。
願わくば、隣を歩く彼もそうであってほしい――そんなことを思った。
大切なひと、それは言葉通りそういう意味だと捉えて良いのだろうか。
もし、マークさんも同じ気持ちだったなら――。
雪花の足が止まる。それに気付いて、隣を歩くマークの足も止まった。
「――セツカさん?」
穏やかで心地の良い声が、鼓膜を震わせる。
雪花は顔を上げた。
その視線の先では、金色の双眸が穏やかな色を湛えてこちらを見つめ返している。
すぅっと一つ、息を吸って、雪花は決意した。
「マークさん、私は、あなたのことが――」
――ガツッ
――鈍い音が夜の街に響く。
雪花は一瞬、何が起きたのかわからなかった。
気付いた時には、目の前に立っていたはずのマークは、地面に倒れ臥している。
理解が追い付かず、雪花はゆっくりと首を傾けた。
「――貴様が悪いんだ」
そこに立っていた男――ダニーが呟く。
棒状の物を握った手が、ぶるぶると震えていた。
「ずっとずっと、目障りだった。貴様はそもそも身分が違うんだ。それを、父親が同じというだけで――俺は貴様を兄だなんて思ったこと、一度もなかった」
「――ダニーさん!」
走ってきたジョシュがダニーの両肩を掴む。
「まずいですって、さすがに……! こんなことがJAXAに知られたら、俺達はおしまいだ!」
ジョシュの言葉に我に返り、雪花は「マークさん!」とマークに駆け寄った。
身体を起こしたマークは左腕の手首を右手で押さえている。
咄嗟に頭を庇って殴られたのか――雪花は一気に青褪めた。
「マークさん、大丈夫ですか!? 救急車……」
そこまで言って、はっとする。
救急車など呼べば、マークの正体がバレてしまうのでは――こんな時、どうすれば良いのか。
しかし、その逡巡はマークの発した言葉で途切れた。
「――△△△△△、×○+△※>……!」
雪花は目を見開く。
マークが痛みに顔を顰めながら、こちらを見た。そして、口を開く。
「※-○××<、△+<○×△※>>?」
「――え……あれ……?」
マークの発している言葉が――いや、言葉ですらない音が、雪花の鼓膜を震わせた。
雪花は動くことができない。
今起きている事態に対して、頭の処理が追い付かなかった。
懸命に音を発していたマークだったが、やがて雪花の反応に違和感を覚えたのか、口を閉じる。
そして――左手首を見た彼の動きが、止まった。
「俺たちだけじゃない、マーク、貴様もおしまいだ……!」
マークの左手首に巻かれていたスマートウォッチは、大きな亀裂が幾つも入っており、その画面は真っ暗になっている。
雪花の中で、いつかマークに聞いた言葉がリフレインした。
『これは、火星語と他言語の変換装置です。私はこれを付けることで、セツカさんたちが使用する言語を理解し、使用することができるのです』
「変換装置は貴重なもので代替品などない――貴様の地球実習はここで終わりだ、マーク。俺たちもペナルティを受けるだろうが、途中棄権の奴に比べればマシだ! ざまぁみろ!!」
そう捨て台詞を吐いて、ダニーが耳障りな笑い声を上げる。
そんな彼の手を取り、「ダニーさん、逃げましょう」とジョシュが促した。
二人が夜の街に消えていく姿を、取り残された雪花とマークは呆然と見送る。
そして――先に正気を取り戻したのは雪花だった。
雪花は慌ててスマホと手帳を鞄から取り出し、目当ての電話番号を見付けて電話をかける。
呼び出し音が鳴る間、深くゆっくり呼吸することを心掛けた。
――今誰よりも不安なのは、私じゃない。マークさんだ。
相手が電話に出る。
冷静さを取り戻した雪花は、手短に相手に状況を伝え、電話を切った。
隣を見ると、マークは無表情のままで地面に座り込んでいる。
そのいつも穏やかだった金色の瞳は輝きを喪い、絶望の色に塗り潰されていた。
雪花はその痛々しい様子に口唇を噛む。
――私はこのひとに、何をしてあげられるだろう。
目の前のマークを見ながら、雪花は必死で考えた。
この緊急事態を打開できるのは、残念ながら自分ではない。
それでも――自分にできることを、しなければ。
雪花はマークの手を、そっと優しく両手で包み込む。
虚ろな表情をしていたマークがぴくりと反応し、雪花の顔を驚いた表情で見つめた。
雪花はそんな彼に、精一杯の笑顔で応える。
「マークさん、大丈夫ですよ。すぐに助けが来ます。それまで私が一緒にいるから――大丈夫」
きっと私の話している言葉の意味なんて、今の彼にはわからないだろう。
大丈夫かどうかなんて保証だって、何もない。
それでも――私は私にできることをしよう。
――だって、私はあなたのことが、好きだから。
包み込んだ雪花の手を、マークが強く握り返した。
その眼差しには、少し落ち着きが戻っている。
言葉はなくとも、想いは伝わるのかも知れない――マークの熱を手に感じながら、雪花はそれを嬉しく思った。
「――マーク!!」
どのくらいの間、そうしていただろうか――焦ったような足音と高い声が静寂に沈む深夜の空間を裂く。
二人が顔を上げると、そこにはJAXA職員の古内が荒い呼吸で立っていた。
家を飛び出してきたのだろうか――普段は綺麗に整えられている髪は風に乱れ、化粧も最低限だ。
しかし、薄紫色のレンズを嵌めたその眼鏡は、雪花のそれよりも女性らしさを感じさせるものだった。
「マーク……あぁ、何てこと……!」
いつもは冷静な彼女も、さすがにこの状況は想定していなかったようだ。
整った顔を歪ませ悲嘆に暮れる古内を前に、雪花はマークを支えながら立ち上がった。
「――古内さん、夜分遅くにご連絡をしてしまい、申し訳ございませんでした。先程お電話でお伝えした通りの状況です。あとは、お願いしてもよろしいでしょうか?」
雪花の言葉に古内ははっと我に返り――そして一つ深呼吸をしたあと「お見苦しい様子を見せて、失礼しました」と頭を下げる。
顔を上げた彼女は、既に落ち着きを取り戻していた。
「鈴木さん、諸々のご対応ありがとうございました。鈴木さんのお蔭で最悪の事態を防げました。ダニーとジョシュについても、情報のご提供ありがとうございます。あとは我々の方で対処します」
そして、古内はマークの方を向き、手でこちらに来るようにと促す。
マークはこくりと頷き、古内の方に歩いていった。
古内の肩を借り、自分の元から離れていくその背中を見て――雪花はいつか見た夢を思い出す。
夢の中で倒れ込むマークを支える古内。
二人は見つめ合い、そして――
「――マーク?」
古内の声で、雪花は現実世界に引き戻される。
目の前にいるマークは、古内の隣でその足を止めていた。
どうしたのだろう――そう雪花が不思議に思った刹那、マークが振り返る。
その金色の瞳は、まっすぐに雪花の姿を捉えていた。
マークはそのまま無言で雪花に歩み寄り、そして――
「マークさ――」
雪花の言葉が、マークの胸の中に吸い込まれる。
戻ってきたマークは、力強く――それでいて優しく、雪花を抱き締めた。
「えっ!?」
思いがけないマークの行動に、一瞬で頬が熱くなる。
驚いた古内の顔を肩越しに見ながら、雪花は固まった。
男性に抱き締められるなんて、初めてのことだ。
どうしたら良いのか戸惑っていたその時――雪花は気付く。
自身を抱き締めるマークの身体は――わずかではあったが、震えていた。
その理由を雪花が知る術はない。
それでも――大切なひとが懸命に伝えようとするその想いに、ただただ応えたいと思った。
雪花は自身を包むその熱の心地良さに身を委ね、そっと彼の背中に手を回す。
――ふと、マークの震えが止まったような、そんな気がした。
「――それでは、鈴木さん。私たちはここで失礼いたします」
雪花から離れたマークは、いつも通り真面目な表情で古内の隣に立っている。
彼は雪花に向かって、深々と礼をした。
つられて、雪花もマークに礼を返す。
顔を上げた雪花の目に映ったのは、優しく微笑むマークの笑顔で、そして――
――それが、私が見たマークさんの最後の姿だった。
***
「――そんなことがあったのか……鈴木、大変だったな」
翌朝、雪花は部長の鳥飼と課長の浦河に声をかけ、総務課の会議室で二人に状況を報告した。
「それにしても、とんでもない奴らだ……! マークくんと同じ火星人とはとても思えん。コンプライアンスの欠片もない」
憮然とした表情の鳥飼が吐き捨てる。
その隣で、浦河が溜め息を吐いた。
「まぁ、今の俺たちにできることは、古内さんに余すことなくマークの功績をレポートするくらいか」
「奴らを引き摺り下ろす告発文も書いてやりたいところだが」
「そりゃ俺たちがやらなくても、JAXAがちゃんとやるでしょ。とにかくマークが不利益を被らないように、俺たちはやるべきことをやりましょ」
鳥飼の携帯電話が鳴る。
次の会議に呼ばれたようだ――謝る仕種をしながら、鳥飼は会議室を出て行った。
扉が閉まったところで、浦河が雪花の方を向く。
「――ところで鈴木、大丈夫か?」
思いがけない言葉に、雪花は「えっ」と声を洩らした。
「はい、えっと――仕事量は今より増えるので、ちょっと大変ですけど。元々一人でしたし、大丈夫です」
そう答えると、浦河が「仕事量もまぁ、あれだが……」と顔を曇らせる。
「その、何だ――きっとあいつは、大丈夫だ。マークがすごいやつなのは、俺たちが一番知ってるだろ。だから、俺たちはできる限りのことをしてあいつを送り出してやろう。心配しなくても良い――ちゃんと神様は見てるよ」
浦河の言葉が、心の奥の――張り詰めていた糸を、小さく震わせた。
思いがけず目頭が熱くなって、雪花はぐっと口唇を噛み締める。
「――さて、煙草でも吸ってくるか」
そう言って、浦河が席を立った。
――そして、定時のチャイムが社内に鳴り響く。
浦河は雪花の様子を気にしていたが「あおいちゃんも待っていますし、帰ってあげてください」と送り出した。
雪花は片付けたマークの席を、改めてチェックする。
18時に古内がマークの私物を取りに来る約束になっていたが、特に渡すようなものは見当たらなかった。仕事関係の書類は共通のファイルにきちんと綴じられており、お願いしていたデータも全てフォルダに格納されている。
――まるで、いつか自分が突然いなくなることを、予期していたかのように。
誰もいなくなった部屋で、雪花は一人、マークのことを思い出す。
目を閉じれば、自分を優しく抱き締めたあの感触がよみがえるようだった。
つい感傷に浸りそうになってしまい、ため息を吐いたところでスマホが鳴る。
古内が到着した知らせだ。
総務課を出てエレベーターホールに向かうと、既に古内はそこに立っていた。
昨日とは異なり、長い髪はゆるやかに巻かれ、整った顔に明るい色のジャケットが映えている。
その顔に眼鏡はない――きっと普段はコンタクトを付けているのだろう。
「こんばんは。昨日はありがとうございました」
「いえ、こちらこそわざわざお越し頂いて――私物は特にありませんでした。ご足労頂いたのに、申し訳ございません」
本来であれば、私物がないことがわかった時点で連絡を入れるところだろう。
しかし、雪花はどうしても、古内に逢って訊きたいことがあった。
「そうですか、特に問題ございません。いずれにせよ、お伝えすることもありましたので――マークですが、明日火星に発つことになりました。」
想定外の台詞に、雪花は思わず目を見開く。
「……あ、明日ですか!?」
「はい。意思疎通ができない状態では、地球に滞在することも難しいので。そして、本来であればお世話になった皆様にご挨拶に伺うところですが、状況が状況ですので今回は控えさせて頂きます。また改めて浦河さんたちには私からご挨拶に伺いますので、その旨お伝えください」
先手を打たれたような形になり、雪花は言葉を喪った。
『――もう一度、マークに逢うことができないか』
それを正に訊こうと思っていたのだ。
「そう……ですか――」
声の震えを抑えながら、雪花が辛うじてそう答える。
すると、古内が申し訳なさそうに眉を寄せた。
「ごめんなさいね……鈴木さんには本当にお世話になったので何とかしたかったのですが、規則で決められていてどうしようもないんです。ですが――その代わりに、お渡ししたいものがあります」
「……渡したいもの? 私に、ですか?」
古内が頷いて、肩にかけた鞄から何かを取り出し――そしてこちらに差し出す。
雪花がおずおずと受け取ると、それは一通の封筒だった。
「――マークから預かってきました。あなた宛ての手紙です。火星語から日本語に翻訳してありますので、ご安心ください」
思いがけない言葉に、雪花が顔を上げる。
目の前の古内は優しい笑みを浮かべていた。
「あなたのお蔭で、マークは貴重な日々を地球で過ごすことができました。終わり方こそ悔いが残るものでしたが――鈴木さんには心から感謝しております。マークがお世話になり、本当にありがとうございました」
そして、彼女は深々と頭を下げる。
「そんな――こちらこそ、マークさんに何度も助けて頂きました。古内さん、ありがとうございました……!」
雪花の言葉に、古内はその整った表情を明るい笑みに染めた。
「それでは失礼いたします」と、彼女は軽やかな足取りで到着したエレベーターに乗る。
そして、振り返りざまに口を開いた。
「鈴木さん――ありがとうございました。私もあなたに出逢えて、良かった」
エレベーターのドアが閉じる。
その後も、雪花はなかなかその場を離れられなかった。
第24話 言葉はなくとも (了)
次回、最終回です。





