第23話 清澄と泥濘
――たとえそんなことはありえないとわかっていても。
第23話 清澄と泥濘
雪花はこちらを見る二人の火星人の顔を、戸惑いながらも見つめ返す。その間にも、ダニーの放った台詞が頭の中を巡っていた。
――今この人、マークさんがずっと地球に居る方法があるって……そう言った?
ダニーはにやにやと不遜な笑みを浮かべている。一方、もう一人の男――ジョシュは変わらず不機嫌そうな表情をしていた。
どうリアクションするべきか雪花が迷っていると、ダニーが言葉を続ける。
「俺達が地球に来た目的は、スズキさんも知っているだろう?」
「……いえ」
自分から情報を出すのは得策でない――そう判断した雪花は、無表情で答える。
それに対して、ダニーは「おや、それは失礼」と全く意に介する様子もなく喋り続けた。
「俺達は火星政府の一員となるための資格を持つ者――いわゆる幹部候補生だ。ここに至るまでに色々と経緯があるんだがまぁそれは良いとして――その最終選抜試験がこの地球での実習というわけだ。こいつさえ無事に終えることができれば、俺達は火星に戻り、実習の成果を踏まえ決められた配属先で政府の一員として働くことになる」
雪花はダニーの話を初めて聞くような体で「そうなんですか」と適当に頷く。内容はマークから事前に聞いていたものと合致していた。少なくとも現時点では、こちらを騙そうとしているわけではないらしい。
「――それが、マークさんが地球に残ることとどう繋がるんですか?」
「何、簡単な話だ。マークが火星に戻るのは、政府の一員として働くためだ。つまり――その必要性がなくなってしまえば良い」
「……言っている意味がよくわかりません」
すると、それまで黙っていたジョシュが「話の通じない女だな、考えればわかるだろ」と苛立った様子で口を挟んだ。
「マークの奴がこの地球実習で『失格』になれば、火星に戻る必要はないとダニーさんは言っているんだよ……!」
そして、ハイボールを一気に煽る。ダニーが「ジョシュ、まぁ落ち着け」と言ってから、雪花の方に向き直った。
「そう、ジョシュが言った通りだ。俺の見た限りだが、あなたとマークはそう悪くない仲だろう――どうだ、俺達と協力してマークを失格にさせないか? あいつが犯したミスや失態について教えてもらえれば、それをあのJAXAの女に俺達から報告するだけで済む。多少話を大きくして伝えれば、JAXAから報告を受けた火星側もその内容を無視することはできないはずだ。マークが地球に残るのは、あなたにとっても悪い話ではないだろう?」
――荒唐無稽な話だ、上手くいくはずがない。
仮にダニー達がそんな報告をJAXAにしたところで、彼らがその内容をそのまま受け取るだろうか。まず事実確認のために、雪花の会社――恐らく部長の鳥飼や課長の浦河に連絡があるはずだ。その時点でマークの疑いは晴れる。
そもそも、こんな話に自分が乗るとでも本気で思っているのだろうか。
火星人にとってアルコールがどんな影響を及ぼすかはわからないが、少なくとも冷静な判断力は喪われているようだ。そうでもなければ、腐っても『幹部候補生』であるはずの彼らが、こんな幼稚な作戦に行き当たるとも思えない。
酒に呑まれた二人の火星人を冷めた心持ちで見つめながら、雪花はただこの場を立ち去る術を考えていた。
――しかし、その決意はジョシュが放った台詞で思いがけず揺らぐ。
「そっちの方がマークの奴も助かるんじゃねぇの。あんな半端者、火星に戻ったってどうしようもないだろ」
「……どういう意味ですか?」
雪花の目付きが変わったことに気付いたのか、ダニーが厭らしい笑みを浮かべた。
「スズキさん、あなたは火星であいつが何をやっていたか、聞いたことはあるか?」
「……火星の地底で、長い間働いていたと聞きましたが」
言葉を選びながら最低限の情報を伝えると、ダニーとジョシュは互いの顔を一瞥し合い――そして、下卑た笑い声を上げる。
耳障りな声に雪花が顔を顰めると、「あぁすまんすまん、まぁ嘘は言っていないな」とダニーが笑いながら言った。
「それなら教えてあげよう。あいつにはな――忌々しいことだが、火星の王の血が流れているんだ」
「――え……?」
全く想定していなかったその言葉に、雪花は目を丸くする。
ダニーは自分の前髪を手で上げて、雪花の前に顔を突き出してみせた。
「ほら、俺の瞳の色、マークと同じだろう。これは王の血を引く者の証さ。だから俺は幹部候補生として地球実習に来ている。一方、ジョシュは庶民の出だが、非常に優秀で数々の選抜試験を突破してきた男だ。俺達は居るべくしてここに居る。だが――マーク、あいつは違う」
「何が違うんですか。今の話が本当であれば、マークさんもあなたと同じ王族なんでしょう。私が聞いた話とは齟齬がありますが、マークさんだって幹部候補生であることに変わりはないはずです」
「違うんだよ。あいつは王の血を引いている――だが、『王族ではない』」
そして、ふんと馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「あいつの母親は俺の父親である王の何番目かもわからない妾だった。特にあの女は身分も低い癖に色仕掛けだけで父の寵愛を受け、末席ではありつつも図々しく王族として居座っていたんだ。だからあの女が病気で死んだ瞬間、一人息子のマークは用済みになり――そのまま地底の最下層に堕ちたのさ」
『そいつは最早、大した家柄でもない欠陥品だ』
あの納涼祭の夜にダニーが投げかけてきた言葉と、マークが話していた地底の話が雪花の中で繋がった。
しかし、雪花にとっては初めて聞くことばかりで、情報の整理が追い付かない。それでも何か言い返さなければと、雪花は辛うじて口を開いた。
「……もしそうであったとしても、マークさんがここに居るということは、地底から厳しい選抜試験を通過してここに辿り着いたということでしょう。何故そんなに目の敵に――」
「そんなわけないだろう!」
ジョシュが声を荒げ、雪花は思わず言葉を飲み込む。
彼は苛立ちの籠った目で雪花を睨んでいた。
「最下層まで堕ちた人間が、そんな簡単に選抜試験を通過できるわけがない。どうせ王族の時のコネでも使って幹部候補生になったんだろう――そういう卑怯な奴が俺は許せないんだ!」
その言葉の端々から怒りが伝わってくる。そんなジョシュに感化されたように、ダニーの表情も暗く歪んだ。
「そうだ、あいつは目障りなんだよ。やっと俺の前から姿を消したと思ったら、まさか俺の地球実習と同じタイミングで入り込んでくるとは……! 負け犬野郎がその生まれの卑しさそのものの生き方をしているせいで、正当に選ばれた俺達のチャンスが脅かされているんだ。それを阻止しようとして何が悪い!」
ぎらりと光るその瞳はマークと同じ色のはずだが、雪花の目には濁って見える。
「そう、俺達が引導を渡してやるのさ――あの卑怯者に!!」
――まるで呪詛のように吐き出される言葉達を前に、雪花は一人、口唇を噛んで耐えていた。
気を抜けば怒りのあまり、口から罵詈雑言が飛び出してしまいそうだ。偏見と嫉妬に狂い、他の候補者を不当に引き摺り下ろそうとする――そんな者達が果たして幹部候補生と言えるのかと。
しかし、そんなことをすれば、少なくともこの場の状況は悪くなる一方だろう。
冷静になろうと、雪花は細く長く息を吐いた。
とにかくこの場を無事に立ち去ること――それが雪花にとっての最優先事項だ。
「……話はわかりました。ですが、現状マークさんに目立ったミスはありません。このままでは、あなた方のお役には立てないと思います」
雪花はダニーとジョシュの様子を窺いながら、そう答える。
「――ただ、それはあくまで現状の話です。もしかしたら、今後……そう、『偶然』何か起こるかも知れません。その時にお二人に私からご連絡するという形でいかがでしょうか」
その雪花の言葉に、ダニーがにやりと口元を歪めた。
「成る程……『偶然』何かが起こることは十分にあり得るな。それは良い考えだ――おいジョシュ、彼女と連絡先を交換しろ」
雪花は澱んだ眼差しのジョシュと連絡先を交換する。
この場さえ切り抜けられれば、相手をブロックするか、最悪は連絡先を変えてしまえば良いだろう。面倒だが、背に腹は代えられなかった。
形だけの儀式を終えて、雪花は財布から千円札を出し、机の上に置く。
「――それでは、私はここで失礼します」
そして立ち上がろうとしたところで――ダニーに腕を掴まれ、雪花の心に戦慄が走った。
「そんなつれないことを言わなくてもいいだろう、もう少し付き合わないか?」
「いえ、時間も遅いですから……」
「――俺達も気になるのさ、何故あなたがあいつを気に入ったのか。一体あいつのどこに惹かれた? 母親と同じで、『あちら』の方が良かったのかな?」
ダニーの言葉の意味を理解した瞬間、かっと頭に血が上る。
――駄目だ、口車に乗っちゃいけない。
耐えなきゃ……!
「まぁ、それくらいしか考えられまい。あんな無能、火星どころか宇宙のどこにも居場所なんてないだろう。汚い手を使ってまでのし上がってきたのに、本当に哀れな――」
「あります」
「……あ?」
――気付けば、雪花の口から言葉が飛び出していた。
自分の中で、理性と感情がせめぎ合っている――それを理解しながら、雪花は一つ息を吐く。
その瞬間、覚悟は決まった。
雪花はそっと感情の背中を押し――ダニーをまっすぐに見据える。
「――マークさんの居場所は、今は私達と共にあります。でも、それだけじゃない。あのひとは、自分の力で運命を切り拓けるひとです。どんな逆境に置かれても、諦めずに努力を続けて前に進むことができる――それは火星に戻っても変わらない。変わることなんてない、絶対に」
こちらに向けられる二対の強張った視線を感じながら、雪花はダニーの手を振り解いた。
「あなた方はマークさんの居場所が火星にないと言いましたが、あのひとは自分だけの力で新たな居場所を作るでしょう。そんな彼の足を引っ張ることなんて私にはできません。正面から彼と勝負ができないのなら、他を当たってください。但し、仮にどんな報告があったとしても、彼を知る全ての地球人が『それは嘘だ』と証言しますよ。だって――それだけの信頼を、彼は私達から勝ち得ているのだから」
そう――恐らくあなた方とは違って。
そこまで言ってしまいたいところだったが、息を潜めていた理性の存在を思い出し、雪花はすんでのところでその台詞を飲み込んだ。
気付けば、目の前の火星人二人はこんな反撃を受けるとは思っていなかったのか、呆けたように雪花を見上げている。
――そうだ、今の内に逃げなきゃ。
そう雪花が我に返った瞬間、ガラリと部屋の引き戸が開く音がした。
そこに立っている人間を見て、雪花は思わず「えっ」と声を洩らす。
そこに居たのは、澄んだ金色の瞳を持つ火星人――鈴木・マーク・太郎だった。
第23話 清澄と泥濘 (了)