第22話 そして悪魔は囁いた
――ずっとこの時間が、続いてくれたならいい。
第22話 そして悪魔は囁いた
翌日、雪花はいつものように早めに出社し、仕事を始めた。
しかし、昨日妹の花菜から見せられたSNSの書き込みが、頭の中をちらついている。
『何か隣の席で飲んでるやつ、自分が火星人とか言ってるんだけど』
お風呂上がりにそれとなく花菜に聞いてみたが、昨夜の段階ではその書き込みに対してそこまでの大きなリアクションはないようだった。雪花は一人胸を撫で下ろす。
マークとは全く関係のない酔っ払いの戯言かも知れない。
それでも、彼に何の影響もないようにと願ってしまうのだった。
「――おはようございます」
総務課の扉が開いて、マークが入ってくる。「おはようございます」と返しながら、雪花はその顔を見てほっと安堵の息を吐いた。
「あの、マークさん。昨日の夜って、どうされていましたか?」
鞄を下ろして席に座ったマークに尋ねると、彼は穏やかな表情のまま首を傾げる。金色に輝く瞳が雪花を捉えた。
「昨日ですか? 実は――」
ガチャリ
マークの言葉を遮り、総務課の扉が再度開く。
そこに立っていたのは、部長の鳥飼だった。思いがけない訪問者に雪花が驚いていると、マークが立ち上がって鳥飼の方に近付いていく。
「トリカイ部長、おはようございます。昨日はありがとうございました」
「いや、こちらこそ助かったよ。遅くまで付き合わせて申し訳なかったね」
鳥飼がその厳しい眼差しを緩めた。随分と嬉しそうだ。マークと鳥飼の顔を順に見比べていると、マークが微笑む。
「実は、昨日トリカイ部長に夕食をごちそうになったのです」
「えっ、そうなんですか?」
鳥飼が咳払いをした。
「あぁ、実は昨日の定時後に急遽お願いしたい作業ができてしまってね。総務課に来たらまだ彼が残っていて、全て対応してくれたんだ」
「以前セツカさんにやり方を教わっていたので、私一人で対応できました」
「そうだったんですね。マークさん、ありがとうございます」
「トリカイ部長にそば屋さんに連れて行って頂いたのですが、とてもおいしかったです」
そうマークが言うと、鳥飼の表情が更に綻ぶ。この顔を浦河が見たら驚いてしまうだろう――そう思いながら、雪花も小さく微笑んだ。
元々マークがそんな軽率な言動をするとは思っていなかったが、鳥飼と共にそば屋に行っていたのであれば、間違いないだろう。
花菜の友人が遭遇したのは、マークではない。
「それにしてもあの部長とサシでそば屋とは――何だか食った気にならなさそうだな。ちゃんと味したか?」
山菜そばを啜りながら、浦河が悪戯っぽい笑みを浮かべてマークに話しかける。マークは定食の回鍋肉を一口食べて、口元を緩めた。
「勿論です。社員食堂では見たことのないそばの種類が沢山あって、どれを食べるか迷ってしまいました」
「何を食べたんですか?」
「トリカイ部長おすすめの鴨せいろを食べました。温かい汁に冷たいそばをつけて食べることに驚きましたが、おいしかったです」
一頻り鳥飼とマークのディナーの話で盛り上がり、食べ終えた後はいつものように煙草を吸いに行く浦河を見送る。
雪花とマークが二人で社食を出たその時――廊下の向こう側から、同期の晴山が歩いてきた。
思わず雪花の足が止まる。
晴山の視界に雪花が入り、彼の表情も一瞬止まった後――ふっと優しい笑顔に変わった。
「おっ、鈴木、マークさん、おつかれ!」
普段通りの明るい声に、雪花の表情も綻ぶ。
「うん、晴山くん、おつかれ」
「ハレヤマさんこんにちは」
晴山は雪花の隣に立つマークに笑顔を向けた後、さりげなく雪花にウインクをしてみせた。雪花は小さく頷く。
そして晴山はそのまま通り過ぎて行った。
「ハレヤマさんはいつも素敵ですね」
総務課に向かう道の途中でマークが呟く。
ふと隣を見ると、マークは真面目な表情で前をじっと見つめていた。
その表情の裏にどんな感情が隠れているのか――雪花にはわからない。だから、雪花はめいっぱいの笑顔を作った。
「はい、晴山くんは自慢の同期ですから。でも、マークさんだって素敵です」
マークが驚いたように目を見開き、こちらを向く。雪花が笑みを浮かべたままでいると、マークが少しだけ困ったような顔で口元を緩めた。
「……何だか言わせてしまったみたいで、すみません」
「えっ、そういうつもりじゃ」
「冗談です。ありがとうございます、セツカさん」
そして、二人で顔を見合わせて、もう一度笑う。
あと4ヶ月弱、こんな時間が続いてくれればいいと雪花は思った。
***
「はぁ、やっと終わったー」
雪花は一人、大きく伸びをする。
総務課の室内には誰も残っていない。16時頃に人事課から急ぎの資料を頼まれたのだった。マークが手伝いを申し出てくれたが、個人作業だったので先に帰ってもらった。
晴山と食事したのはもう先々週のことだ。
あれ以降も花菜と話す際にさりげなく探っているが、『火星人』の目撃情報は出てこない。もうあまり気にするのはやめようと雪花は思った。
この週末は、またマークと出掛ける予定になっている。
この前池袋サンシャインのプラネタリウムに二人で行ったが、実は隣にある水族館も気になっていたというので、今度は水族館に行くことになった。といっても同じ池袋ではつまらないので、品川にある水族館に行こうかと話をしている。
マークが地球の文化を学ぶため――それは自分にとって都合の良い言い訳だと、雪花は自覚していた。それでも、マークも楽しみにしている様子を見ると、別にいいじゃないかと思えてくる。
残り時間はあと3ヶ月半。
その先に何が待ち受けていようと、悔いのない時間を過ごそうと雪花は決めていた。
部屋の時計を見ると20時を回っている。
おなかも空いてきたので帰りに夕食を取ろうと考えながら、雪花はPCの電源を落とした。
何を食べようか。
そういえばこの前、マークが鳥飼と鴨せいろを食べたという話をしていた。実は雪花もそんなに食べたことのないメニューで、心惹かれる。
オフィスを出たところで、スマホで近くのそば屋を検索した。
ラストオーダーが終わってしまっている店もあったが、23時まで開いている店が1軒ある。調べてみると居酒屋のようだったが、メニューに鴨せいろもあったので、雪花はその店の方向に歩き出した。
普段使っている駅を通り過ぎ、案内に従って地下に向かう。
店の前に到着すると、中からは賑やかな声が聞こえた。随分と繁盛しているようだ。
週末ではないが、入れるだろうか――少し心配しながらドアを開けたところ、店内は客が多いものの、何とか入れそうだった。
「すみません、少々お掛けになってお待ちください」という店員の声が響き、雪花は入口付近の椅子に腰かける。
良かった、何とか夕食にありつけそうだ。
鴨せいろを食べたら、明日マークさんに報告しよう。
そう考えながら、雪花は人知れず小さく微笑む。
――そんな雪花の思考を遮ったのは、男の声だった。
「――偶然だな、あなたはマークの同僚じゃないか?」
雪花ははっと顔を上げる。
そこに立っていた男の瞳は――金色だった。
ほのかに赤く染まったその顔には見覚えがある。あの納涼祭の夜、マークに話しかけてきた男だ――そう気付いて、雪花の頭の中に疑念が渦巻いた。
『火星人にアルコールを飲ませないように』
それは、NASAおよびJAXAからの通達に記載された一文だ。マーク自身もそれを認識し、規定だからとお酒は一滴も飲んでいない。
しかし、目の前の男は、雪花の目には明らかに酔っているように見えた。
その疑念によって、雪花の反応が遅れる。
気付いた時には、金色の瞳の男――ダニーは雪花の隣の椅子に座っていた。
「――人違いです」
そう言って立ち上がろうとした雪花の手を、ダニーが握る。固まる雪花に、ダニーは言った。
「人違いなわけがない。俺は確かにあなたの顔を覚えている。あのマークと一緒に居たんだ……忘れるものか」
火星人からすると、地球人の顔なんてどれも同じだろう。
それでも、その声は冷静で――確固とした自信に満ちていた。
思わず手を振り解こうとすると、ダニーが「止めた方が良い」と続ける。
「先日からのあなたの様子を見ると、あなたはマークの正体を知っているはずだ。もしそうであれば、この俺の正体も知っているだろう。ここで目立って俺の存在が知られたら、あなたも困るのでは?」
雪花がダニーの方を向くと、彼は不敵な笑みを浮かべていた。
その笑みを見ながら、ふと雪花はSNSの書き込みを思い出す。
『何か隣の席で飲んでるやつ、自分が火星人とか言ってるんだけど』
――もしかして、あれはこの人のこと?
混乱する頭の中を整理しようと努めながら雪花は一人口唇を噛んだ。そんな雪花を見て、ダニーが口を開く。
「丁度良い。ここで逢ったのも何かの縁だ――あなたに話したいことがある。あちらで一緒に飲まないか?」
***
通されたのは奥の個室だった。
ダニーだけかと思いきや、そこにはもう一人男が座っている。
こちらを見上げるその瞳は――マークやダニーとは異なる茶色。冷めた眼差しで暗い雰囲気を纏うその男は、雪花の目にはごく普通の人間に見えた。
「――△△△△△さん、何ですかその女」
――そう、その聞いたことのない音を彼が発するまでは。
「ジョシュ、客人だ。その名前で俺を呼ぶな」
「そういうことですか。わかりました、ダニーさん」
そう言って、ジョシュと呼ばれた男が一つ奥の席に移動した。
机の上に置かれたジョッキには、薄い黄金色の液体が並々と注がれている。ジョシュがそれを一口飲んで、また机の上に置いた。ジョッキのデザインも踏まえて考えると、恐らくハイボールだろう。
ジョシュの向かい側の席にも同じ飲み物が置かれている。これはダニーの飲んでいたものに違いない。
ダニーに促され、雪花は先程までジョシュが座っていた席に着く。
部屋の出口に近いことがせめてもの救いだろう。
店員が入ってきて飲み物を訊かれ、雪花はウーロン茶をオーダーした。
「そういえば、あなたの名前を訊けていなかったな。俺はダニー、こいつはジョシュ。あなたの想像する通り、マークと同じ惑星の者だ」
そうダニーが言うと、ジョシュが「マーク?」とぴくりと反応する。
やはりこのジョシュという男も火星人のようだ。雪花は二人を観察しながら「私の名前は、鈴木です」と名乗った。
ダニーは金色の瞳を細めて、満足そうに笑む。
「スズキさんか。よろしく」
近くで見ると、マークよりも若干幼い顔立ちだが、その顔はやはりフィクションの世界から飛び出してきたかのように整っていた。
一方、向かいに座るジョシュの視線には、苛立ちが含まれているように感じられる。あまり良いとは言えない目付きは鋭く、黒い前髪は目を隠すように伸びていた。
店員がウーロン茶を運んできたところでダニーから乾杯を求められ、雪花は戸惑いながらグラスを合わせる。
ダニーもジョシュも迷うことなくハイボールを飲んだ。
随分と飲み慣れた様子だ。
「――それで、私に話したいことって何ですか?」
店員が去ったことを確認した後で、雪花は淡々と言葉を紡ぐ。
すると、嬉々とした表情のダニーが「そうだそうだ」とジョッキを机に置いた。
――そして彼の口から飛び出した言葉に、雪花は思わず言葉を喪う。
「スズキさん――マークにずっと地球に居てもらう方法があるんだが、知りたくないか?」
戸惑いの色を隠せない雪花を、二人の火星人はそれぞれの瞳でじっと見つめていた。
第22話 そして悪魔は囁いた (了)