第20話 星空を見上げて
――あなたと過ごす時間が残り少なかったとしても、共に居られることが私の幸せでした。
第20話 星空を見上げて
「――今度の週末ですか?」
雪花が問い返すと、隣を歩くマークが頷き、少し口元を緩めた。
「はい。もし雪花さんがよろしければ、ですが」
納涼祭が終わり、夏季休暇も過ぎて、少しずつ夏の終わりが見えてきている。
暑さはまだ続いているが、来週には9月――時の流れは随分早いものだと、雪花はマークの顔を見ながら思った。
今は昼休み、いつものように食堂で昼食を終え、総務課の部屋まで戻る途中だ。食後の一服に向かう課長の浦河と別れたところで、雪花はマークから「週末に出掛けませんか」と声をかけられたのだった。
これまでにも、マークと週末に出掛けたことはある。
1回目は、マークがこの会社にやってきた月のことだった。浦河からマークを観光に連れて行くように促されて、二人で東京スカイツリーに行った後、旧作の映画を観に行った。そこで、思いがけず部長の鳥飼と遭遇し、彼の隠された顔を知ることになった。
2回目は、先月の頭だった。あの時は、雪花からマークを誘った。以前『滞在中にできる限り地球の文化に触れたい』と話していたマークのリクエストに応えようと、上野動物園に連れて行った。あの時は迷子になっていた浦河の娘、あおいと偶然出逢い、彼女を浦河に引き渡せたのは良かったが、その後マークが体調を崩してしまったために、雪花の中では少し苦い思い出となっていた。
そして、今回は3回目となるが――マークから誘われたのは初めてだ。
「セツカさんにはいつも大変お世話になっていますし、納涼祭でも色々とサポート頂きましたので……お礼がしたいのです」
「そんな、お気遣い頂かなくても大丈夫ですよ」と答えつつも――雪花は内心、マークからの誘いを嬉しく感じていた。
マークが雪花の前に現れてからもうすぐ4ヶ月、丁度折り返し地点だ。予定通りいけば、今年の年末に彼は火星に帰ることになっている。そして、選抜試験の結果に従って、火星における公務員のような職業に就くのだ。
それは、雪花には想像もできないような長い間、マークが懸命に積み重ねてきた努力の結晶であって、喜ばしいことだと頭では理解しつつも――雪花は心のどこかで寂しさを感じていた。
だからこそ、残された時間、自分にできることをしようと雪花は誓った。
マークが地球で様々な経験をすることは、選抜試験にとっても決してマイナスにはならないはずだ。
何より――マークと共に過ごせることが、雪花にとっては嬉しかった。
「でも、マークさんがそう仰って下さるなら、是非お願いします」
そう答えると、マークは穏やかに微笑む。
「ありがとうございます。楽しみにしています」
その笑顔を見ながら、雪花もマークに笑みを返した。
そして――ふと、同期の晴山に思いを馳せる。
夏季休暇中、晴山からはたまにSNSで連絡が来た。日々友人達と色々な所に出かけ、休暇を楽しんでいる晴山は、帰省先の実家で特段の予定なく過ごしていた雪花にとって輝いて見える。
送られてくる写真を眺めていると、雪花も何だか楽しい気持ちになれた。
――しかし、その写真の中に、自分が居るイメージはあまり湧かない。
晴山と話すのは楽しいし、同期だから或る程度気心も知れている。しかし、晴山と居る時とマークと居る時、同じポジティブな感情にも違いがあることを、雪花は感じていた。
そして、晴山もそれに気付いているのではないかということも。
晴山は『俺のこと好きになるかどうか、試してみて』と言ったが、曖昧な気持ちのままでいるのはやはり彼に対して失礼だと雪花は考えていた。
もしかしたら、マークと過ごすことで見えてくることがあるかも知れない。
その感情の名前をはっきりさせるのは――少し怖いけれど。
***
そして迎えた週末、JR池袋駅の地下改札を出た雪花の目に映ったのは、一人真剣な表情でスマホ画面に見入るマークの姿だった。
ネイビーのポロシャツのお蔭か、普段会社に居る時の印象とは違って見える。雪花がそろそろと近付いて行って「マークさん、お待たせしました」と声をかけると、マークが驚いたように雪花を見た。
「すみません、全然気付きませんでした」
「何をしていたんですか?」
雪花の問いに、マークが「そうですね……」と小さく苦笑いする。
「今日は私がセツカさんをご案内するので、失礼がないように行程の最終確認をしていました」
――そう、今日の予定は全てマークが決めた。雪花は集合時間と場所しか知らされておらず、今日これからどこに行くのか、何をするのかもわからない。
マークの言葉に、思わず雪花は吹き出す。
「そんな、気にしないでください」
「いいえ、セツカさんの貴重なお時間を頂いていますので。楽しんで頂けると良いのですが……」
「もう楽しいですよ。ワクワクしています」
そう伝えると、マークが雪花の顔を見て、穏やかに微笑んだ。
「――では、もっと楽しんで頂けるように」
そして、マークの案内に従って、二人で地下道を歩き出す。
雪花は池袋駅にこれまであまり来たことがなかった。地下道を進んでいる間も、様々な路線の改札口があり、デパートの入口や多くの店が並んでいて目移りしてしまう。
少し前を歩くマークが迷いない足取りで進むので、とにかく付いて行くことにした。
「――おなかいっぱい。パスタもデザートも、すごくおいしかったです」
地下の店を出てサンシャイン通りを歩きながら、雪花は隣を歩くマークを見上げる。すると、マークは嬉しそうに微笑んでみせた。
「それは良かったです」
そもそも、わざわざ席が予約されているとは思わなかった。お店はどうやって調べたのだろうか。
どのメニューも美味しそうで目移りしていると、マークから提案があり二皿をシェアすることになったのだが、どちらも美味しくて驚いた。オイルベースのパスタはシーフードが盛り沢山で食べ応えがあったし、トマトソースのパスタにはチーズフォンデュがかかっていて濃厚な味わいだった。デザートに出て来たシフォンケーキはしっとりとしていて、添えられている生クリームとベリーソースのお蔭でぺろりと食べられた。
マークもフォークを問題なく使いこなして、食事を楽しんでいた。その姿は、とても300歳を超えた火星人には見えない。
マークに促され、池袋のランドマークとも言える複合施設サンシャインシティの方向に向かって歩きながら、雪花は口を開いた。
「実は私、池袋にはあまり来たことがないので、土地勘もないんです。マークさんは地下道でも全然迷っていなかったですし、すごいですね。前に来たことがあるんですか?」
「はい、いえ――その……」
マークは口ごもった後、バツが悪そうに口を開く。
「……実はイケブクロに来るのは2回目なんです」
「そうなんですね、前回はいついらしたんですか?」
「……先週です」
――先週?
首を傾げる雪花に、マークが観念したように言った。
「ちゃんとご案内できるか心配で、下見に来ました」
「――えっ」
「言わないでおこうと思ったのですが、セツカさんにはバレてしまいそうなので……」
そして、少し恥ずかしそうに黙る。
その様子を見て、雪花は自分の胸があたたかい気持ちで満たされるのを感じた。
下見の甲斐があってか、サンシャインシティの中に入ってからも二人は迷うことがなかった。数多くの店舗、オフィス、ホテル、劇場、展望台に博物館やイベントスペースまでもが共存する巨大施設は、初めて来た雪花からすると迷路のようだ。
「マークさんが下見をしてくれていたお蔭ですね」
案内されたエレベーターを待ちながらそう小声で告げると、マークは穏やかに微笑む。
「何事も下準備が大切ですから」
サンシャインシティを構成するビルの内の一つ、ワールドインポートマートビルの屋上でエレベーターを降りると、沢山の人々が並んでおり、雪花は目を見張った。よく見てみると入場券を買い求める列のようだ。
しかし、マークはその横をすり抜けて奥の方に進んで行くので、雪花もそれに付いて行く。そして、マークの足が止まったところで、雪花は初めて今日の目的地を知った。
「プラネタリウムだったんですね……!」
そう――そこにはプラネタリウムがあった。
「はい。隣の水族館もとても人気のようなのですが、この前セツカさんと動物園には行ったので、趣向を変えてこちらにしました」
「私、実はプラネタリウム初めてなんです」
それを聞いて、マークが嬉しそうに顔を綻ばせる。
「セツカさんが初めてだったのであれば、良かったです」
「ここも下見したんですか?」
「いえ、下見は入口までです。なので――私も初めてです」
そしてマークが「お揃いですね」と言うので、雪花はそれに頷いて笑った。
***
中に通されると、沢山の座席が並んでいる。まるで遊園地のアトラクションのようだ。座席の方に向かおうとしたところで、マークに「こちらです」と手を取られる。そのまま連れて行かれた先には、大きなベッドのようなシートが並んでいた。
驚いてマークを見ると、マークはそこも通り過ぎて、更に前方に進んでいく。
「セツカさん、こちらのシートです」
そこには、芝が広がっていた。
勿論人工のものだが、その上にシートとクッションが置かれていて、寝転がって天井を見上げられるようになっている。足下がランプで照らされている演出と相まって、何だかキャンプにでも来たかのようだ。
マークに促されて、靴を脱いでシートに座る。これから何が始まるのだろう。雪花は胸の高鳴りを抑えられず、隣に座るマークの方を向いた。
「想像していたプラネタリウムと全然違います……すごいですね!」
「確かに、外で星空を見上げているような気分になります。こちらの席にしておいて良かったですね」
そして、マークはすっと優しい眼差しで雪花を見つめる。
「――セツカさんの喜ぶ顔が、見たかったので」
その言葉に、雪花の心は――じわりと熱を帯びた。
先程までの胸の高鳴りとはまた違う、自分を内から満たしていくようなあたたかさ――この感情の名前を、雪花は長いこと忘れていたように思う。
やがて館内アナウンスが流れて、雪花とマークは並んでシートに仰向けになった。視線の先にあるのは、ただの天井に過ぎない。
しかし、アナウンスが終わったところで――きらりと控えめに、光が瞬いた。
それを合図にしたかのように、ふっと会場に夜の世界が訪れる。
雪花は息を呑んだ。
――それはまるで、星空だった。
数え切れない程の星達が、雪花の視界を鮮やかに彩る。小学生も知っているような有名な星座もあれば、雪花も初めて聞いたような星、一際明るく輝く月に、ぽかりと静かに浮かぶ惑星までも。
まるで宇宙を眺めているような気持ちで、雪花はその世界に引き込まれていった。
そして――ふと思う。
火星はどこにあるのだろう、と。
地球から、今はきっと9,000万km離れた距離にある惑星。
マークさんがいつか帰るべき場所。
こんなにも沢山の天体がある中で――私はそれを見付けられるのだろうか。
きらきらと綺麗に瞬く星達がぼやりと滲んだ気がして、雪花は思わず口唇を噛む。目頭の熱を逃がしながら、雪花はじっと星達を見つめ続けた。
幻想的な音楽が流れる。順番に紹介されていく天体の中に、お目当ての火星はなかった。
仕方がないことだ。だって、私も火星を気にしたことなんて、なかった。
――そう、あなたに逢うまでは。
会場がほのかに光を取り戻し始める。どうやらプログラムが終わったようだ。
雪花は横になったまま、隣に顔を向ける。
穏やかな表情のマークが、同じような体勢でこちらを向いていた。
「――セツカさん、いかがでしたか?」
聞き慣れていたはずのその声が、小さく雪花の心を震わせる。
雪花は胸の中で一つ息を吐いてから、笑みを浮かべた。
「――とても綺麗で、楽しかったです。マークさん、ありがとうございました」
あぁ――私はこの感情の名前を知っていた。
夏が終わる。
季節は秋に向かい、別れの刻がまた少し近付いた。
第20話 星空を見上げて (了)