第19話 それは昏い世界の話
――あなたは、少し寂しげな眼差しをしていました。
第19話 それは昏い世界の話
突如として現れた男――ダニーと一定の距離を保ったまま、マークは動かない。
雪花はどうすることもできず、その彷徨わせていた視線を、闖入者へと向けた。
普通にしていれば整っているであろうその顔は、今は負の感情によって歪められている。これまでのやり取りからすると、マークとこのダニーという男の間には何らかの因縁があるようだ。
一体どういう関係性なのか――そう考えたところで、ダニーの瞳がきらりと光る。その金色の光に、雪花は思わず息を呑んだ。
意味深な台詞と挑発的な態度のせいで意識していなかったが、その瞳の色はまるで――
その瞬間、ダニーの視線が雪花を捉えた。動けない雪花に対して、ダニーがにこりと爽やかな笑みを浮かべる。
「やぁ、こんにちは」
いきなり投げかけられた友好的な挨拶に、雪花は応えられなかった。そんな雪花の様子を気に留めることなく、ダニーは矢継ぎ早に言葉を続ける。
「あなたはマークの上司? それとも同僚? まさか恋人じゃあるまいな。その男には気を付けた方がいい。そいつは最早、大した家柄でもない欠陥品だ。そいつと居てもあなたにとって何ひとついいことはないと断言しよう――して、あなたの名前は?」
いきなり名前を尋ねられるとは思っていなかった。雪花がどうすべきか逡巡している内に、ダニーがこちらに近付いて来る。
次の瞬間、マークが雪花を庇うように、ダニーとの間に立ちはだかった。慌ててその顔を見上げると、マークは見たことのない鋭さで相手を射抜いている。
「――このひとに、近付くな」
その声は静かだったが、ダニーを黙らせるのに十分な重みがあった。場に静寂が流れる。そしてそれを破ったのは、想定外の声であった。
「――おーい、ダニー! そろそろ撤収するぞ」
どこからか響いた声に、ダニーの顔からふっと毒気が抜ける。
そのまま彼はまたもや爽やかな笑みを貼り付けて「じゃあな、マーク」と何処ともなく立ち去っていった。
しかし、雪花はそのままその場を動くことができない。今起こったことについて、頭の中の整理が追い付いていなかった。
「セツカさん、大丈夫ですか?」
マークの声に、雪花は我に返り、顔を上げる。そこには――普段通りの穏やかな眼差しを取り戻したマークが、申し訳なさそうにこちらを見つめていた。
「怖い思いをさせてしまい、すみません」
「いえ、そんな。ちょっとびっくりしただけなので、大丈夫ですよ」
そう言って、雪花は慌てて笑顔を作る。
「私達も屋台に戻りましょう」
雪花の言葉に、マークが少し安心したように頷いた。
「あっ、おねえちゃんとまーく、かえってきた!」
屋台に戻ると、あおいが笑顔で雪花とマークを出迎える。
「マーク、日本のお祭りはどうだ?」
「はい、とても楽しかったです。たこ焼きもちゃんと食べました」
マークがそう報告をすると、浦河が「おぉ……ついに……!」と悪戯が成功したかのような笑みを浮かべた。マークも普段通りの受け答えをしながら、出店の後片付けを始める。
雪花もゴミをまとめたりしていると、晴山から「鈴木」と声をかけられた。
「後片付けまで手伝わせちゃってごめん、色々ありがとな」
「そんな大したことしてないよ。後半は私も遊んでただけだし」
「そう――ちなみに、さっきマークさんと何かあった?」
思いがけない言葉に、雪花は思わず晴山の顔を見つめ返す。晴山は少し神妙な顔でこちらを見ていた。
「……え、何もないけど、何で?」
「変なこと訊いてごめん。何か鈴木が元気ないように見えたから」
晴山の勘の良さに雪花は内心驚く。確かに先程の一連の出来事に、動揺はしていた。しかし、それは決してマークのせいではない。
「ありがとう。でも、大丈夫だよ」
そう答えると、晴山は「それならいいけど」と笑顔を見せた。雪花は動揺を振り切るよう、目の前の作業に集中する。
その後も後片付けは続き、出店の解体が終わる頃には、時計の針は21時近くを指していた。
実行委員の面々は晴山を中心にこれから飲みに行くようだ。雪花も晴山に誘われたが、時間も遅いので帰ることにした。眠そうに目をこするあおいを背負った浦河が、一足先に駅へと歩いていく。
雪花も足を踏み出そうとしたその時――「私も、今日は失礼します」と、マークが晴山の誘いを断る声がした。
振り返ると、こちらに顔を向けるマークと視線が交錯する。
雪花は何も言わずに歩き出した。歩いている間に、頭の中を整理するように努める。
きっと、マークは先程の男――ダニーとの関係性について、自分に説明しなければならないと考えているだろう。しかし、あれは彼にとっても想定外の出来事であったはずだ。ダニーの発言が、マークが時折見せる暗い表情に繋がるものであろうことは想像に難くない。
一方で、果たしてその内容を自分が聞いてしまって良いものか――雪花には確信が持てなかった。
マークさんに無理強いはしたくない……けれど――
「――セツカさん、駅、過ぎてしまっています」
耳元で穏やかな声が響く。慌てて足を止めると、いつの間にか追い付いてきていたマークが隣に立っていた。
「すみません、ぼーっとしてて……」
そう笑ってごまかすと、マークが申し訳なさそうな表情で頭を下げる。
「セツカさん――今日は変なことに巻き込んでしまい、すみませんでした」
「いえ、そんな、マークさんのせいじゃないです」
マークが顔を上げた。その表情には、真剣な色が浮かんでいる。
「――セツカさん、ダニーの話ですが……」
「あ、あの、マークさん!」
雪花が上げた声に、マークが口を閉ざした。
「マークさん、話したくないことは、無理に話さなくてもいいです」
マークは微動だにせず、雪花のことを見つめている。その眼差しには、どこか寂しさにも似た色が宿っていた。
そして、雪花は「でも」と言葉を継ぐ。
「――もし、話すことで楽になるのであれば……私はマークさんのお話を聞きたいと思っています」
その雪花の台詞を聞いて、マークは目を見開いた後に――「ありがとう、ございます」と、その表情を優しく綻ばせた。
***
「セツカさんは、私達火星人が何故地球に派遣されているか、ご存知ですか?」
「えっと……浦河課長からは、一種の労働力確保だと聞いていました。今後世界的に労働人口は減っていく一方なので、実験的な取組みで宇宙から人を受け容れているのだと」
「成る程。地球側からすれば、そういった側面もあるのかも知れません」
雪花とマークは夜の街を歩く。別日に改めて話を聞くことも考えたが、雪花の目にはマークの様子が些か不安定に映った。本人が話したいのであれば、今この時を逃さない方が良いだろう。
「火星側の思惑は違うということですか?」
「はい。これは、NASAやJAXAの方は知っている話ですが――この地球実習は、火星における重要な役割を担う者達の最終選抜試験となっています」
予想だにしない台詞に、雪花が思わず足を止めた。
「――試験、ですか?」
それに倣って、マークも立ち止まる。
「はい、試験です」
マークの話によると、火星にも地球の国家のような政府があるという。政府の一員となって働くためには様々な条件が課せられ、その最後の試験がこの地球実習ということだった。
そう言われてみれば、マークも古内も、この地球に派遣されている火星人は『皆それなりの地位か、厳しい選抜試験を突破した者達』だと言っていた。
つまり、政府の一員になり得るだけの条件を満たした者達が集められていたのだ。
「試験といっても、この地球実習で求められる成果は多くありません。火星と異なる環境下で、大きな問題なく派遣先の企業で従事すること――そのくらいだと私達は聞いています。実際にどうかはわかりませんが」
「あの……それじゃあ、今日のあの人も――」
マークが頷く。
「はい。ダニーは、地位――家柄で選ばれた候補者です」
それを切っ掛けに、マークはぽつりぽつりと自分のことも話し始めた。
「火星には身分制度の色が強く存在しています。それ故に、私のような――地の底から這い上がってきたような人間に対して、強い拒否感を持つ者も居るのです。そう、それこそ――ダニーのように」
「地の底……ですか?」
マークが小さく頷く。
「私が居たのは、ありとあらゆる労働が求められる、地底の最下層でした。いつ終わるとも知れない労働に明け暮れながら、ただ次の日の訪れを待つ――そんな昏い世界の中で、永い年月をかけて、ようやくこの選抜試験まで辿り着いたのです」
マークの瞳には、ぼやりと闇が宿っているように見えた。話しながら、その当時のことを思い出すのか――その声ですら、どんどんと暗がりを纏っていく。
そんな彼の様子が居たたまれず、雪花は思わず口を開いた。
「――マークさん、本当に頑張られたんですね……」
その声に起こされたように、ふっとマークが雪花の顔を見る。その瞳には、金色の光が戻っていた。そのまま雪花が見つめていると、マークは優しくその表情を緩める。
「……いえ、私は自分の居場所を作るのに必死だっただけです。打算的で、ずる賢くて――他の多くの人間を出し抜いてここまできたんです。だから、私は雪花さんが仰るような、大した人間ではないのです」
今日のマークは、随分と自分自身に対して露悪的な物言いをするように、雪花には感じられた。それは多分にダニーとの出来事が影響しているのだろう。
雪花はもう一度「マークさん」と口を開いた。
「私は、地球に来るまでのマークさんのことを知りません。でも、これまで数ヶ月間一緒に過ごしてきて、少しはマークさんのことをわかっているつもりです。マークさんが今ここに居ることは、マークさんの努力の賜物です。それは、決して他の誰にも否定されるものではないと、私は思います」
雪花は静かに、それでいて熱を込めてそう告げる。
「――だから、マークさんはきっと、火星に戻ったら素晴らしいポストに就きますよ。私が絶対、保証します!」
そう言い切って、雪花は胸の奥にちくりとした痛みを感じた。
――そう、『火星に戻ったら』。
マークはそんな雪花の心を知ってか知らずか――「セツカさん、ありがとうございます」と、穏やかに笑ってみせる。
その表情に、雪花も笑顔を返してみせた。
第19話 それは昏い世界の話 (了)