第18話 真夏の逃避行
――私にとって、あの時間はかけがえのないものでした。
第18話 真夏の逃避行
そして、納涼祭の日がやってきた。
雪花は会社の最寄り駅の前で、人波を眺めている。今日は土曜日、平日は会社員が行き交うこの街も、今日は観光客や家族連れの姿が多かった。
8月の都心は気温が高く、雪花はサンダルを履いてきて良かったと思う。今日のコーディネートも、妹の花菜のアドバイスによるものだった。ライトグリーンのロング丈のシャツに合わせた白いパンツのお蔭で、どこか涼し気に見える。普段そこまで明るい色の服を着ない雪花だが、服装のお蔭か何だか気分まで明るくなったように感じられた。
時刻は15時――納涼祭のスタートは17時だが、何かサポートできることがあるかも知れないと早めに来ることにしたのだ。
しかし、そう考えたのは雪花だけではなく……。
「おねえちゃん、いた!」
あどけない声と共に、雪花の元に浴衣を着た少女――あおいが駆け寄ってくる。その後ろから「あおい、走るなって」と父親の浦河もやってきた。
雪花があおいと逢うのはおよそ1ヶ月振りだ。雪花が微笑んで「あおいちゃん、元気?」と話しかけると、あおいも元気よく「うん!」と笑って答えた。
そのまま3人で会社の出店スペースまで歩き出す。
「浴衣、すごく似合ってるね」と雪花が淡い桃色に染まった浴衣を褒めると、あおいは得意満面な表情になった。話を聞くと、浦河の母が着付けてくれたらしい。入院中のあおいの母にも既に写真を送ったそうで、あおいはご機嫌だった。
「あおいちゃん、今日はお祭りで何食べるの?」
「あおい、わたあめたべたい! あとたこやきとねー、やきそばとねー……」
「おいおい、そんな食えねぇだろ。どれが一番食べたいか、ちゃんと考えとけよ」
「おとうさんはびーるのみすぎちゃだめだよ」
「はぁ? こんな暑い日にビール飲まずにいられるかっつーの」
浦河とあおいのやり取りに、つい雪花は吹き出してしまう。そんな会話を続けていると、次第に出店が見えてきた。
『ヨーヨーつり』と書かれたカラフルな看板の下に、大きなビニールプールが2つ並んでいる。既にプールには水が張られ、ぷかぷかと幾つかヨーヨーが浮かんでいたが、まだスペースには随分と余裕があった。
「わぁっ、よーよーだ!」
あおいが喜んでビニールプールに駆け寄ると、「あっ浦河さん、鈴木、おつかれさまです!」と元気な声が響く。
振り向くと、そこには法被を羽織った晴山が立っていた。
「おう、おつかれ。準備は順調か?」
「えぇ、お蔭さまで」
「晴山くん、何か手伝うことある?」
「ありがとう。今のところは大丈夫かな」
その時、出店の背後から大きなダンボールを抱えたマークが出て来る。
雪花は「マークさん!」と小さく叫び――すぐに駆け寄って、そのダンボールに手を添えた。その重さは見た目に反して随分と軽く、雪花はほっと安堵の息を吐く。
1ヶ月前、動物園に出かけた際にマークが体調を崩したことが過り、咄嗟に身体が動いていた。
「――セツカさん、いらしていたんですね」
気付くと、マークが驚いたようにこちらを見ている。我に返って周囲を見回すと、晴山も呆気に取られたような顔をしていた。
思わず頬が熱くなり、雪花は慌てながら言葉を紡ぐ。
「あのっ、すみません、マークさん。私が持つまでもなかったですね」
「とんでもない。セツカさん、お気遣いありがとうございます」
そう言って、マークが柔らかく微笑んだ。その表情に、雪花は救われたような気持ちになる。
二人でダンボールを地面に置いたところで、あおいがマークの存在に気付いたようだった。
「あっ、まーくだ!」
「おい、『マークさん』だろ、あおい」
「アオイさん、こんにちは。可愛らしいお洋服ですね」
「ゆかたっていうんだよ! かわいいでしょ?」
「はい、とても」
マークと浦河親子が会話を始めたところで、雪花は自分が差入れを持ってきたことを思い出す。
雪花は晴山に手持ちのビニール袋を差し出した。
「晴山くん、これ、良かったら皆さんでどうぞ」
「えっ、マジで!? ありがとう、中見ていい?」
まるで子どものように目を輝かせる晴山に、雪花は笑って「勿論」と返す。
中には家で切って冷やしてきたフルーツと、キャップ付きのパックアイスを保冷剤と共に入れてあった。出店の対応をしている間でも食べやすいものを選んだつもりだ。
「暑くて丁度アイス食いたかったんだよー、鈴木天才! ありがとな」
晴山がぱぁっと微笑む。雪花はまるで太陽のようだと思った。
しかし、その笑顔が少し――そう、ほんの僅かだけ曇る。
「ちなみに、鈴木、さっきのあれって――」
その言葉が、先程マークが持つダンボールを咄嗟に支えたことを示していると気付き、雪花は苦笑いをした。
「驚かせちゃってごめんね。あの……マークさん、あまり重たいものを持てないから、思わず手伝っちゃったの」
「そうなんだ。いや、俺も気付かずにごめん」
「ううん、全然。持ってみたらそんなに重くなかったし。その――マークさん、どう? あまり心配はしていないんだけど、特に問題なかったかな」
すると、晴山の表情がまた明るく変わる。
「あぁ、それなら全く問題ないよ。寧ろマークさん、俺が気付かない細かい所をサポートしてくれてさ、皆もすごく助かってる。あと、むちゃくちゃ手先器用で、ヨーヨーを釣るこより作りが超絶速いんだよ。他のメンバーの倍作る勢いでさぁ」
雪花の脳裏に、真面目な表情をしながら凄まじい速さでこよりを作り続けるマークの姿が目に浮かび、思わず吹き出した。
ちらりとビニールプールの方を一瞥すると、マークはあおいがヨーヨーを釣る様子を穏やかな眼差しで見守っている。先程は気付く余裕がなかったが、マークも晴山と同じく法被を羽織っており、なかなかに似合っていた。
***
納涼祭スタート以降、ヨーヨー釣りは順調に売上を上げていた。
「いらっしゃいませ、ヨーヨー釣りいかがですか? 釣れなかった場合も1個プレゼントしますよー!」
晴山の呼び込みに引き寄せられるように、カップルや親子連れが次々とやってくる。特にやることもない雪花は、店の裏でこより作りを手伝っていた。最初は手間取っていたが、段々と上手く作れるようになってくる。
夢中で作っていると「セツカさん」と声をかけられた。
顔を上げると、マークが穏やかな表情で立っている。
「マークさん、法被似合いますね」
その台詞を受けて、マークが得意げな表情を作った。
「ありがとうございます。これで私も『日本人』に近付きましたでしょうか」
「えぇ、とっても」
そして、二人で思わず顔を見合わせて笑う。
「ごめん、マーク、ヨーヨー追加いける?」
店の方から声がかかり、マークは「はい、勿論です」と答えた。
「私も作業しますね」
マークが奥のダンボールからヨーヨーと器具を取り出し、器用にヨーヨーを膨らませていく。確かに晴山が言った通り、マークの作業は非常にスムーズだった。
雪花も負けないように頑張ろうと、こより作りに集中する。
時間は刻々と過ぎていき、気付けば時刻は19時を過ぎていた。
「おねえちゃん、まーく、ただいまー!」
あおいが満面の笑顔で出店に戻って来る。手にはアニメキャラクターが大きく描かれた袋を持っていた。その後ろから、浦河が疲れ果てた表情で歩いて来る。
「アオイさん、おかえりなさい。楽しかったですか?」
「うん、たくさんたべた!」
「あおいちゃん、わたあめ買えたんだ。良かったね」
そして、雪花が「課長もおつかれさまでした」と声をかけると、浦河が「マジ疲れた……」と嘆いた後で、ふとマークの顔を見た。
「そういやマーク、おまえ他の店とか見てきたか?」
「いいえ、仕事がありますので、ずっとここに居ます」
「そりゃ勿体ない。折角だからちょっと見て来いよ、俺が代わりに手伝うから。なぁ晴山、いいよな?」
そう浦河が晴山に振ると、晴山も「勿論です!」と頷く。
「折角日本に来たんだから、見て回った方がいいですよ。マークさん、気付かなくてすみません」
「ハレヤマさん……ですが、皆さんが対応されているのに……」
「気にしないで下さい。あとはやっときますから」
「あおい、おみせごっこやるー!」
「はいはい、あおいも一緒にお留守番ね。じゃあそういうことで、鈴木、マークのこと頼むな」
「えっ? あっ――はい」
雪花は頷きながら、マークの顔をちらりと見た。
「――では、お言葉に甘えて」
そう答えたマークの口元が、小さく緩む。
それから、二人で夜の納涼祭を見て回った。
雪花にとっても、お祭りなんて久し振りだ。誰かとこうやって出店を回るなんて、もしかしたら小学生以来かも知れない。射的をして遊んだり、かき氷を食べたりしながら、雪花とマークは納涼祭を楽しんだ。
「あっ、マークさん、これがたこ焼きです」
買ったばかりのたこ焼きを、マークに差し出す。生地から飛び出したたこの足をまじまじと見ながら「これがあのたこ焼き……」とマークが呟いた。
「出社初日、セツカさんとウラカワ課長と行ったお店で、『イカ』は食べましたが、『タコ』は初めてです」
「また浦河課長に『共食いだ!』って言われちゃいますね」
「『我が同胞よ、頂きます』」
二人で顔を見合わせて、くすくす笑う。
久方振りに食べた屋台のたこ焼きは、記憶の中の味よりも随分とおいしい気がした。
そうして二人で納涼祭を楽しんでいると、ふと、マークが優しい眼差しで「セツカさん」と口を開く。
「今日、準備の時にダンボールを支えてくれたのは――もしかして、動物園の時のことを思い出されたからですか?」
雪花は少しバツが悪い気持ちで「あぁ……すみません……」と苦笑いしながら答えた。
「少しあの時のことが過ってしまって、気付いたら手を出してしまっていました。不自然でしたよね……しかも全然ダンボール重たくなかったし」
それを聞いたマークは「やはり、そうでしたか」と言った後で――そっと雪花の耳に口を寄せて、囁く。
「――とても嬉しかったです、ありがとうございます」
聞き慣れているはずの穏やかな声は、耳元で響くといつもとは色が違って聞こえた。
思わず雪花が振り返ると、マークはにこりと笑って、顔を離す。
雪花はまた頬が熱くなったように感じて、それから暫く黙って歩いた。
段々と人の数が疎らになってくる。出店自体もこの道の先で終わりのようだ。
雪花が腕時計を見ると、時刻は20時近くになっていた。納涼祭は20時30分に終了する。そろそろ店に戻った方が良いかも知れない。
顔を上げると、マークも同じように考えていたのか「セツカさん、そろそろ戻りましょうか」と声をかけられた。
「そうですね、戻りましょう」
そう言って、元来た方向に戻ろうとした瞬間――
「――あれぇ? ×××××じゃないか?」
聞き覚えのない声で綴られた、聞いたこともない言葉が背後から響く。
雪花は思わず振り返った。
目の前には――見覚えのない男が一人、立っている。
その存在に、雪花は瞬間的に違和感を覚えた。
相手の正体はわからないが、ニヤニヤとこちらを品定めするように眺める目付きは、少なくとも友好的なものではない――そう判断し、雪花は即座にこの場を立ち去ろうと考えた。
しかし、隣に居るマークが足を止めて動かない。
雪花が戸惑いながら「マークさん……?」と声をかけると、目の前の男は「マークぅ?」と馬鹿にするような言い方をした。
「そういえば、『この地域』ではそういう呼び名だったか。なぁ、×××××」
「――その名で私を呼ぶな、ダニー。何故あなたがここに居る?」
隣に立つマークから、低い声が発せられる。
その声からは、静かな怒りが滲んでいるように雪花には感じられた。それと反比例するように、ダニーと呼ばれた男は嬉々とした声を上げる。
「そう、俺はダニーだ。よく覚えていたな、マーク。何故ここに居るかって? それは俺の台詞だ。貴様が何故ここに居る?」
そこまで言って、ダニーは憎々し気に表情を歪め、続く言葉を吐き捨てた。
「この――卑怯者の負け犬野郎が」
マークは無表情のまま、ダニーを見据えている。
雪花はそんな初めて見るマークの姿を、黙って見つめることしかできなかった。
第18話 真夏の逃避行 (了)