第15話 それぞれの事情
――あなたのその言葉が、あなたのその何気ない仕種が、私の心をかき乱すことを知りました。
第15話 それぞれの事情
「あのね、きょうはおとうさんとふたりで、どうぶつえんにきたの」
ベンチでマークの隣に座ったあおいは、雪花が買って来たオレンジジュースを抱えて、ニコニコと話し始めた。
「そうなんだ、あおいちゃんは動物園好きなの?」
「うん、すき」
オレンジジュースを一口飲んで、続ける。
「むかし、あおいのちっちゃいころ、おとうさんとおかあさんとさんにんできたの」
ちっちゃい頃――今も十分『ちっちゃい頃』だと微笑ましく思いつつ、雪花はベンチの前であおいと目線を合わせながら、うんうんと頷いてみせた。
雪花の周りには今居ないが、元々子どもは好きな方だ。子どもができた学生時代の友人と逢ったりする時には、抱かせてもらったりもしていた。
あおいをインフォメーションセンターに連れていき、迷子のお知らせをしてもらわなければ――そう考えて連れて行こうとしたところ、あおいから「でもあおい、やらなきゃいけないことがあるの」と言われて、雪花とマークは一旦あおいの話を聞くことにしたのだった。
「――それで、アオイさんのやらなければいけないこととは、一体何ですか?」
隣に座ったマークから問われ、あおいは「うん……」と俯く。どうしたのだろう。雪花とマークは思わず顔を見合わせた。
すると、あおいは意を決したようにオレンジジュースを飲み干し、口を開く。
「――あのね、ぺんぎんさんのしゃしん、とりたいの」
***
園内地図を見てみると、ペンギンの展示スペースはそう遠くないことがわかった。雪花とマークはペンギンを観た足で、そのまま動線上にあるインフォメーションセンターにあおいを連れて行くことにした。
「おかあさんにぺんぎんさんのしゃしんをみせてあげたいの。おとうさん、いつもいそがしいから、あおいがかわりにさがしてあげようとおもって」
「そっか、あおいちゃんは優しいね」
手を繋いで歩きながら雪花がそう言うと、あおいは「えへへ」と嬉しそうに笑い――そして何かに気付いたように「あっ」と声を上げた。
「どうしたの?」
そう問うと、あおいは悲しそうに眉を下げる。
「かめら……おとうさんがもってる」
その言葉を受けて、マークが自分のスマホを見せた。
「アオイさん、私の携帯電話で撮ってください。あとでお父さんの携帯電話に送ります」
「ほんと?」
ぱぁっとあおいの表情が明るくなる。
「おにいちゃん、ありがとう」
あおいの言葉に、マークの表情もやわらかく綻んだ。二人の様子を見た雪花も何だか優しい気持ちになる。以前マークは妹が居ると話していた。元来子どもが好きなのかも知れない。
――しかし、その穏やかなやりとりは、ペンギンの展示スペースを発見したところでぴたりと止まった。マークが冷静に言葉を紡ぐ。
「ペンギン、すごい人気ですね……」
そう、ペンギンの展示スペースの前には、多くの観光客が集まり人だかりを作っていた。
確かにペンギンは人気のある動物ではあるが、それにしても多い。戸惑いつつ雪花が様子を窺っていると、集団の端の方に旗を持っている人の姿が見えた。どうやら観光ツアーの見学タイミングと丁度かぶってしまったようだ。
ちらりとあおいに視線を向けると、またもや悲しげな顔をしている。観光客が居なくなるまでは、まだ時間がかかりそうだ。
できるだけ早くインフォメーションセンターにあおいを連れていった方が良いと頭ではわかっていつつも、この表情を見てしまうと何とか写真が撮れないものかと考えてしまう。
そうやって雪花が思案していると、マークが不意にあおいの前にしゃがみ込んだ。
「アオイさん、私の上に乗ってください。そうすればペンギンの写真が撮れると思います」
「えっ、おにいちゃん、いいの?」
あおいがマークに問いかける。マークは口元を小さく緩めて「勿論です」と返した。
「マークさん、大丈夫ですか?」
「はい、少しでも早くアオイさんをお父さんの元に連れて行った方がいいと思いますから。写真だけ撮って、すぐに行きましょう」
そして、マークがあおいを肩車し、一つ大きく深呼吸した後でゆっくりと身体を持ち上げていく。雪花はあおいが落ちないように傍で見守るが、危なげなくマークは立ち上がった。あおいが嬉しそうに声を上げる。
「おとうさんよりたかーい!」
「それは良かったです」
「あおいちゃん、写真撮れそう?」
雪花がマークから受け取っていたスマホを差し出すと、あおいは「うん」と手に取って、ペンギンの方にレンズを向けた。何度かカシャカシャと音がする。
「おねえちゃん、とれたよ」
雪花はスマホを受け取り、データを確認した。思ったよりもよく撮れている。最近の子どもはデジタルリテラシーが高いというが、スマホで写真を撮るのもお手の物のようだ。
「よし、じゃあいこっか」
少しでもマークの負担を減らそうと、雪花は肩車から降りようとするあおいを胸で抱き止めた。小柄に見えたあおいだが、まぁまぁの重さだ。世のお父さんお母さん達は本当にすごい――雪花はあおいを地面に下ろしながらそう思った。
インフォメーションセンターまであおいの手を取って歩く間、雪花はあおいと会話を楽しむ。重大なミッションを終えたあおいは、得意げな様子だ。
「ぺんぎんさんのしゃしん、おかあさんよろこぶかな」
「きっと喜んでくれるよ。でも、お父さんが心配しているから、先にお父さんの所に行こうね」
「うん、おとうさんまいごだから、ないちゃってるかも」
あおいの中では、あくまで迷子になっているのはお父さんの方らしい。どんなお父さんなんだろうと、雪花は思わず笑いながら会話を続けた。
「そうだね。今日はお母さんはお留守番かな?」
その雪花の言葉に、あおいが首を振る。
「ううん、おかあさんはびょういん。ずっとびょういんにいるの」
「――え、そうなの?」
あおいが頷いた。
「だから、ぺんぎんさんのしゃしん、みせてあげたかったの。おかあさん、どうぶつえんこられないから」
あおいの話に、雪花は言葉を詰まらせる。色々と事情があるのだろう。どう話しかけるべきか――そう逡巡したその時だった。
「あおい!!」
大きな声が響き、慌てて雪花は顔を上げる。そこには、こちらに向かって走って来る男性の姿があった。隣のあおいが「おとうさん!」と嬉しそうに男性を呼ぶ。
そして――雪花の口からも「えっ……?」と声が洩れた。
そのリアクションは走ってきた男性も同様で、近付くにつれて段々とスピードを落としながら、その目を見開く。
「――あれ、鈴木……?」
そう――あおいを迎えに走ってきたのは、雪花とマークの上司である浦河だった。
「おねえちゃん、おとうさんのことしってるの?」
あおいの声ではっと我に返り、雪花は笑顔を作る。
「う、うん、ちょっとね……」
「あおい、だめだろ。お父さんがトイレ行ってる間に居なくなっちゃあ」
「だっておとうさん、ぜんぜんかえってこないんだもん。だめだよおとうさん、まいごになっちゃあ」
あおいの言葉に、浦河は「ったく口ばっかり達者になりやがって」と溜め息を吐いた。雪花はその間にも、浦河とあおいの顔を見比べる。あまり顔が似ていないように見えたが、このやり取りを聞く限り正真正銘の親子だろう。
この前も偶然鳥飼に出くわしてしまったが、会社の人間のプライベートの姿を見るのはなかなか慣れない。
そんなことを考えていると、浦河の顔がこちらを向いた。
「鈴木悪いな、あおいの面倒見てもらって。インフォメーションセンター回ってもなかなか見付からねぇし、焦ったわ」
「いえ、こちらこそすみません。早くそちらにお伺いできれば良かったんですけど」
「本当子どもってすぐどっか行くよな。あ、マークもありがとな――」
そう言って雪花の背後に視線を移した浦河の表情が、一瞬で変わる。
それを見て、雪花が振り返ると――そこには、マークが立っていた。しかし、その顔色はすこぶる悪く、呼吸が荒い。
次の瞬間、マークがバランスを崩して倒れ込んだ。
「マークさん!」
雪花が叫んだ時には、駆け出した浦河がマークを抱き止めている。雪花も慌てて駆け寄った。マークは「ウラカワ課長、すみません……」と小さく呟く。
「どうした? 大丈夫か?」
「はい……少し疲れが出たようです……身体的な損傷はありません……」
「JAXAの姉ちゃんに連絡するか?」
「いえ……そこまでの事態ではありません……休めば直に良くなります……」
苦しそうなマークを見て、雪花の頭の中を今日の出来事が駆け巡った。
休憩は適度に取ったつもりだったが、足りなかったのかも知れない。何よりも、あおいを肩車しようとした時に、きちんと止めるべきだった。地球人の自分でも重さを感じるのだ。地球の1/3の重力の世界で生きてきたマークにとっては、かなりの負担だっただろう――。
思わず口唇を噛んでマークを見守っていると、マークが雪花の顔を見て、少し微笑んでみせた。
「セツカさん、ご心配をおかけしてすみません……こんな姿をお見せして、申し訳ない……」
「そんな……マークさん、私が気を付けていなかったから……」
「いえ、これは私の責任です……セツカさんは決して気にしないでください……」
そこまで言って、マークは力なく項垂れる。雪花は目の前が真っ暗になった。
***
「鈴木、今日は本当にありがとな。色々と迷惑かけて悪かった」
結局、4人はタクシーで浦河の家まで帰ってきた。
雪花はリビングで浦河と向き合って座っている。古内に連絡を取ろうかとも考えたが、マークがその必要はないと何度も言うので、一旦今日は様子を見ることにした。
マークは奥の部屋で横になっている。つられて眠くなったのか、あおいもその隣に並んで昼寝をしていた。
「いえ、こちらこそ、マークさんを運んで頂いてありがとうございます」
「まぁあいつが倒れたのは俺達のせいだしな。今日は泊まっていってもらうわ。明日になっても体調が戻らないようだったら、俺から古内さんに一報入れるよ」
浦河はそう言って、ちらりと雪花の目を見る。
「――だから、鈴木は気にすんな」
雪花はその言葉に、ただ小さく頷くことしかできなかった。
動物園でマークにも同じことを言われた。そんなに自分を責めているように見えただろうか。何もできなかったのに、周囲に気ばかり遣わせてしまっている――雪花は心底自分のことが嫌になった。
それでも、このまま何も話さなければ余計に気を遣わせてしまうだろう。雪花は気になっていたことを訊いてみることにした。
「あの、浦河課長。奥様は大丈夫ですか?」
「ん? あぁ――そういや鈴木には言ってなかったな」
浦河は手元のコーヒーを一口飲んで、口唇を湿らせる。
「かみさん身体弱いんだよ。あおいを産んでからも、結構入院することが多くてな。毎週末見舞いに行く度にあおいも連れていくんだが、この前昔動物園行った時の話をしたから、火が点いちゃったんだろうなぁ……たまたまうちの実家から電話がかかってきて、喋ってる内にあおい居なくなってるし、むちゃくちゃ焦ったわ」
そう言って、浦河は屈託なく笑った。その笑いは決して強がりでも何でもなく、いつもの浦河の姿そのものに雪花には見える。
「まぁ折角来たんだから、コーヒーくらい飲んでいけよ」
浦河に勧められるままに、雪花はコーヒーを口にした。部屋の様子が視界に入るが、綺麗に整理整頓されていて、この家の穏やかさが伝わってくる。
話を聞いてみると、平日は朝浦河があおいを保育園に連れて行き、夕方浦河が行けない時はこの近くに住んでいる浦河の母があおいを迎えに行くそうだ。浦河の勤務スタイルに理由があったことを、雪花はその時初めて知った。
「そうなんですね……全然知りませんでした」
「まぁ、このこと知ってるのは鳥飼部長くらいだからな。今の部署に異動させてもらったり、色々と配慮してもらって助かったわ。鈴木には負担かけちまって悪いけど」
「いえ、そんな」
そんな雪花の様子を見て、浦河はニヤリと笑う。
「そういうわけだから、これからも俺が遅刻しまくったり早退しまくっても許してくれよな」
「えっ……ま、まぁ、時と場合によりますけど……」
「ばーか、冗談だよ。ちゃんと会社は行くっつーの」
そして浦河は「本当鈴木は真面目ちゃんでおもしれーわ」とけらけら笑った。
雪花は何だか救われたような心持ちになる。
ふと腕時計を見ると、もう17時になっていた。浦河家の夕食の準備などもあるだろうし、そろそろお暇した方がいいだろう。
帰りがけに、雪花は奥の部屋にマークの様子を見に行くことにした。
そっと引き戸を横に滑らせると、部屋の手前でマークはただ静かに横たわっている。息をしているのか心配になる程の静けさに、雪花がドキドキしながら顔を近付けると、小さく呼吸の音がした。水分も十分に摂ったからか、顔色は先程よりも随分と良くなっている。雪花はほっと胸を撫で下ろした。
そう安心したのも束の間、不意にマークが眉を顰める。その内、マークの口から、うなされるような声が洩れ始めた。
「――マークさん? 大丈夫ですか?」
その苦しさを少しでも軽減しようと、思わず声をかける。
すると、マークがそれに応えるように、口を開き――そこから零れ落ちた言葉は、雪花の心をかき乱すものだった。
「――リサ……」
雪花は思わず目を見開いて、マークの顔を見つめる。
単なる寝言かも知れない。深い意味などないのかも知れない。
それでも、彼の口からは確かに古内の名前が紡がれた。
別に気にすることではないのに――何故こんなに私は動揺しているんだろう。
雪花はその戸惑いを抑え込むように、一つ小さな深呼吸をして笑みを浮かべる。
たとえマークの瞳に映らなかったとしても、せめてそれくらいはしたかった。曇った表情を見せてしまうと、きっとあなたは心配してしまうから。
「――マークさん、早く良くなってくださいね」
雪花はマークにそうとだけ囁いて、部屋のドアを静かに閉めた。
第15話 それぞれの事情 (了)