第14話 日曜日、再び
――あなたの優しさは、私を私らしく居させてくれました。
第14話 日曜日、再び
日曜日の上野駅は、多くの人で賑わっていた。
大学入学と同時に上京した雪花だが、大学が東京西部にあったため、あまりこの周辺の土地勘がない。
この方向で良いのかと小さく不安を抱えながら、慣れない道を目的地に向かって歩く。人混みの中にちらほらと外国人観光客の姿が見えて、雪花の心にふっと待ち人の姿が過った。
――そして、人波が途切れたところで、丁度日比谷線の改札口に到着する。
そこには、グレーのシャツに黒いカーディガンを羽織ったマークが、一人真面目な表情で立っていた。
***
あの日、古内が帰った後、総務課には普段通りの空気が戻っていた。
――いや、雪花の心の内は、少なくとも普段通りとは言い難い様相を呈していた。
思いがけず不思議なメンバーで囲むことになった昼食、その後晴山から言われた意味深な台詞、そして帰り際の古内の言葉……まだ今日という一日は午後いっぱい残っているというのに、雪花の頭の中は複雑にこんがらがっている。
それらを忘れようと雪花は目の前のディスプレイを睨み付けるが、そうすればするだけ、意識が頭の中から零れ落ちていくような、そんな感覚に陥ってしまった。
雪花が小さく溜め息を吐いた、その時――
「セツカさん」
隣からかけられた穏やかな声が、雪花の鼓膜を震わせる。
顔を向けると、そこには穏やかな表情をしたマークが立っていた。
一体、どうしたのだろう――口を開こうとしたタイミングで、マークが何かを差し出してくる。その手に握られていたのは――いちご味の飲むヨーグルト。
「今日はお忙しい中、JAXAのご対応ありがとうございました。よろしければ、こちらをどうぞ」
そう言って、小さく口元を緩ませる。
「――え、私に?」
「勿論。自分の分も買ってきましたので」
そう言ってから、「あ」とマークが少し困ったように眉を寄せ、部屋の奥の空席に視線を向けた。
「……ウラカワ課長の分は、買ってきておりません」
雪花はそんなマークを呆けたように見つめていたが、思わず小さく吹き出す。
「それでは、課長に見付かる前に頂きますね。マークさん、ありがとうございます」
飲むヨーグルトを受け取ると、マークが優しく微笑んだ。
早速ストローを挿して一口吸い込むと、爽やかなヨーグルトの味を追いかけて、いちごの甘酸っぱさが口の中に広がっていく。糖分を摂取したことで、少しだけ頭の中がクリアーになった。
――何故晴山くんがあんなことを言ったのかわからないけれど、気にするのはやめよう。
そして、ふと昼食の時にマークが見せた影を思い出す。
雪花はちらりとPCの隙間から向かいに座るマークの様子を窺った。同じくストローを口に咥えた彼は、普段通り真面目に業務に勤しんでいる。
――それでも、雪花の心には少しの引っ掛かりがあった。
鳥飼部長と食事を取った帰り道の出来事、そして今日晴山の問いに答えた時の昏い表情。
きっとマークは何らかの闇を抱えている。
そんな彼に、自分が手助けできることはあるのだろうか。
そう考えたところで、脳裏を古内の顔が掠めたが――雪花は一つ息を吐いてそのイメージを振り払った。
余計なことは考えないようにしよう。私は私にできることをすればいい。
雪花は空になった飲むヨーグルトを携えて、立ち上がる。そのままマークの隣まで歩いて行き、声をかけた。
「マークさん、お仕事中ごめんなさい。あの、今度の週末なんですけど――」
***
「セツカさんの貴重なお時間を頂くのは申し訳ないですが……こうしてまた二人で出かけられるのは、とても嬉しいです」
隣を歩くマークが口元を緩める。
普段の真面目な表情がベースにありつつも、その色がどこか明るく感じられるのは、この街の賑やかさのお蔭だろうか。
「私も東京に出てきてもう8年経つんですが、出不精なので行ったことがない場所が多くて……こういう機会でもないとなかなか行かないので、寧ろマークさんにお付き合い頂けてありがたいです」
そして――気になっていたことを、口にする。
「あの――今日は古内さん、いらっしゃらないんですね」
その言葉を聞いて、マークが少し驚いたように目を見開いた。そして、すぐに優しく微笑む。
「はい、今日は一人で来ました。電車一本で来られる場所ですし、特に報告する必要もないと判断しましたので」
確かに、マークに負担がかからないような場所を選んだつもりだった。道に迷うことのないよう、マークが使う路線の改札口を待合せ場所に指定したのもそうだ。古内のことを意識したわけではないが、それでも顔を合わせずに済んだのはほっとした。
そんな雪花の胸の内を知ってか知らずか、マークが「そういえば」と口を開く。
「セツカさん、今日の靴も素敵ですね」
「えっ、そうですか?」
慌てて自分の足下を見ると、丸いフォルムのバレエシューズがぴかぴかと金色の光を放っている。
沢山歩くことを想定してスニーカーで行こうとしたところ、妹の花菜に「こっちの方がいいよ!」と、またもや出掛ける直前に彼女の靴に履き替えさせられたのだった。
その間にも、マークの優しい声が降ってくる。
「――その服も、とても似合っています」
雪花は自分の服装に視線を移した。着慣れない黒いワンピースが視界に入る。
この前の休日、花菜と一緒に買い物に行った際に勧められて購入したものだ。自分一人では絶対買わない服だが、「お姉ちゃん絶対似合うから!」と半ば強制的に買うことになった。
正直、今でも何だか気恥ずかしいが――それでも、マークがそうやって言ってくれたことで、雪花の心がふわりと浮き上がる。
「……ありがとうございます」
そう口にして、ちらりとマークを見上げると、彼は穏やかな眼差しで雪花を見つめていた。
「――それにしても、この公園は広いですね。都会の中心とは思えない程緑も多くて、とても気持ちが良いです」
「えぇ、私も初めて来ましたが、1日ではとても回り切れなさそうですね」
公式HPによると、上野公園は日本初の公園に指定された場所で、敷地は約53万㎡あるらしい。園内には博物館や美術館等の様々な文化施設があり、多くの人々が訪れる観光名所となっている。
――そして、今日の二人の目的地は、その広大な敷地の一番奥にあった。
「すみません、大人2枚でお願いします」
入園券を購入してゲートを潜り、パンフレットを眺めながら歩いていると甲高い声が前方から響いてくる。隣を歩くマークが「セツカさん」とこちらに顔を向けてきた。その瞳には高揚の色が浮かんでいる。
「今の声は、何の動物ですか?」
「恐らく、ゾウですね」
「ゾウ……調べてきました。早く観てみたいです」
少しそわそわした様子のマークに、雪花は微笑まずにはいられなかった。
――そう、二人が今日足を運んだのは上野動物園だ。
以前東京スカイツリーに行った際に、『滞在中にできる限り地球の文化に触れたい』と話したマークのリクエストに応える形で、雪花が企画したのだった。
目の前には人だかりができている。その頭上に、ゆったりとゆらめくグレーの大きな耳が見えた。「おぉ……」とマークの視線が釘付けになり、雪花もその隣で少し背伸びをしながら覗き込む。
すると、空に向かってするすると長い鼻が伸びた。同時にもう一度甲高い声が轟いて、人々が嬉しそうにどよめく。
雪花も久々に感じる動物園の雰囲気に、思わず頬を緩めた。
「身体だけでなく、鳴き声も大きいのですね」
隣でマークが感動したように呟く。
「そうですね、ゾウは陸では一番大きい生物です」
「陸では?」
思わず振り向いたマークの瞳は、好奇心できらきらと輝いていた。目の前の彼はまるで子どものようで、とても300年以上生きた火星人とは思えない。そんなマークに、雪花の心はほわりとあたたかくなる。
「はい。海には、ゾウよりももっと大きい生物が居るんですよ。クジラと言って、私もTVでしか観たことがないです」
「何と……地球には多様な生物が息衝いているのですね」
マークが満足するまでゾウを眺めた後、二人は様々な動物達を見て回った。
クマ、サル、アザラシにウマ――草を食むウサギをガラス越しに眺めたマークが「何とも愛らしい……」と至極真面目な表情で言い、雪花がその台詞とのギャップに笑う。
パンダ見物の行列に驚いたりしつつ、二人は動物園を満喫した。
「火星にも動物園ってあるんですか?」
マークの体力を考慮して何度目かの休憩を取った時に、雪花はマークに問う。スポーツドリンクを一口飲んで、マークが口を開いた。
「えぇ、存在はします。ただ、地球に比べて動物の種類も限られていますし、ここまで大規模で一般の人々が観られるような場所はないです。私は幼い頃に一度行ったきりですね」
「そうなんですね。私も久々に動物園に来ましたが、思った以上に沢山の動物を観ることができて楽しいです。地球って、もしかしたら恵まれているのかも知れませんね」
そんな雪花の言葉に、力強くマークが頷く。
「はい、地球は素晴らしい惑星です。こちらに来てから色々な経験をさせて頂きましたが、本当に地球に来ることができて良かったと思います」
そして――不意にマークが雪花の方に顔を向けた。
その眼差しは穏やかな熱を湛えていて、雪花は思わず口にしていたお茶のペットボトルを口から離す。
「セツカさん、色々と私のことを気にかけて頂いて、ありがとうございます。地球に来てから毎日が目まぐるしく過ぎていく中で、ふと色々と考えてしまうこともあるのですが――セツカさんの優しさにいつも救われています。本当にありがとうございます」
そう言って、マークが頭を下げた。雪花は慌てて首を振る。
「そんな、マークさんの優しさに救われているのは私の方です。私はいつも余裕がないので……」
雪花の言葉の途中でマークが顔を上げた。その真剣な表情の中には先程の熱が燻っていて、雪花は思わず言葉を喪う。
そのまま二人で見つめ合ったその刹那――それを遮るかのように突風が吹いた。
「ひゃっ」
雪花は驚いて身を固くし、目を閉じる。木々がさざめき、遠くから鳥達の騒ぐ声がした。しかしそれは決して長く続かず、風は優しく頬を撫でながら次第に落ち着きを取り戻していく。
風が止んだことを確認してから雪花がゆっくり瞼を開くと、目の前のマークは少しだけ困ったような顔をしていた。ふと視線を落とすと、その手には見慣れない小さな帽子が握られている。
「――それ、どうしたんですか?」
「今の風で飛んできたようです」
そうマークが答えたところで「ねぇねぇ」とあどけない声がした。
声の方に視線を向けると、小さな少女が一人でこちらをじっと見上げている。幼稚園児くらいだろうか。髪を二つに結ったヘアゴムには赤いビーズが付いていて、陽の光を反射してきらきらと光っている。
「ひろってくれてありがとう。それ、あおいのだよ」
そう言って、あおいと名乗った少女は手を差し出してきた。マークが立ち上がって帽子を渡すと、あおいはもう一度「ありがとう」と頭を下げる。随分と礼儀正しい子どもだ。
あおいは帽子を被り、しっかりとした足取りでベンチから離れて行った――が、その向かう先には誰も居ない。
「――セツカさん?」
マークの声に答えず、雪花は立ち上がってあおいを追いかけた。
「あおいちゃん」
あおいは振り向いて「なぁに?」と答える。雪花はしゃがんで、あおいの目線と高さを合わせて笑顔を作った。
「あおいちゃんのそのお帽子可愛いね。誰に買ってもらったの?」
その言葉に、あおいは嬉しそうに笑みを浮かべる。
「うん、これね、おとうさんがかってくれたの」
「そうなんだ、良かったね」
そして、雪花は続けた。
「――ちなみに、お父さんは今どこに居るの?」
雪花の問いかけに対して、あおいが首を傾げる。
「えっと――おとうさん、まいごになっちゃったみたい」
――やはり。
追いかけてきたマークと雪花は、思わず顔を見合わせるのだった。
第14話 日曜日、再び (了)