貴女の描く絵が好きだった
貴女の描く絵が好きだった。
✻
「結婚するの」
そう、彼女は言った。
嬉しそうに笑む彼女は綺麗で、ああ好きだなと取り留めもなく浮かぶ。内に渦巻くどろりとした悲しみには気付かぬふりをして、私は意識的に高めの声のトーンを作る。
「おめでとう! わぁ、遂に結婚かあ!」
「そう。挙式は年末なんだけどね、言っておこうと思って」
「年末! 大きい式をするの?」
「ううん、親族だけでしようと思ってるの」
「そうなんだねぇ」
明るいトーンで話しながら、私の内はおめでたいと祝う心と、結婚などしないでくれという泣き縋りたい心とで綯い交ぜになる。浮かぶ思いに蓋をして、決して重く見せぬように彼女に紡ぐ。
「本当におめでとう! 貴女は素敵なひとだから。なんたって、私が十年以上ずっと好きだもの」
長らく言い募ってきた言葉はするりと口をついて出て、怪しまれることもない。
私の言葉に彼女が笑う。ふふ、と。
きらきらとした目で、眦を下げて笑う。少しだけ見える歯が、血色のある唇が、目に焼き付く。
「いつもそう言ってくれるもんね」
ああその笑い方もずっと好きだった。
——私の方が、ずっと、ずっと前から変わらずに好きだった。
言えぬ思いに蓋をして、彼女の沢山の話を聞いた。笑う彼女を見ると幸せな心地になる。結婚の報告を受けたとて、相も変わらず好きだと思った。
✻
彼女との出会いは十年以上も前のことだ。
中学校に入ってすぐの、ニ度目の美術の授業で私は雷に撃たれた。教師の見せる絵が、私の心を絡め取ったのだ。
「本当は、初めての課題では最高評価をつけないでおこうと思っていたのですが、あまりに素晴らしかったので——」
——最高評価をつけてしまいました。
美術教師はにこりと笑い、私達にその絵を見せた。
一回目の授業終わりに〝私の机の上〟というデッサン課題が出されていた。描きあぐねた私と違い、その絵は、とても、とても美しかった。
ああ、友人になりたい。
この絵を描くひとの、友になりたい。
教師の声も何も入らなくなり、どう話しかけようか、どうすれば友になれるだろうか、そんな胸の高鳴りに心震わせた。
それが、彼女との、彼女の絵との出会いだ。
授業が終わり、私は駆けた。先に教室を出た彼女の背中を探して、廊下を進む。しかしてすぐに、その背は見つかった。
綺麗な赤茶色の髪が、彼女の背中でふわりと揺れていた。
「——あの!」
人見知りの私の声は揺れ、どきどきと顔に血が昇ったような気がした。
それでも、友になりたいと思った。
さらりと彼女の右手から生まれる絵は、いついつでも魔法のようだった。きらきらと輝いていて、あの雷に撃たれたような衝撃は決して間違いではなかったのだと幾度となく思った。
人柄を知り、言葉を交わすうちに、彼女の絵だけでなく彼女自身のことも着々と好きになっていった。それはまるで恋のようなほわりとした温かで、それでいてどろりと暗い気持ちも孕んでいた。
私は初めてのそれらを持て余しながらも、大切に大切に守り続けた。
✻
——今は遠い日の話だ。
学生時代は過ぎて就職し、彼女と会う頻度は減り、彼女は絵を描かなくなった。
ただ、十年以上が経った今でも、初恋のようなあの衝撃は、あの狂おしいほどの衝動は、変わらずにずっと私の中に座している。
きっと一生伝わることのないこの思いを、私はずっと抱えていくだろう。
別れは来ない。私達は友人以上ではないから。
例えば頻度が減っても、例えば好きなものが違っていても、道が違えて交わらなくなったとて、形ある別れにはならない。ただ、私が好きなだけなのだから。
——ああ、そう言えば長く会っていなかったかしら?
そんな、さらりとしたものでしかない。
私の中の私は泣くが、それは仕方のないことで。〝友人〟には有り得てしまうことで。
ただ、今日の私が彼女を好きだったことは記そうと思う。
次に会ったとき、私は彼女に上手に告げられるかしら。
せめて、私のいちばんの笑顔で告げたい。ふわりと彼女が笑み返してくれたらば、それはなんて幸福だろうか。
「大好きな貴女。結婚おめでとう。貴女の描く絵が好きだった」